THE FATES

4.呪縛(6)

 亜須久はただひたすら、祥楼路をうろついていた。行くあてなどない。宿には戻れなかった。自分がどんなにひどい顔をしているか、よくわかっていたのだ。これ以上誰にも気遣わせたくなかった。特に加依に会えば、傷付けてしまう気がしてならなかった。そのため、一旦は帰りかけた足を、亜須久はまた引きとめたのだった。
 腹立たしいほど、街の様子は変わっていなかった。歩いていると様々な記憶が去来した。
 明け方、気が付くと亜須久はある長屋の前まで来ていた。
 思い出したように雨が降る。亜須久はそれを避けず、濡れるままに任せていた。足早に道を行く人の視線が、背中に容赦なく突き刺さる。誰もが、家路へと急いでいる。祥楼路の陽が落ちる。
『お前は逃げられないんだよ、亜須久』
 心が乱れている。反発する気持ちと微かに期待を寄せる気持ちが、交互に水面へ顔を出した。
 濡れた髪が額にへばりつく。亜須久は引き剥がすように髪をかきあげた。衝動が胸をつく。この戸を引き開け、中にいる者を絞め殺したなら、この雨が全て洗い流してくれるだろうか。胸に巣食う虚しさも悲しさも浄化してくれるだろうか。弱さから出た誘惑に亜須久は夢を見た。戸に手を伸ばす。遠くで雷が響いた。刹那の幻惑から覚め、亜須久は一歩二歩と後ずさる。絡み合う欲望の腕を押しとどめて、その場に背を向けた。
「亜須久」
 女の声が彼を呼んだ。亜須久は立ち止まった。
「亜須久でしょ」
 理性は無視をしろと言う。しかし心は無様なほどに彼女の姿を求めていた。駆け寄ってくる足音に、亜須久は理性を失った。すぐさま振り返ると、亜須久は自分にしか聞こえない声で、翔華(しょうか)と呼んだ。
 翔華はずぶ濡れになった亜須久を、差していた傘の中に入れた。
「風邪ひくわ」
 彼女の声は優しく、離れていた半年の隙間は一気に消えた。特別な格好をしているわけではない。だが彼女の美しさには誰もが目を惹かれる。少し濡れた目元は甘すぎず涼やかである。鼻筋は筆で描いたように滑らかで、絹のような肌と紅を差した唇は艶っぽかった。
「さっき周防さんの所で聞いて、急いできたの。見かけたっていう人もいたから、もしかしたらここじゃないかと思って。良かった。戻ってきてくれたのね。もう、私たちのことなんて忘れたのかと思ってた」
 周防という名に、亜須久は眉を揺らす。そのとき、半年で何かが変わっていることに期待していたと気付いた。あの部屋に、翔華がいなかったことで抱いた期待だった。
 自分の知らないうちに、都合のいいようになってはいないかという期待。自分の力で変える勇気もない。亜須久は臆病な自分をぐっと堪えた。
 雨足が弱まった。
「翔華」
 亜須久が彼女に呼びかけたとき、長屋から奇声が上がり、物が割れる音がした。
「伊純!」
 翔華は顔色を変えて、湿気で開きにくくなった戸を引いた。中は朝から降り止まない雨のため薄暗い。亜須久はどこまでも続く闇に見えた。そこには雨音さえ入り込めない静寂があった。
「伊純」
 翔華は中を窺って進む。しかし亜須久は一歩を踏み出せず、傘を差したまま立ち尽くしていた。翔華が亜須久を振り返る。哀願するような眼差しに、亜須久は奥歯を噛み締めた。彼女は諦めて、俯き気味に部屋の中へと消えていく。闇に吸い込まれていく着物の裾が、彼に何かを訴えているようで、亜須久は傘を投げ捨て戸口に立った。
 不気味な静けさが部屋の中を満たしていた。狭い土間には白い陶器の破片が散らばっている。描かれた柄を見て、それが父の愛用していた酒器だったと思い出す。
「伊純、どこ」
 部屋は決して広くない。翔華は濡れた服に構わず辺りを探した。亜須久はその様子を他人事のように眺めて、あまりにも暗い部屋に思索をめぐらせた。この家に棲みつく呪縛が養分を吸い上げ厚みを増して、光を遮断しているに違いなかった。
 亜須久は動けなかった。後ろへ逃げ出すことも、前へ進むこともできなかった。繰り返していると思いながらも、避けられなかった。全てを克服したつもりで皆を率いていたが、全て幻想だったと思い知らされた。
「ああ、伊純!」
 翔華が悲鳴に近い声で嘆いて、奥の部屋へと入っていった。亜須久の指が痙攣するように引き攣った。中から狂人の笑声が上がった。次第に指は震え、亜須久は爪が食い込むほどに手を握り締めた。
 足元には陶器の破片。亜須久は笑い声を耳に煩わしく感じながら、それを見つめていた。不幸の元凶を植え付けた父の姿がよぎる。亜須久は今でも思うことがある。母は父を、本当に愛していたのだろうかと。亜須久はずっとその思いに囚われてきた。母のことを理解しようとすることでしか、亜須久は自分自身の存在を受け入れることが出来なかったのだ。
 しかし最近では何かが変わり始めていた。家や生い立ちとは関係なく、夜上亜須久という個体を見てくれる親友ができた。仲間ができた。彼らは亜須久に無償の信頼を与えてくれる。その心地よさは、木漏れ日の中の揺りかごのようだった。
 雨が嘲笑っている。陽は翳り、揺りかごは泥にまみれた。
 部屋の中から体を引き摺る音がした。反射的に顔を上げる。
「亜須久だな」
 しわがれた、老人のような声がした。そこには兄の伊純が腹這いになっていた。横に翔華が駆け寄る。伊純は翔華の手を振り払って体を起こし、座り直した。胡坐をかき、真っ直ぐ亜須久を見つめる。肩まで伸びた髪は乱れ、衣服もよれて破れている。頬は窶れ、目は落ち窪み、眼下に浮き上がる隈は、彼の濁った眼光を引き立たせていた。
「そうなんだろう。返事くらいしたらどうだ」
 亜須久は無言を押し通す。
「黙っても無駄だ。俺にはお前のことなんてすぐわかるんだよ。お前はあの薄汚れた女と、同じ血の匂いがするからな」
 伊純は喉を引き攣らせて笑う。しかしすぐに激しく咳き込んだ。明らかに、伊純の症状は悪化していた。
 伊純の体は骨の髄まで麻薬に冒されていた。彼の中毒症状には極端な偏りが見られた。記憶の混乱などはほとんどないが、嘔吐や吐血などの症状は、輪をかけてひどかった。亜須久は何度もその偏りを呪った。どうせなら自分のことを忘れてほしいと祈るように呪い続けたが、それは今でも叶っていない。
 咳込み血を吐く伊純に対し、翔華は悲痛な面持ちで背中をさすった。
「お前、どこに行ってたんだ」
 伊純は顔を上げ、血の絡んだ声で問う。
「何の関係がある」
 口元が歪むのを必死で堪えて、亜須久は低く小さな声で突き放した。
「ふん。大有りだ。なにしろ、お前には俺の面倒を見る義務があるんだからな。俺を生かし、俺のために働く義務さ。じゃないと、お前、どうやって親父に顔向けするっていうんだ。さあ、今日もあるんだろ。薬を持ってきてくれたんだろ」
 翔華は身を乗り出した伊純を押さえつけるが、今にも振り払われそうで見ていられなかった。それでも亜須久の体は堅く、動けない。
「知ってるか、兄貴が一ヵ月後に死刑だってよ」
「嘘だ、そんなはずない。軌成(きなり)は何もしてないって、だから大丈夫だって言ってたじゃないか!」
 亜須久は思わず叫んだ。
「さぁな、俺にはそんな難しいことはわからん。だけど現実はこうなんだよ。軌成は死ぬんだ。この意味がわかるか。これで家族は俺とお前だけになるんだよ」
 亜須久は胸に圧し掛かってくる重さに黙り込んだ。脳裏に宿で待つ仲間の顔が浮かんだ。亜須久は伊純を睨みつけて、土間に足を踏み入れた。靴の底で破片が砕けていく。彼はそのまま部屋に上がり、片膝をつく伊純の前に立った。伊純が長身の亜須久を見上げ、亜須久は薄汚れた伊純を見下ろす。
「薬は持ってない。俺は梗河屋と手を切った。借金ももうない。ここに来るのは、これで最後だ」
 そこまで話して、亜須久は急に不安になった。冷静なつもりが、指先は小刻みに震えていた。気付かれまいと、拳を握る。心は、痛みと拒絶感に打ち震えていた。見透かしたように伊純が頬を引き攣らせて笑った。
「自分の向き不向きを忘れるな。お前は黙るのは得意だが、嘘は苦手らしい。お前がここから離れられるはずないだろう。あの男がお前を手放しはしないさ。そもそも、お前に出来るはずがないんだ。お前がお前である限り、その血からは逃れられないんだよ」
 亜須久は返す言葉を失う。伊純の言葉はあまりにも的を射ていた。
 ただ闇が満ちる。背後から差し込む弱々しい光は、闇に飲み込まれていく。動くものはない。全ては立ち止まり、亜須久は眩暈を覚えた。
 時が、引き戻されたようだった。

 照り付ける日差しが肌を焦がした。ひどく蒸し暑い、雨季の晴れ間の日だった。亜須久が働いていた建設現場に、身なりの整った二人連れの男が訪れた。胸元に輝く銀色の徽章(きしょう)からすぐに梗河屋の者と知れた。子供ながらに体格に恵まれていた亜須久は、屈めていた腰を伸ばして眩しさに目を細め見た。
 男たちは現場の責任者と一言二言交わすと、真っ直ぐ亜須久の元へ来た。
「君が夜上伊純の弟、ああ失敬、義理の弟さんかな」
 黒尽くめの詰襟を着た男は、遮光眼鏡をおもむろに外してにこやかに首を傾げた。亜須久は黙って二人を見つめる。
「義理の弟さんかな」
 男はゆっくり言い直し、亜須久に顔を近づけた。
「君の答えなど待っていない。選択権はないんだよ。わかるかな」
 亜須久は顔を歪めて、男から離れる。しかし腕を強く掴まれた。
「お母さんを助けたいだろう」
「え」
 脳裏に病身の母の姿がよぎる。亜須久の母の体は、二十三という若さにも関わらず酷使され擦り切れたぼろ布のようだった。貧しさから医者に診せることもできずにいた。
「母さん、本当に助かるのか」
 亜須久は幼い手で男の手を握り返し、次の言葉に未来を求めた。
「ああ、俺たちについてくれば」
 そう言って男は亜須久の頭を優しく撫でた。その日、亜須久は仕事を辞めて、彼らについて祥楼路へと足を踏み入れた。
 初めて歩く祥楼路は、亜須久にとって郷愁が漂っていた。遊女だった母は、十五のときに祥楼路で亜須久を産んだ。意識の中に何も残っていなくとも、体や魂には祥楼路に鳴り響く珪月(けいげつ)の音色が刻み込まれていた。濃密に焚き染められた香も、母のかおりがした。
 つれられたのは、梗河屋の本部だった。通された部屋には、何人もの男が立ち並び、正面には一人の男が車椅子にかけていた。亜須久はその男の前まで腕をひかれた。顔を上げると、初老の男が皺だらけの顔で微笑んでいた。背筋が凍った。
「伊純の義弟か」
 指輪の填まった手で頬を撫でられた。一見すると商人のような顔つきだが、笑い皺の奥からは、経験したことない威圧感が眼光に巻きつき覗いていた。それが当時の総長、梗河斗珀(とはく)だった。
「不憫だな。まだ十歳にも満たないのに、家族を背負う運命とは」
 斗珀の声には外見にそぐわない張りがあった。穏やかな口調が亜須久に亡き父を思い出させた。
「恨むなら、運命を恨むがいい」
 周囲から失笑とも憫笑ともつかぬ息が漏れた。
「周防、お前はいくつになった」
 斗珀が背後に声をかけると、一人の男が一歩前に出た。背が高く、顔は氷のように冷たく刃物のように鋭かった。
「二十七になります」
 周防は他とは違った空気を纏っていた。亜須久は周防に聡明な印象をもった。
 斗珀はじっと亜須久の目を覗き込むと、車椅子ごと振り返り小さな背中を押した。
「お前が見ろ。仕事の選択は任せる」
「わかりました」
 言って亜須久を見た周防は、静かな微笑を含んでいた。
 その日から梗河屋での生活が始まった。