THE FATES

1.始動(1)

 街は闇に包まれ、呼吸の一つもできないほどに静まり返っていた。
 少年は塀に張り付き屋敷の中を窺っていた。家人は眠りについたのか、動く気配は感じられない。彼は目を輝かせて跳躍し、塀を越えた。敷地内は一層静かで、庭の水面が風に揺られているだけだった。植え込みから顔を突き出して辺りを見回すと、そばの大木によじ登り屋根に跳び移った。そこに耳を押し当てる。
「ちょろいちょろい」
 少年は嬉々として呟くと、屋根の端につま先を引っ掛けて宙吊りになった。逆さになった目の前には、観音開きの窓がある。仕入れた情報によると、ここに目的の物があるはずだった。背後から差す月光が、部屋の中をほのかに照らす。窓には少年の姿が映り込んでいた。せわしなく動く空色の瞳は、期待に満ち満ちている。
 中を覗き込むと、壁にはぎっしりと本が並んでいた。少年は悪戯好きする口元を緩めると、窓枠を隅々まで調べ、金具の隙間を見つけた。小指ほどの小さな工具を取り出すと、隙間に差し込み回したり突付いたりを繰り返す。すぐにも閂の外れる音がした。少年はまじない代わりに腕輪を撫でた。
 そっと窓を開けて器用に中へ入ると、暖かい空気が肌に触れた。部屋には印刷液の匂いが充満していた。若干の嘔気をもよおす。
「なれないなぁ」
 苦笑して本棚を見上げた。天井まで届く本棚には、様々な種類の本が並んでいた。少年は舐めるように背表紙を見て、目的の物を探す。中には無地の物もあった。多少面倒に感じながらも少年はその一つを手に取る。開くと地図があった。それはアミティスの世界地図だった。
 アミティスは大きな四つの大陸と、それを取り囲む海からなる天体である。それぞれの大陸を俗界(ぞくかい)精霊界(せいれいかい)魔界(まかい)竜樹界(りゅうじゅかい)といい、種族ごとに住み分けていた。常に世界の覇者たらんと様々な陰謀が繰り返され、多くの命が争いの中で消えていった。
 少年は字面を斜めに読みながら、頁を繰る。興味なさげに首を鳴らす。目にかかる空色の髪を無造作にかきあげた。
 事情が変化したのはここ数十年のことだ。少年が生まれる前に、俗界はいくつもの国に分裂していた。精霊界は争いの日々に終止符を打つと、それを知らしめるために大陸奥地へと身を潜めて結界を張った。魔界は魔族の中から首長の才覚を持つ者が現れると、多様な種族を統率し始め、反乱する獣族を鎮める役を請け負った。そして竜樹界は、その頃から一切の動きがなくなった。
「はずれか」
 少年は本をめくりながら気落ちした声で呟いた。暗い部屋にため息が大きく響く。彼の瞳の輝きは雲に隠れた月のように、なりを潜めてしまった。肩を落として本を戻す。緩慢な様子で他の背表紙を眺めるが、手に取る気力は失せてしまっていた。
 収穫を諦めて屋敷から立ち去ろうと少年が本棚に背を向けた瞬間、視界の隅で動くものがあった。疑問に思い再び本棚に向き直ると、整然と並んでいたはずの本が一冊なくなっていた。そこからはうっすらと明かりが漏れている。少年は一度辺りを見渡してから、突如現れた隙間を覗いた。その奥には、目が見開かれていた。
 少年はとっさに本をずらして目をふさぐ。心臓が高鳴る。喉が詰まる。
 廊下に複数の足音が響いた。油の匂いがつんと鼻を刺す。
 部屋が俄かに浮かび上がった。
 扉を振り返ると、そこには少年より一回りも二回りも大きな体躯の男が数人並んでいた。彼らの奥には、さきほど少年と目が合った人物もいた。手には燭台を持っている。小太りの男で、額は燭台の灯かりを受けててらてらと光っていた。男が叫ぶ。
「盗賊だ、捕らえろ!」
 掛け声に、数人の男たちが少年めがけて襲いかかってきた。
「ありえねーっ」
 一体どこにこれほどの人数が潜んでいたのか。自分の嗅覚に自信を持っていた少年は悔しさに奥歯を噛んだ。
 少年は男たちを俊敏な身のこなしでかわすと、入ってきた窓の方へと駆け出した。
「馬鹿め、ここは二階だ。逃げられんぞ!」
 男の高笑いが響く。少年にいくつもの手が伸びる。
 少年は前を睨みつけて歯を食いしばる。身構えて肩から窓に体当たりした。鈍い痛みが肩から全身をめぐる。少年の体は窓を突き破って宙へと放り出された。追いかけていた男たちは、予想外の少年の行動に思わず立ち止まる。割れた破片が、月光を満たして輝く。
 放り出された体が地面へ落下する前に、少年は両腕を突き出して反転した。何事もなかったかのように立つと、得意げな笑みを浮かべて、二階の窓を見上げた。
「誰が逃げられないって?」
 割れた窓辺に、男が現れる。
「まだ青いな、賊」
 口元はまるで悪人のように歪んでいた。怪訝に思った少年が首を傾げる間に、一階の部屋から警護の男が二人飛び出してきた。
「ははーん、そういうこと」
 目を細めて納得すると、少年は膝をしならせ跳び上がった。窓に張り付いたままの男の目前を、少年の空色の髪が通り過ぎていく。驚愕のあまり、男から言葉は出なかった。一目散に階下へ向かって走り出す。
 少年は屋根の上に降り立つと、少し肩を落とした。足の裏が痛む。
「跳ね過ぎた」
 頭上に月が煌めいている。夜だというのに、少年の髪色は明け方の空のようだ。この世のものとは思えないその色合いに、下にいる者たちは口を開けて呆然としていた。小太りの男が転げるようにして庭へ出てくる。
「小僧! 降りてこい!」
 少年は勝ち誇ったように笑った。
「俺を捕まえる気があるなら、もっと面白い本を置いて、俺を釘付けにしてみな。今のあんたのセンスじゃ、夢中にはなれないね」
「なんだとっ」
「じゃあね」
 少年はにっこり微笑んで手をひらひら振ると、屋根の向こうへ行ってしまった。あとには空色の風が続く。嵐が軽やかに過ぎていったようだった。
「な、何をしている! 早く追わんかっ」
 男は雇った男たちの背中を叩き、唾を飛ばしながらまくし立てる。
「誰か! 誰か投影師(とうえいし)写真師(しゃしんし)を呼んでこい!」