THE FATES

4.呪縛(10)

 伊純の遺体は座り込む翔華の奥にあった。物のように転がったまま動く気配はない。
 伊純が死んだ。
 内側にあった防壁の、無残に崩れていく音が鼓膜の奥でうるさかった。あんなに憎み、嫌っていた男が死んだというのに、勝利の笑みすら浮かんでこない。
 亜須久は伊純の元へと寄り、膝を落としていた。
 彼の存在が重く、ここから逃げ出したくて仕方なかった。その思いに偽りなどない。けれど彼の心は、同時に大きな原動力をも失った。兄を否定することで正当化してきた自分の存在が見えなくなりそうだった。瞼を閉じれば涙がこぼれそうで、亜須久は乾いていく目で義兄の亡骸を見つめていた。
「亜須久」
 翔華の呼びかけに、亜須久は何の反応も示さなかった。彼女は猫のように亜須久へ擦り寄って顔を見上げる。
「どうするの」
 細い爪が遠慮がちに亜須久の手を引っかく。亜須久はその手を握り返した。翔華は痛みに顔をひそめた。亜須久は翔華の指に自分の指を絡め、握りなおす。
「来ないか、一緒に」
 翔華は垂れ込める雨雲のように塞いだ。
「伊純がくれた、最初で最後の機会だ」
 亜須久は翔華の髪を撫で、耳に触れて顔を向けさせた。
「逃げよう、周防から」
 手のひらの中で、彼女は歪んだ笑みを浮かべた。亜須久は手首を片方掴まれ、そこに懐剣を宛がわれた。翔華は亜須久の手を振り払った。
「自惚れるのも大概にして。惚れ合ってると思っているのは、あんただけよ。あたしはあんたみたいな馬鹿な男は嫌いなの」
「知っている」
「あら、それなのに駆け落ちのお誘いかしら。わからないわ。あんたも伊純も、周防さんも」
 亜須久は最後の名前に目を丸くした。翔華は艶かしく笑う。
「意外みたいね」
「周防に惚れていたんじゃないのか」
 懐剣を握る手に力が入り、刃が亜須久の肉に食い込んだ。
「そうよ、だからわからないの。だから悔しいのよ」
 亜須久はすぐにその言葉を解せない。刃を伝い、血が滴り落ちた。

 亜須久に背を向けた瞬は、しかしそこから離れる気にならなかった。長屋の裏で後ろを振り返る。降り続く雨は孤独を残して水捌けの悪い土へと落ちていく。瞬はその様子を無感動に眺め、額に張り付く髪を後ろへ追いやった。
 昨晩の勝手な納得も、そろそろ期限が切れそうだった。押し込められたことで勢いを増した気持ちが、腹の底で渦を巻いて蠢いていた。吐き気が込み上げた。
 瞬はただ怖かった。亜須久と翔華が離れ、それを目の当たりにするのが怖かった。亜須久の気持ちが痛いほどわかるから、繰り返させたくなかった。だが自分が介入したときには、全ての歯車は回っていた。そしてそれは今、止まろうとしている。
 昔は何でもできると思っていた。万能だと思っていた。少なくとも、世界に存在するあらゆるものを動かせると信じて疑わなかった。けれどそんな妄想は尽きようとしている。何もかもがうまくいかない。自分の気持ちすら、操ることができない。それが自然なことだと言った女の顔も思い出せない。
 笑いがこみ上げてきて、瞬は長屋の壁に凭れて喉で笑った。鬼使と呼ばれていた自分が、今ではまるで虚像のようで少し嬉しく、少し寂しい気がしたのだ。
 遠くで話し声がして、瞬は自嘲を飲み込んだ。水溜りを跳ね上げる足音が雨音の不協和音になる。瞬は真剣な眼差しになり、気付かれないよう長屋の裏口へ向かった。そこでは黒い詰襟を着た男が、銃を手にして中を窺っていた。物腰から経験の浅さが滲む。瞬は雨に濡れる唇を歪めて笑った。
 乗りかかった船なら、沈没するまで付き合おうと腹をくくり、瞬はあたりの様子を調べるため、表へ向かった。垣根の陰から窺うと、同じ服装の男が五人はいた。
 瞬は楽しそうに笑って、手のひらに作り出した金色の粉を勢いよく吹いた。軽い身のこなしで、路地から飛び出る。男たちは瞬の存在をすぐに目に留めたが、声を上げる余裕はなかった。彼らは一瞬、走馬灯のように目の前に揺らめいた幻想に倒れていく。電光石火のような瞬の奇襲に、彼らは為す術なくその場に崩れていった。あくまでも殺しはしない。しばらく、眠っていてくれればいい。
 表にいた全員を倒して、瞬は自分の力が震えているのに気付いた。しかし特に気に留めず、瞬は再び裏口へ向かった。泥水を跳ね上げながら、真っ直ぐに男を見て取れる位置まで戻る。変わった様子はない。瞬はしゃがみ込んで、両手に泥水を掬い上げた。手のひらですり合わせながら、力を加える。重力から解放され、泥水は浮き上がる。純化の速度は上がり、実存は曖昧になり、ただ感覚的な存在だけが残っていく。端が金色に光る。あとは息を吹き込むだけだ。息を吸った瞬間、上から影が落ちた。
「何者だ」
 横から太い腕が伸びてきたと気付いたときには、首を締め上げられていた。術は不完全なまま泥に還る。瞬は高く持ち上げられ、足をばたつかせた。苦しさに目の前が朦朧とした。頭を後ろへ勢いよく振って、男の顎を打った。男は痛みにうめきをあげ、腕を緩めた。その隙に瞬は逃れて息をした。しかしすぐに男が覆い被さって来、二人の体はもつれて転がった。
 その音で裏口にいた男も瞬に気付いた。震える手で銃を向ける。瞬は小さく舌打ちをした。腹の上には、瞬より二回りも大きい男が伸し掛かっていた。背中は雨でぬかるんだ泥に沈む。服は泥に染まった。男は瞬の濡れた前髪を押しやって顔を覗くと、卑しい笑みを浮かべた。
「見ない顔だな。新しい男娼か。しかし何で亜須久なんかを庇ってるんだ」
「黙れ、能無し」
 押さえつけようとする男の手をかわし、瞬は必死に抗った。ところがすでに両足をおさえつけられ瞬に為すすべはなかった。両腕は男の腕一本でまとめられ、もう片方の腕できつく顎を掴まれた。
「きれいな顔して、能無しとはよく言ってくれたものだな」
「お前みたいにただ図体がでかいのは、能無しと相場が決まってるんだ」
「こいつ」
 男は顎を掴んでいた手で瞬の顔を思い切り殴りつけた。骨と骨のぶつかる音がして、瞬の顔半分が泥にめり込んだ。
「どうやら状況がよくわかってないようだな」
 再び瞬の細い顎を掴む。反射的に瞬は男を睨みつけた。男は喜悦の色を浮かべて唇を舐めた。
「おい、すごい目の色だな。これじゃまるで、鬼使・瞬じゃねえか」
 思わず大金を手にした時のような恐怖と、快楽を目の前にしての興奮が男の顔に揺らめいた。
「俄然やる気出てきたぜ」
 呟くと男は懐から銭入れを取り出し、巻き付いている紐を口で解くと、瞬の腕をそばの配管に縛り上げた。強い紐でもないのに、いくら動かしても切れる様子はなかった。
「ここで俺に手を出したら、そこにいる男にお前の性癖がばれて、後々困らないか」
 瞬は力の限り体を捻り、男の手から逃れようとする。
「心配するな。みんな俺が両刀だってことくらい知ってる」
「ふざけんなよ」
 男は手馴れた様子で、服の止め具を外していく。
「くそっ」
「安心しろ、お前みたいな上玉を粗末にはしねぇさ」
「きさま……っ」
『他の仕事がしたいんだろ』
 不意に蘇った男の言葉で、全身に震えが走った。
『体を売るより、殺しの方が失うものは少ない。要は慣れればいいのさ』
 ほとんど無抵抗になってしまった瞬の脚を、男は脇に抱える。
『そう。慣れてしまえば、どれも同じさ』
 瞬の脳裏には血だまりが広がった。白かった上着は、たちまち赤く染まった。雨音がこだまする。
 そう、あの日も雨だった。
 封印したはずの記憶が、引き金を引かれて動き出す。
『人はそうやって毎日生死を乗り越えていくんだ。眠ることは死ぬことだよ、瞬』
 他より一層黒ずんだ雷雲が上空を覆う。わずかに漏れていた光さえかき消される。それは瞬が無意識に呼び寄せたものだった。男が侵入する直前、瞬は体をくねらせた。本能という無意識だけが、彼の体を動かしていた。
 ならばその時、約束を思い出せたのも無意識か。
『誰も殺さないで』
 瞬は幸福そうに目を細め、涼やかな記憶に身を委ねる。男の背中をいかづちが這い抜けた。濁った悲鳴をあげて、男はそのまま瞬の上に倒れ込んだ。重みが明瞭な意識を瞬に与えた。自分の犯した事態に目を瞠った。焦って顎の付け根に頬を寄せる。なんとか鼓動は確認できた。約束を死守できたことに瞬は安堵の息をついた。瞬は頭上の配管を見た。立て付けが悪く、釘が飛び出ていた。
 汚れた足で泥を蹴り、男の体を揺り動かしながら上体を起こした。息が切れた。
 紐を釘の頭に引っ掛けて準備は整った。瞬は放電した。焦げる匂いが漂うが、すぐに雨に消えていく。手首には赤い筋がいくつも残っていた。瞬は泥だらけの服を着直す。
 そして銃口が向けられていることに気付いた。
 男は蒼白な顔で瞬を見ていた。瞬は雨に歪むその向こうをじっと見据えた。男は瞬の力を見て、内側に迷いを生じさせていた。家の中と瞬を交互に見遣る。だが結局答えが出せずに、決断力のなさに焦っているようでもあった。
 瞬の中で何かが壁を叩き始めた。目覚めるように全てを悟った。
 先ほどからの自分の行動は、男を追い詰めているに過ぎなかった。瞬は何か策がないかと考え出すとともに、後ろへ数歩下がった。瞬には移動法がある。たとえ男が素早い行動をとったとしても、すぐに食い止める自信があった。下がりながら、その計算をする。
 圧力から解放された男は、すぐに家の方に向き直り、拳銃をその中へ構えた。直後、雨に遮られてくぐもった銃声が響いた。瞬は呆然とその場に立ち尽くす。
 瞬は移動法が使えなくなっていた。

 * * *

 亜須久に今すぐ会いたいと言い出した玲妥を、加依は止めることができなかった。
 二人は部屋を飛び出すと、真っ直ぐ亜須久の家へと向かった。場所は加依が知っていた。亜須久から一度だけ聞いたことがあった。澱みなく思い出せたのは、それが亜須久の初めて語った自分のことだったからに違いない。
 外套が風に引っかかり、思うように走れない。加依は雨に濡れるのを厭わず、外套を脱ぎ払った。斜め後ろで玲妥が驚いて声をあげる。
「加依、風邪ひくよ」
「大丈夫です」
 雨を浴びて走っていると、自然と声も大きくなる。それがひどく気持ちよかった。
 狭い道から大通りに出る。雨の向こうには広場が見えた。加依は先行して広場の中心まで行き、方角を確認すると脇道に入った。
 全力疾走しているわけではないが、幼い玲妥には厳しかった。距離が開いた。加依は立ち止まり、玲妥を振り返る。彼女は懸命に腕を振って走り寄ってきた。加依は彼女に気付かれないよう、そっと微笑む。
「この奥です」
「もう少しだね」
 息が切れて苦しそうだった。加依は背中に手を伸ばし、優しくさすってやった。
「すみません、速かったみたいですね」
「ううん、全然大丈夫だから。ありがとう」
 その時、かなり近くで銃声が響いた。目顔で頷いて奥の筋へ向かう。細い道を抜けるとそこには、見るからに屈強な男たちが、死んだように倒れていた。
「なに、これ」
 玲妥が力なく言葉をこぼす。二人はしばらくただ呆然とその場に突っ立っていた。
 視界の隅に影がよぎり、玲妥は顔を上げた。路地から瞬が現れた。髪や服は泥にまみれ、全身ずぶ濡れになっていた。
 瞬は押し黙る二人に気付き、曇った瞳で凝視する。その瞳はどんな場所でも最高の美しさを誇るはずなのに、今は泥に覆われているようだった。
「瞬」
 玲妥が弾かれたように駆け寄っていくが、瞬は何も言わずに顔を背け、宿とは正反対の方角へと消えていった。
 玲妥には、瞬が泣いているように見えた。