THE FATES

4.呪縛(11)

 とっさに翔華の身を庇い、亜須久は横に倒れ込んだ。亜須久の手首に当てられていた翔華の懐剣が、肉を走り離れていった。痛みに顔を歪ませたが、すぐに立ち上がり裏口へと駆ける。しかしそこには鼠一匹いなかった。雨が灰色の空から落ちてくるだけだ。
 後ろから翔華の自嘲気味な笑いがした。亜須久は怪訝そうに眉を寄せ、彼女の元へと戻る。
「信用されていないのね。あたしが逃げるわけないのに。なのにあの人は」
 嘲笑を引き裂いて涙が落ちる。この仕打ちは周防以外に考えられなかった。
「それとも、あたしのことが邪魔に」
 亜須久は首を振って、周防を絞め殺したい衝動を抑え込む。
「翔華」
「気安く呼ばないで。あんたが梗河屋へきてから、あたしはさんざんよ。いいことなんて何一つなかったわ。確かにそれまでが良かったわけじゃないけど、今よりましだったわ」
 懐剣を再び握り直し、翔華はきつく亜須久を睨みつける。
「安心なさい。どうせあんたはここから逃げられないんだから。信用できるような人も見つけられず、一人寂しく死んでいくのよ。あんたは逃げられない。この家からも、客からも、周防からも、そして亜須久、あんた自身からも」
「俺の」
 言い澱んで、唇を噛む。亜須久は自分の腹を割くように言葉を紡いだ。
「俺の何が許せない」
 その問いに完全に嘲笑を拭われて、翔華はしばらく亜須久を見つめて黙り込んだ。美しく結い上げられていた黒髪も今では無残に乱れ、涙に顔を汚されてはいたが、亜須久は心の奥から、これほど綺麗な女は他にはいないと感じていた。一体どこに、穢れがあるというのか。遊女として育った少女時代、誰かのものとして過ごした梗河屋での毎日。
 何が、どこが。
 この瞳の前ではそんなこと関係ない。それは彼女自身の卑下に過ぎない。
 翔華は亜須久を見つめたまま、ふっと力なく笑い、そうねと呟いた。
「許せないというなら、あぁきっと、誰よりも愛されたいと思う女としての自尊心だわ。あたしはずっとあんたのことが羨ましかったのよ、亜須久。どれもこれも歪んだ表現ではあったけれど、愛されていたあんたが」
「翔華」
 亜須久は彼女の細い体を、貪るように抱き締めた。嗚咽は聞こえない。けれど空気は彼女の涙を伝えてくれる。座り込んだ二人に、全ての時が動きを止めた。
 やはり自分は彼女を愛していると実感しながら、きっと自分の大切なものは、彼女なのだと思いながら、いくら彼女に許しを請えなくても、いくら彼女に疎まれても、自分はこの命果てるまで彼女を想い続けるだろうと亜須久は強く思った。
「伊純……」
 せせらぎのような落ち着いた声だった。
「あんたがもっと早く、くたばればよかったのよ。そうすればあたしは、もっと早くあの人に飽きられて、そしたらあたしは、ここまであの人に溺れることもなかったのに。ほんと、役に立たない奴ばっかりで大変よね、周防さんも」
 亜須久がうっすらと目を開ける。視界の隅で何かが煌めいた。彼には一瞬、何が起こっているのかわからなかった。
 それは、翔華のいのちの煌めき。
 亜須久が気付いたときにはもう遅かった。頚動脈を斬った翔華の体は、痙攣を起こす。辺りは血の海だった。彼女の体が急に重くなった。
 この重みは、何だ。
 どうしたら体が動くのか。どうしたら声が出るのか。そんなことも忘れてしまった。亜須久は彼女を抱き締めたまま、しばらくじっとその重みを感じていたが、腕を動かせることを思い出し、翔華の体を引き剥がした。徐々に消えていく頬の温もり。見ると、翔華の首筋からは今も鮮血が溢れ出していた。これは、彼女が流す最後の涙だった。亜須久にとめるすべもない。
 張り上げる声など。
 拭う涙など。
 とうの昔に、その仕組みなど忘れてしまった。
 けれど、わかってほしい。自分のこの胸のうちを。
(お前のことを誰よりも愛していた男の、どうしようもない想いを)
 亜須久は消え行く温もりを、その果てまで感じ取るように強く抱き締めて、長かった雨がやむ気配も知らずにいた。

 * * *

 亜須久は瞬の部屋の扉を叩いた。中から返事はない。取っ手を捻ると、鍵は開いていた。部屋へ足を踏み入れたが瞬の姿はなく、代わりに水の音だけが横手から響いていた。間もなく音はやみ、そこから大きな浴布を腰に巻いた瞬が出てきた。洗い晒した髪はいつもより色素が濃く感じられた。
 まともに目が合い、亜須久は言葉を逃した。気を遣った瞬が視線を逸らす。
「なんだ」
 瓶から水を汲み、一気に飲み干した。波打つ喉が、艶かしかった。
「玲妥が部屋で呼んでる。みんないたぞ」
「ああ、わかった」
 瞬は呼ばれた理由を思い描き、濡れた髪を乾かす。亜須久は瞬の背中に小さな傷跡があるのを見つけた。よく見ると他にもたくさんの傷があった。思わず立ち去る機会を見失った。
「大切なものはわかったか」
 瞬は振り返り問う。亜須久の視線は宙に浮いた。
「悪い、困らせた」
 瞬は服を着ると、濡れ髪のまま部屋を出て行く。
「瞬」
 いつもと違った年相応の声に呼び止められ、瞬は後ろにいる亜須久の顔が想像できなかった。振り返らず、ただ立ち止まる。
「一番大切なものは、また出来るものか」
「さぁ、どうかな」
「お前はどうだ」
 凍るほどの沈黙に、亜須久は唾を飲み込んだ。瞬は肩越しに振り返り笑った。
「知らぬが華って、言うだろ」
 そう言って彼は角を曲がった。瞬の去ったあとを亜須久はしばらく見つめて、ふっと目を細めた。
「お前の華など願い下げだ」
 誰に言うでもなく、彼は微笑を浮かべ、そうこぼした。
 呪縛からは逃れられないと言った彼女が、結果として彼の呪縛を解いていた。その事実を知れば翔華は、どのようにして自分を縛り付けたのかと、嵐の去った夜空を見上げて亜須久は微笑んだ。
 翔んで逝った華は、果たして跡を濁さなかったのか。それとも。
 亜須久は服の上から、仕舞われた懐剣を握り締める。
『濁したに決まってるでしょ』
 そんな声が聞こえた気がして、嬉しくなった。

4章:呪縛・終