THE FATES

5.兆候(1)

 空は淡く澄み渡り、穏やかな陽光が肌に落ちた。両脇には畑が絨毯のように広がり、間を貫く農道には幾筋もの荷車の轍が残っていた。窪みには雨水が溜まり、濁った色で空を抱いていた。
 橙亜(とうあ)国を発って数日が過ぎた。一行はリガ共和国のコーレルという農村を南へ下っていた。ここは肥沃な土地と気候に恵まれており、アルス大陸でも有数の農作物の輸出国だった。多くの国で自給がままならないため、作物の商品価値は非常に高かった。
 振り返ると遠くに橙亜の山並が連なっていた。生い茂る緑で黒ずんだ山肌には、薄灰の雲が蛇のように這っている。亜須久(あすく)は表情を崩さずに再び前を見据えた。しかし光景に違和感を覚え、もう一度振り返った。亜須久の既知に気付いた加依(かい)が横に並んで言った。
(しゅん)なら、先ほどの林を抜けた辺りからいませんよ」
「そうだったのか」
「俺も少し前に気付いたんですけどね。多分、何かあったら合流しますよ」
「ああ、そうだな」
 亜須久は曖昧に返しながら、見つからないと知りつつ周囲を見渡した。青々とした水田には水鳥が列を成して掻き進んでいた。耳に届く鳴き声は頭の中で形式に摩り替わる。亜須久はこれが平和というものかと思った。
「亜須久は、どう思っているんですか。瞬のことを」
 加依は一点を睨みながら言った。亜須久は答えにならない相槌を返して黙した。
 玲妥(れいだ)が瞬に移動法を使ってもらおうと言い出したことがあった。普段の瞬は鬼使(きし)という名を忘れさせるほど静かな男で、一行に馴染んだようにも思われたが、彼が共にいる理由を考えれば、移動法を使わせるわけにはいかなかった。亜須久は玲妥にそう言って諭した。理屈で彼との関係を説明付けることは出来たが、亜須久の本心では明確な答えを出すことが出来ずにいた。
 亜須久は瞬に初めて会ったときのことを思い返した。傷を負った瞬の横顔と、記憶の中でよれた写真の鬼使が、亜須久には別人に感じられていた。その溝を埋める直観は一つしかなかった。
 人生を一転させた男。
 瞬が何を語ったわけではないが、亜須久は初めて会った瞬間にそれを肌で感じていた。鬼使・瞬は、自分の皮膚を引き剥し、その逃げようのない(さが)や宿命から抜け出てきたように見えた。その行為を成し遂げた者として目の前に立つ瞬は、亜須久にとって憧れの対象であった。祥楼路(しょうろうじ)で彼の背中を見送ったときにも、笑顔から滲み出る余裕が羨ましかった。だが同時に、彼の均衡を疑う目も亜須久は持っていた。瞬が理性や激情の合間に見せる無機質な表情を、亜須久自身も驚くような冷静さで見抜いていた。強い羨望が厳しい評価をもたらしていた。
「もしも、できるなら――」
「なんだってお前はそう、気分屋なんだよ」
 亜須久は後ろから上がった声に、自らの言葉を飲み込んだ。加依に続いて背後を振り返る。
由稀(ゆうき)にそこまで言われる筋合いはないと思うけど」
「見せるって言ったのは羅依(らい)の方だろう。しかも昨日はくれるとも言ってたじゃねぇか。見せたくないなら見せたくないって、最初に言えよな」
「女心は変わりやすいものなんだよ」
「都合よく女を振りかざすなよ、気持ち悪い」
 由稀が顔をしかめて呟くと、羅依の顔色は見る間に真剣になった。
「言っていいことと悪いことの区別を知らないみたいだな」
「それはこっちの台詞だよ。約束は守れ、ばか」
「わからない男だな」
 羅依は由稀の腕を掴み上げ、強く引っ張った。そばにいた玲妥は被害が及ぶのを怖れて、亜須久の方へと懸命に駆け寄る。亜須久は加依と顔を見合わせて失笑した。
「さっき、言いかけてましたよね。できるなら、何ですか」
「ああ、いや別に。聞いてみたいと思ったんだ」
「何を」
 加依の執拗な追及に亜須久は目を伏せた。
「どうすれば大切なものを守りきれるのか」
「大切なもの、ですか」
 再び前を向いて歩き出すと、冷たい手が亜須久の指に触れた。
「もうどうにかしてよ、あの二人。うるさいんだもん」
「そうだな。あいつらのせいで予定も遅れ気味だ」
「怒ってってば、あーちゃん」
 玲妥は心底疲れきった面持ちで、早歩きでついてきていた。亜須久は周囲の緑に目を遣って軽く息をついた。

 由稀は羅依を睨み付けて彼女の腕を振り払った。羅依が女だとわかったときから、彼女をそれ以上ぞんざいに扱うことはしなかった。由稀は羅依がそのことを知っていて暴挙に出ているかもしれないと思うと、腹立たしく、横に並んで歩くのすら受け入れられなかった。大きく足を踏み出し、倍の速さで歩き出した。
「おい、由稀」
 断固とした由稀の態度に羅依は驚き、慌てて後を追った。すぐに追いついて由稀の肩を持った。
「ごめん、別にあたしも意地悪してるわけじゃないんだよ」
 その言葉に由稀は横目で彼女を見た。羅依は口元に手を当てて体を寄せた。
「ほら、こんな道の真ん中で刃物なんて出したら、何事かと騒がれて保安係呼ばれるだろう。この辺りは裕福な家も多いから、そういう目が厳しいんだよ」
「そうなのか」
 由稀は感心するような眼差しで羅依に顔を向けた。羅依は珍しく機嫌をよくして笑った。
「各地を転々としてきたあたしの言葉を信じろって。な」
「なんか俺、騙されてる気がするけどな」
 小声で由稀が呟くと、羅依は由稀が咳き込むほど彼の背中を強く叩いて笑った。
「お前さんたち、旅の人かい」
 由稀の追及と羅依の笑い声に割って入るように、年配の男の声がした。羅依はさっと声を飲み込み、頬に緊張を走らせる。慌てないようゆっくりと振り返って、その近さに驚いた。話に気を取られていたとはいえ、声を掛けられるまで相手に気付かない自分の腑抜けぶりが恐ろしかった。羅依は由稀の服を掴んで立ち止まった。そこには男が木製の農具を肩に担いで立っていた。陽に焼けた肌が男を若々しく見せた。
 由稀は羅依ほどの警戒する素振りを見せず、一歩踏み出し前に出た。
「あぁ、そうだよ」
「どこまで行くんだ。荷物は少ないな。街まで行くのか」
 農具の柄を握る手は土で黒くなり、指先には草の汁が染み付いていた。
「アシリカのリノラ神殿まで行くんだ」
「おい、由稀」
 羅依が後ろから由稀の上着を引っ張った。
「答える必要なんかないだろう」
 視線は男から離さずに、羅依は小声で言った。由稀は小さく唸って首を捻った。
「別にそこまで」
「お前は雪の中で育ったからわかんないんだよ」
「人を田舎者扱いしやがって」
 由稀は羅依を振り返り、歯を剥いた。
「雪の中ってことは、ミグの方から来たんだな」
 男は二人の様子を微笑ましく見つめながら問うた。故郷の話に、由稀は一気に機嫌を直した。
「おっちゃん、よく知ってるんだな」
「ミグにも野菜を届けるからな。知ってるよ」
「じゃあ、ラルマテアって知ってるか」
「おお、最北だな。ついこの前までは雪がなかったが、そろそろ降り始めるだろう。行くのに難儀するんだ」
「馬車が通れるのは大通りだけだしな。もう雪か。松明溝(たいまつこう)の掃除しなきゃならないな」
 由稀は雪の冷たさを思い返した。肌を斬るような寒さも、今はただ懐かしかった。家の前に掘られた深い溝には、雪を解かすために松明が焚かれた。掃除はいつも由稀の役目だった。
「ずっと歩いてきたのか。骨の折れることだな。そうだ、いい話があるんだが、どうだ」
「いい話」
 横で聞いていた羅依が眉を顰めて呟いた。それは話に乗る態度ではなかった。男は気にする様子なく頷いた。
「急な注文が入ってな、うちの倅がガルダコモの都まで運びに行きやがる。でも荷が中途半端なんだ」
「だから何だ」
 羅依は尖った口調で聞き返す。その隙に、由稀は先に行ってしまった仲間を見遣った。全員が立ち止まっていた。
「疑り深いお嬢さんだな。想像して見ろ。馬車の荷台に幾つかの木箱がある。道中はなだらかな道じゃない。当然揺れる。そうしたら商品が傷むだろう」
「はぁ、まあ」
 羅依は男の言わんとしていることが読めなくなっていた。
「そう。それでだな、お前さんたちその荷台に乗らないか」
「え」
 由稀は思いも寄らなかった話に、男を振り返った。
「ただで乗せてやるわけにはいかない。そうだな、金額はお前たちで決めるといいよ」
 男は羅依を見て快活な笑みを見せた。そうまでされては羅依が疑う余地はなくなってしまった。黙って視線を逸らした。
「そんなこと、俺たちだけで決められねぇよ」
「おぅ、そうか。それじゃ、決められるやつを呼んでこいよ」
「決められるやつ」
夜上(やじょう)じゃねぇの」
「そっか。おーい、夜上。ちょっと来てくれよ」
 声を上げながら、由稀は小走りに駆け出した。その時初めて、瞬の姿がないことに気付いた。振り返っても、あの透けるような金茶色の髪は見えなかった。由稀は心の緊張が解けると同時に、漠然とした胸騒ぎを覚えていた。