THE FATES

5.兆候(2)

 話はすぐにまとまり、由稀たちは男の息子が走らせる馬車の荷台に乗せてもらうことになった。農道から離れた厩へ向かうと、馬車は二台あった。
 陽が随分傾いていたが、急ぎのため朝を待つことはせず、息子の蒔伊(まきい)はすでに荷物を積み終え、出発の準備を整えていた。
「どのくらいかかるもんなんだ」
 亜須久と蒔伊の最終的な確認が終わるのを待って、由稀は蒔伊に尋ねた。蒔伊は目を惹くような顔立ちではないが、はっきりとした目元が相手に好印象を与える青年だった。由稀はそこが気に入った。
「そうだな、天気にもよるけど二日ってところかな」
「そんなに早く着くのか」
「そうさ。でも今までどうして歩いてたんだ。これだけの人数がいたら旅も大変だろう」
「金がかかるからじゃねぇか」
「馬代も船賃も高いからな。そうか。まぁ、短い間だが仲良くやろう」
「よろしくな」
 そう言って蒔伊は一台目の馬車席に乗り込んだ。蒔伊の走らせる馬車は荷がぎっしり詰まった方で、由稀たちが乗る荷馬車は、弟の鷹真(たかま)が綱を取る。鷹真は蒔伊に比べて華奢な感じで、快活に笑ってみせた父とは全く違う相貌だった。馬のように穏やかな瞳で、柔和な笑顔だった。
 由稀は鼻を掠める紫煙の香りに、木立を振り返った。木の脇には煙草を咥えた瞬の姿があった。
「玲妥」
 羅依は幌の付いた荷台の中から、玲妥に手を差し伸べる。勢いよく彼女を引き上げると、ふたり仲良く腰を下ろした。次には加依が続いた。彼が座って、側面に座れるのは三人が適当だとわかった。すぐに亜須久が乗り込み、由稀は急いであとに続いた。由稀は焦りを悟られないように、平静を装って奥に詰めた。瞬は普段と変わらない涼しい顔つきで乗り込み、由稀の横に腰を下ろす。由稀は全てを見透かされているように思えて、顔を歪めた。
 鷹真の掛け声がして、馬車は走り出した。衝撃が底から突き上げる。途端に玲妥が声を上げた。
「痛ぁい。ねぇ、これに二日も乗るの」
「そうだよ。我慢しな、玲妥」
「私が駄目な子みたい。羅依のいじわる」
「そうですよ。言いすぎですよ、羅依」
「なんだよ、あたしが悪者かよ」
 羅依は腰を上げかけて、揺れに尻餅をついた。由稀はそれを横目に見て、小さく深い息を吐いた。いつもならその騒ぎに便乗するところだが、どうしても隣が気になって気分が乗り切らなかった。それは地図を念入りに調べている亜須久ではなく、じっと黙り込んで足元を見つめている瞬の方だ。由稀は彼の横顔を盗み見る。薄暗い中に浮かぶ白い肌は、思わず目を奪われる美しさだった。印象的な深緑の瞳は、艶やかな金茶色の髪に邪魔をされて、窺い知ることは出来ない。ただ彼を構成する全てのものが、世界との隔たりを求め喘いでいるように見えた。
 彼を引き入れた自分と、彼を極力避けようとする自分。
 行動と感情が矛盾していることは気付いていた。由稀の中に蠢く矛盾は、まるで他人の譫言のように彼の内部に纏わり付いた。
 あの時、必死に瞬を引き止める羅依の姿を見て、彼女の真なる人間味に触れた気がした。だからこそ彼女の望む結果になるよう助け舟を出した。だが由稀個人の感情としては、瞬の存在を受け入れていなかった。
 十五歳にもなれば、どうしても反りの合わない相手はいた。だがそれは、相手に嫌われるという形がほとんどだった。特に酷い目に合わされることもなく、人をこんなにも嫌悪するのは、瞬が初めてだった。自分の中にこんなにも激しい感情が生まれるのかと、まるで他人事のように由稀は心を静観していた。しかしその眼差しはすぐにも混濁していく。馬車に揺られ、気持ちは乱れた。
 由稀は癖で腕輪をさすった。控え目な銀色が、つかのま平静をもたらす。
「言いたいことは、はっきり言ったほうがいい」
 瞬は頭を後ろに預け、斜め上をぼんやり眺めて言った。
「何の話だよ」
 滑り出た声が思いのほか大きく、慌てて周りを窺ったが、誰も気にかけている様子はなかった。車輪の音が荒々しく響いていた。
「そうでもないと、そんなにじろじろと俺のことを見ないだろう」
「なんだと」
 盗み見ていたことを悟られ、由稀は顔から火が出るほどの屈辱を覚えた。隠すために、由稀は瞬を睨みつける。刺すような視線に瞬も顔を上げて由稀を見た。深緑の瞳が顕わになる。荷台の天井に吊るされた小型の角灯から洩れる赤い光を受けて、残酷さと美しさが交互に浮き上がる。それが由稀の透き通った空色の瞳を射抜く。由稀は内側に壮絶な禁忌を覚え、とっさに顔を逸らした。
 不安定な由稀の精神を見抜いて、瞬は視線を足元へ落とす。主導権を奪われた由稀は、心に鞭打って口を開いた。
「仲良くなったみたいだな、みんなと」
「気に食わないか」
 声音だけで彼の薄笑いが目に映る。胸のうちからこみ上げる吐き気と嫌悪。それは無尽蔵に溢れ出し、由稀の脳髄を支配していく。体の自由が他の何者かに奪われていくようだった。
 由稀は異変を感じて右腕を動かした。銀色の腕輪に微熱を感じた。痺れが腕に広がる。このようなことは初めてだった。由稀は底知れない違和感を隠しながら鼻で笑った。
「違う。俺はただ格差を感じるだけだ」
 由稀は何度も唾を飲み込んだ。
「格差ね」
 瞬は逡巡を自分からも隠すように、指の関節を軽く噛んだ。
「それがどうした。俺に好かれたいのか」
「ばか言え」
 由稀は体を乗り出し、拳を握りしめた。瞬は失笑をもらした。
「随分嫌われたな。俺を引き入れたくせに」
「困るんだ。みんなにそういうことを悟られたくない」
 腹が痛みに萎むのを堪えながら、由稀は瞬に言い捨てた。顔を背けて、揺れに身を任せる。
 瞬は由稀の心を精察するように目を細めた。
「弱みを握らせて、俺に良心を問うか」
「そもそも、好きとか嫌いとかどうでもいいよ。弱みと思うなら勝手に握れよ。ただ疲れるんだ、お前がいると」
 由稀は脚を抱えて頭を沈めた。
「俺が何をした。どうして敵視されなきゃならない」
「敵視? そう感じていたか」
 瞬の言葉に由稀は顔を上げて身構えたが、続いて洩れたのは瞬の乾いた自嘲の声だった。由稀にはそれを追及する用意はなかった。
 由稀は掴みどころのない瞬の心に興味を持つ反面、内側から滲む妙な圧力に屈し、彼を極力避けようとしていた。腕輪は痺れるような熱を放ち、由稀の頭はくらんだ。自分の体も心も、まるで自分のものではないように暴れ始める。由稀は目の前にちらついた光を必死に目で掴み、意識を保とうとした。
「大体、どうしてここに来たんだ」
 由稀は饒舌になる自分を抑えられなかった。そこを振り切れば、意識の手綱を手放してしまう気がしていた。
 問われた瞬は、何もない場所を睨み付ける。整った顔に影が落ちた。
「お前らはそればっかりだな。ここに来た理由なんて、そんなに重要か。それで俺の何かが決まるのか。なら聞くが、お前はどうして夜上についてくる気になった」
「俺は」
 逆に問いを返されて、由稀は言葉に詰まった。困惑振りを瞬が鼻で笑った。
「答えられないんだろう」
「俺は玲妥が行くと言ったから来たんだ」
「へぇ。それなら俺も、誰かに行けと言われたって答えようか」
「ちょ、ちょっと待てよ」
 由稀の声は上ずった。あしらわれた悔しさや怒りよりも、曖昧な自分の気持ちに戸惑った。なぜ、亜須久に付き従ってアシリカまで行く気になったのか。玲妥が行くと言ったから、ただそれだけなのか。自分は狭い田舎町から抜け出したかっただけではないのか。由稀は考えるほど自分の志が惨めに思えて、確固たる意志を持って旅を続ける亜須久に申し訳なく思った。由稀は唇を噛み、腕輪を撫でた。
 瞬が由稀の心をそこまで見抜いているというなら。そこまで知っていて自分も同じと言うなら。
「お前、逃げてきたのか」
 由稀は思考を解きほぐし、瞬の横顔を見た。瞬は顔色ひとつ変えず、じっと足元を見つめていた。口元に薄笑いが浮かんだ。馬車の揺れに合わせて、瞬の柔らかい髪が震えた。
「面白い」
 冷たい声に、由稀は背筋が凍った。
「それはつまり由稀、お前が逃げてきたということなんだな」
「俺の話は、別に」
 言い知れぬ恐怖に喉が絞られていく。由稀は額に噴き出す汗を必死に拭った。瞬は氷のように冷めた目で由稀の様子を一瞥すると、すぐそばに垂れる幌に手をかけた。
 隙間から覗く景色が吹き抜ける風のように遠ざかっていく。空は一日の汚れを浄化するように澄み渡り、淡い黄金に染まっていた。由稀は差し込む光に目を細めた。
 瞬が小さく感嘆の息を洩らした。
「体の半分が死んでいるみたいだ」
 外の眩しさが嘘のように、車内は赤黒い光で歪んでいた。
 由稀はこの全ての景色に、瞬の心を重ね見た。もう、言葉はなかった。