THE FATES

5.兆候(3)

 空に夜が広がり始め、蒔伊はもはや馬車を走らせる限界を感じていた。黒々とした木々に阻まれ、微かな光すらも届かない道では、ほとんど目が利かなかった。森の奥からは鈴に似た軽やかな音が、途切れつつ木霊していた。
 蒔伊は弟の鷹真が気付くように、少しずつ馬車の速度を落とす。合図の指笛を吹こうと片手を手綱から離した。視界の隅から真っ黒い塊が飛び出してきて、蒔伊は片手で手綱を強く引いた。馬が悲鳴を上げ、大きく脚を上げた。すぐに後ろからも同じような声がして、蒔伊は馬に体を振られながらも後ろを見遣った。荷台が邪魔をして弟の様子は確認できなかった。
 鈴がすぐ近くで響く。
「おい、鷹真」
 叫んだが返事はなかった。再び声を上げようとしたとき、水の中に放り込まれたような息苦しさが辺りを包んだ。蒔伊にはそれが結界だとはわからなかった。

 悲鳴と衝撃を受けて、疲労感が漂っていた車内は弾けるように目覚めた。角灯が消えて、薄暗い。由稀は衝撃の瞬間、とっさに玲妥のそばへ駆け寄った。羅依がしっかりと玲妥を抱きしめており、由稀は胸を撫で下ろした。
「何が起こったかわかる人はいますか」
 加依の声は小さすぎてほとんど音になっていなかった。しかしその内容は的確に状況を判断していた。
 闇のどこからも返事はない。静寂が不安を呷る。加依は腹に力を入れた。
「瞬」
「急かすな。獣族(じゅうぞく)と」
 瞬は深海を泳ぐ盲目の魚のように神経を研ぎ澄ました。
 彼の集中力の高さは、横に座っているだけで、肌が痺れるほどだった。由稀は瞬の言葉を待っている自分に気付き、乗り出していた体を引いて足を崩した。
 衣擦れの音に紛れて、瞬は深く息を吐いた。そしてそれだけでは出し切れないものを遣り過ごすように、瞬は指先で荷台の床を叩いた。
「人間、かな」
 期待を裏切る曖昧な言葉が、一同の集中力を高めた。瞬は床に手を滑らせ、指を鳴らす。息苦しいほど世界が密になり、由稀には結界が張られたとわかった。
「俺は結界を保持する。夜上は状況に応じて二重結界を」
 亜須久が暗闇の中で頷いた。
「玲妥はここにいろ」
 瞬の言葉に、羅依は玲妥から腕を解いた。
「頼むよ」
 羅依は瞬が指示を下すことに、不思議と違和感を覚えなかった。加依とともに息を潜めて、するりと幌の隙間を抜ける。外は車内ほどの苦しさはなかった。
「どういう仕組みだ」
 背後に降り立った亜須久が、風に消えそうな声で呟いた。亜須久にはこれらの結界が芸術作品のように映っていた。
 亜須久の背中を見送りつつ、由稀は玲妥の手を強く握った。握り返してくるやわらかさを心に刻み、腰を上げた。由稀は瞬の指示に従うのは気が進まなかったが、子供染みた意地を晒すのも癪だった。亜須久の後を追い、外に出る。由稀の存在に気付き、亜須久が振り返る。何か言いたげな彼の様子に、由稀は首を傾げた。
「いや、いいんだ」
 力なくこぼし、亜須久は黒く真っ直ぐな眼差しを幌の向こうに投げる。由稀もつられて振り返った。
「そういや」
 由稀は亜須久の戸惑いにも似た疑問に思い当たり、息を吐くように呟いた。
 なぜ、瞬が結界を張り、玲妥を守るのか。
 由稀は精悍な亜須久の横顔に答えを求めたが、亜須久は目を伏せると由稀に背を向けた。由稀は結界を挟んで空を睨む。隔てられているとは感じさせないこの結界が、まるで瞬の言い訳のように思えた。
「由稀」
 羅依の呼びかけに、由稀は我に返った。加依と亜須久が駆けていくのが見えた。
「俺たちは蒔伊の方か」
 つけこむ隙のない笑顔で、由稀は体を伸ばす。
「あぁ、そうみたいだけど」
 羅依は曖昧な返事をこぼすと、上着の裏から短剣を取り出した。それは由稀が以前から欲しがっていたものだった。由稀は差し出された短剣に目を奪われ、手を伸ばした。羅依が少し引っ込める。由稀は顔を上げた。
「貸すだけ、だから」
「いいのか」
「本当に貸すだけだからな」
「わかったよ」
「ちゃんと返せよ」
「しつこいなぁ」
 由稀が呆れて笑いを零すと、羅依は口を尖らせて由稀の胸に短剣を押し付けた。
「あぶねっ」
「行くぞ、由稀」
 羅依の顔に、笑顔が戻る。由稀は頷いて、短剣を握り締めた。