THE FATES

5.兆候(4)

 荷台の陰に身を潜める亜須久と加依の姿を見つけて、由稀と羅依はその後ろについた。その場所からは、全体がよく見渡せた。襲撃してきたのは、獣族が三頭とそれを操っている男が一人だった。鷹真のそばでは二頭の獣族が喉を唸らせていた。結界があるので獣族がそれ以上鷹真に近付くことはできなかったが、それを知らない鷹真は失神寸前の様子だった。
 獣族の見た目は他の獣と変わりはなかった。魔界に住み、多くは統率者を持つ。統率者の命令には絶対服従し、内戦の続く魔界では戦力として投入されていた。体が大きく、力も半端ではなかった。
「俺なら、統率者を差し置いて獣族を抑えることは可能ですよ」
「鷹真の馬車は瞬の結界が効いている。俺は蒔伊に結界を張ろう」
「なぁ、俺たちは」
 由稀の声に加依は振り返り、腕を組んだ。
「そうですね。羅依は俺と一緒に鷹真の方の獣族を」
「でも、あたし、獣族なんて」
 羅依の不安に加依の笑顔が応えた。
「大丈夫。羅依だって長の血を引くんですから」
「由稀はあの男を蒔伊から引き剥してくれ。機を見て俺が結界を張る」
「わかった」
 由稀が頷くのを見届けると、加依と羅依が飛び出して行った。獣族二頭は牙を二人に向け、唸り声を上げた。その隙に亜須久と由稀が横を走り抜ける。亜須久は馬車の後ろで留まり、由稀は男の死角になる場所へ回り込んだ。
「騒がしいな」
 男は異変に気付き、蒔伊から視線を逸らして周囲を見渡した。男の視線が森の中へ泳ぐのを確かめて、由稀は走り出した。手にしていた短刀を革帯に挟み、蒔伊の後ろから飛び出す。高く跳躍すると、男の顔面に降り立った。
「ぐわぁっ」
 不格好な声を上げて、男が崩れるように倒れる。
「夜上、結界!」
 掛け声と同時に蒔伊の馬車の空気が淀む。亜須久の結界は成功した。
「結界だとっ」
 その隙に蒔伊が後ろの馬車に向かって逃げ出す。由稀は男から離れると、すぐそばまで獣族が迫っていることに気が付いた。後ずさりながら、後ろの短刀に手を伸ばす。しかし踵が石に躓き、後ろへと倒れ込んだ。
「マジかよっ」
 倒れ込みざま手にした短刀を獣族の喉元に投げつけるが、手元が狂い肩口に刺さった。獣族は傷に対する痛みも相まって、唾液をまき散らして由稀の上に覆い被さった。目の前には鋭い牙が光った。
「由稀っ!」
 羅依の声が聞こえた。
「羅依っ」
 首をのけぞらせて、由稀は体を半回転させた。視界の隅を矢のように光が走った。羽虫が耳元を過ぎるような鈍い音が肌を切る。獣族が甲高い叫びを上げた。由稀が這ったまま振り返ると、獣族の喉元に短刀が深く刺さっていた。もがく弾みで短刀は角度を変え、由稀の上には血飛沫が舞った。叫び声から空気がもれる。獣族は由稀の上に倒れこんだ。
「おいっ」
 よく見ると瞳孔は開き、息もなかった。
「大丈夫か」
「おせーよ、羅依。もうちょっとでやばかったから」
 由稀は伸し掛かる獣族の亡骸を押し、瓦礫から抜けるように這い出た。顔から胸元までが、返り血を浴びて真っ赤に染まっていた。
 羅依の左手からは実体のない鎖が伸び、他の獣族を絡め取っていた。
「初めてで、てこずったんだよ」
 語尾が弱々しくなる羅依を見て、由稀は笑った。
「まぁ、当たったから許してやるよ」
「それはどうも」
「大丈夫ですか、由稀」
 馬車の陰から加依が歩み寄った。由稀の姿を見て、ほっと息をつく。彼は羅依から獣族を預かると、片手に一頭ずつ持ち、おもむろに目を閉じた。唇が微かに動く。由稀や羅依には聞き取れなかった。加依が言い終わるや否や、実体のなかった鎖から火が立ち昇り、獣族の姿はそこから消えた。
「すご」
「すごくないですよ。魔界に送還しただけですから。さて、後はどう始末しますか」
 由稀は加依の言葉に振り返る。足蹴にされた男は頭を両腕で抱えながら、立ち上がろうとしていた。由稀は反射的に低く構え、男を睨みつける。一歩足を踏み出すが、上半身が後ろに傾いだ。由稀の肩には、剥き出しになった闘争心を治めるように手が置かれていた。辿ると、羅依の姿があった。
「あたしに任せてよ」
「え」
「心配するなって。こう見えても巷では残命の羅依とか呼ばれるくらい、手加減するのは得意なんだ」
「別に心配してるわけじゃ」
 由稀は言葉を濁して黙した。羅依のことが心配でないこともない。けれど由稀は自分の手柄が無性に欲しかったのだ。瞬の嘲笑が脳裏によぎった。
「本当に大丈夫ですか」
 加依は眉を寄せて問う。羅依はそんな兄に笑顔を返した。
「次からそんな心配しなくてもいいようにさ、今回だけは任せて」
 そこまで言われては、加依も引き下がらずを得なかった。
 羅依は由稀のそばを離れ、獣族に刺さっていた短剣を抜き取った。剣先から糸引く体液を振り払い、男の方へ素早く駆けた。
 男は頭を抑えながら、前屈みに立ち上がった。
「くそ、獣族はどこ行ったんだ」
 唾を吐き、手にしていた鈴を振った。軽やかな鈴の音は響けど、手応えはなかった。
「あいつらなら、もういないぞ」
 笑いを含んだ声に男が振り返ると、相手を確認する暇もなく、横腹を強く蹴り上げられた。男は咳き込みながら膝をついた。視線の先に、革靴が見える。踵が随分高かった。男は顔を上げた。夜空を背負い、淡紫色の髪が靡いていた。
 羅依は爽快な笑みを浮かべた。
「さぁ、遊ぼう」
 言い終わらぬうちに、羅依は無抵抗な男の頬を爪先で抉るように蹴った。
 それを見た加依は、開いた口が塞がらなかった。
「鮮やかですね」
 加依は搾り出すように言う。
「ていうか、いつもより溌剌としてねぇか」
「錯覚ですよ」
「加依、今そう言い聞かせただろ」
「意地悪ですね。さ、ここは羅依に任せて、俺たちは蒔伊と鷹真の様子を」
「そうだな。あぁもう、気持ち悪いよ」
 由稀は顔の血を拭い、唾を吐いた。靴の下で細かい砂が砕ける。
 鳥は森の上空で短い鳴き声を上げた。緩く流れていた風が、強い力に翻弄されて渦を巻いた。耳を塞ぐほどの空気の振動に、由稀と加依は羅依を振り返った。
「どういうことだよ」
 大きな驚きが、二人の体を縛り付けた。男は頬や口から血を流していたが、痛みにうめいているようには見えなかった。由稀らと同じように、羅依の顔を見上げて呆然と口を開けていた。
「羅依」
 加依の呼びかけが羅依に届いている様子はなかった。羅依の背中には他者を寄り付けさせない孤独が張り付いていた。おもむろに胸の前で両手を組んだ。輝きが暗闇を食いちぎるように広がっていく。由稀はあまりの眩しさに、腕で顔を覆った。瞼を射す光が薄れ、由稀が再び目を開けたとき、羅依の手には大きな剣が握られていた。それは彼女の母のなれの果てだった。
 剣先がゆらりと男に靡く。わずかに見える羅依の横顔には、一切の情感がなかった。長い髪が羅依の顔を隠した。彼女の全身に殺意が漲った。
「やめろっ」
 由稀と加依はほとんど同時に駆け出した。羅依は剣を逆手に持ち替え、大きく腕を振り上げた。濡れたような剣先は、舌なめずりをするように獲物を狙っていた。男は圧倒的な力に睨まれ、指一本すら動かすことが出来なかった。千切れんほどに見開かれた目は乾ききり、細い血管が幾筋も浮いた。
「た、たすけ」
 口端からは唾液が糸を引いて伝い落ちる。しかし羅依の目に映っている気配はなかった。
「待て、羅依!」
 拍子を得て、剣が男の喉元へ向かって走り出す。あと、拳ひとつ。あと、薄布一枚。
「羅依!」
 そこで剣の疾駆は阻まれた。
「離せよ!」
「羅依、落ち着け。何があった。どうしたんだ!」
 由稀は後ろから羅依を押さえつける。加依はその様子に注意を向けながら、男の顎を蹴り上げた。さきほど獣族を縛り上げた鎖を手にするが、男は煙幕玉を投げつけ、その隙に姿を消した。
 羅依は男の姿がなくなったことに気付かず、由稀の腕を振り解こうともがいた。
「離してよ! だって、母さんが」
 腕を回し、体を捻る。羅依は手加減なく由稀を振り払った。思っていた以上の激しい動きに、由稀の手は羅依の腕から滑って離れた。
「あ」
 もう一度、彼女の腕に手を伸ばそうとして、脇腹に冷たい感触を覚えた。すぐに波が打ち寄せるように痛みが沸き起こった。逆手に持っていた羅依の剣が、由稀の脇腹を斬りつけたのだった。肉の感触が剣を介して伝わり、羅依は眠りから覚めるように我に返った。
「ゆう、き」
「だめだ、羅依。落ち着け」
 羅依の手から剣が消える。由稀は痛みに顔を歪めながら、じっと彼女を抱きしめた。羅依は声を失った。
 由稀は羅依の様子を見て、腕を解いた。羅依は慌てて傷口を見る。傷口は深くなかったが、夜目にも鮮やかな血が溢れていた。
「ああ……あ」
 白い肌から更に色が失われていく。羅依は泣き出しそうな顔で由稀を見上げた。
「このくらい平気だ。大丈夫。俺の体、傷がすぐに治るから」
 痛みを堪えて引き攣る笑顔は逆効果であった。羅依は青ざめた唇を何度も舐めて首を振った。どんなに早く傷が癒えようとも、羅依にとっての重みは変わらない。
「どうしよ。ごめん、なんて。言えないよね」
「本当に大丈夫だから。それよりどうしたんだ、いきなり。殺さないって言ってただろう。殺すつもりがなけりゃ、あんなことしないだろう」
「う、うん」
 羅依は頷いたきり、すっかり俯いて口を閉ざした。
 由稀は傷口を抑えて、地面に座り込んだ。足音に振り返ると、亜須久がいた。
「どうした、何かあったのか」
「亜須久、それが」
 加依が説明するより早く、亜須久は由稀の傷に気付いた。震える羅依の肩に優しく手を置き、傷口を見る。最初は険しかった表情もすぐに和らいだ。
「今夜中には治りそうだな」
「だと、思う。でも、なんで知って」
 少し屈めていた腰を伸ばし、亜須久は辺りを見回した。男のことに言及するのは控えた。
「俺もそうだが、竜族の血を少しでも継いでいる者は、皆そうらしいんだ。傷の治りが早いらしい。ある人がそう教えてくれた」
 亜須久は冷静に話しながら、じっと羅依の様子を見守っていた。彼女の体を覆う震えが、悲しみからくるものなのか、罪の意識からくるものなのか、恐怖からくるものなのか、亜須久には見当がつかなかった。
 羅依は膝から崩れて、その場に祈るようにうずくまった。
「それでも、あたしが斬ったの」
「もういいから、ほら見ろよ。半分くらい塞がってきただろ」
 そう言うそばから、由稀は軋む体に奥歯を噛んだ。癒えても痛みは残るのだ。それは驚異的な早さで完治するための代償のようだった。
「みんな、大丈夫」
 玲妥が駆け寄ってきて、うずくまる羅依のそばに膝を折った。
「ああ、大丈夫だよ」
 由稀の返事に顔を上げて、玲妥は息を止めた。短い悲鳴を上げて、由稀の顔を指差した。
「どうしたんだ」
「どうしたじゃない! なによその顔。どこが大丈夫なのよ」
「人の顔にけちつけるなよ。一応これでもお前の兄貴だぞ」
「そんなこと言ってるんじゃないってば。血、血が」
 由稀はそこまで言われてようやく思い出した。
「安心しろ。これは俺のじゃないから」
「ほんとに。良かった」
 体から力が抜けたのか、玲妥の腹の虫が鳴った。ごまかすように笑いながら、彼女は腹をさする。ここまで安心されると、実は傷があるとは言い出せない。由稀は再生を続ける傷口のことを、玲妥に黙ることにした。
「どうかしたの。羅依」
 声かけに一切の反応はなかった。玲妥の入り込む隙間はない。玲妥は何度も振り返りながらその場を離れ、加依と亜須久の方へ歩み寄った。
「立てるか」
 由稀は先に立ち、羅依へ手を差し出す。いつもなら彼の手を払いのけ、不遜な言葉を吐き捨てるに違いない。しかし今は違った。頷くことも由稀を見ることもなく、彼女は静かに手を取った。予想外の行動に一瞬怯んだが、彼女の中の見えない苦しみを思い、傷のことも忘れて腕を引っ張った。
「まずは顔を拭かねぇとな」
 呟きが虚しく夜に吸い込まれた。しかし更に言葉を重ねることは憚られ、由稀は羅依の少し先を歩いて馬車へと向かう。
 背中の存在が、あまりにも弱々しく寂しかった。振り返ると、羅依は男がいた場所をじっと見つめていた。その瞳には多くの感情が混ざりすぎて、由稀にはどれがいちばん大きなものなのか、よく分からなかった。

 結界から解放されて、鷹真は馬の首を抱くように叩いた。
「大丈夫か。怖かったな。でももう大丈夫だからな」
「怪我はないか」
 声をかけたのは、煙草をくわえた瞬だった。鷹真は瞬の現実離れした美しさに見入る。
「あぁ、はい。どうもありがとうございました。驚きました。結界の中に入ったのなんて、生まれて初めてで。家に帰ったら親父に自慢してやります」
「そこまで言われると照れるな」
 瞬は綺麗な眉を歪めながら鷹真に近寄り、そばにいる馬を見た。
「いい顔だ」
「本当ですか。嬉しいな。俺が育てたんです。母親がこいつ産んですぐに死んだから。でも、すごく甘えん坊で困ってるんです。俺にしか懐いてくれなくて。あ、でも、えっと」
 鷹真は瞬の顔を見て首を傾げる。意図を汲み取った瞬は紫煙を吐き出した。
「瞬だ」
「えっと、瞬には懐いてくれそうな雰囲気です。少し妬けるけど。ほんと俺、こいつの父親でもあり、母親でもある気分ですよ」
「だったら俺がこの子と仲良くなったら、鷹真に闇討ちに遭うわけだ」
「そんなことしませんよ」
 鷹真は先ほどまでの恐怖などすっかり忘れた様子で、楽しそうに笑う。馬も嬉しそうに鼻を鳴らした。瞬が撫でてやると、馬は顔をすり寄せた。
「わかるんですよ、動物は」
「わかるって」
「人間の心の色がね。小さな子供と一緒です。肌でその人を感じ取るんです」
 にこやかに語る鷹真とは異なり、瞬の表情は戸惑い沈んだ。
「瞬……」
 しかし返ってくるのは優しげな微笑みだけ。
「さて、野宿の場所を探すとするか」
 そう言って瞬は森へと姿を消した。あとには紫煙の香りが残った。

5章:兆候・終