THE FATES

6.鬼哭(1)

 狭い部屋は、幅広の寝台と窓際の大きな椅子で占められていた。出窓の台に小さな角灯が揺らめく。瞬は上着を脱いで寝台に投げた。背後で扉の閉まる音がする。一度肩越しに振り返って、瞬は煙草に火をつけた。小さな明りだけでは、部屋の中を照らしきれない。瞬の視線の先には幻想がよぎった。眼鏡を外して、椅子に腰掛ける。
 窓の外は、街灯のそばだけが丸く切り取られたように浮かび上がっていた。瞬が脚を組もうとすると、明りに染まる細い腕がそれを遮った。指先が軽く脚を押さえつけ、やわらかな毛皮に身を包んだ女が、向かい合わせになるように瞬の上に座った。服越しに触れ合う女の脚は、ひどく冷たかった。俯いた拍子に、黒く長い髪が胸に滑り落ちる。女は上着を脱ぎ捨てた。中には下着しか身に着けていなかった。女の手が瞬の服に伸びる。海のように真っ青な瞳が瞬を見上げる。
『約束して、瞬』
 記憶の中に封じられた愛しさが、胸に溢れ出す。
 嗚呼。
 見とれた瞬間、女の艶めく唇が瞬の舌に吸い付いた。
 記憶が急速に遠のいていく。瞬の心は落胆し、色を失った。瞬は、服の留め具を外していた女の手を、上から握ってゆっくり引き剥がした。女は目を丸くして唇を離した。
「なんで」
 女は見た目より幼い声で言った。瞬の幻想は完全に断たれた。
「攻められるのは好きじゃない」
「ほな来て。ええよ」
 瞬の手を取って、少女は自分の乳房を握らせた。瞬は苦笑して、灰皿に煙草を押し付けた。少女を抱き寄せて体をかがめ、瞬は足元に手を伸ばす。指先に触れた少女の上着を拾い上げる。少女の視線を痛いほど感じた。
「うち、魅力ないんか。胸ないから、けぇへんの」
「そうじゃないよ」
 首を振り、瞬は少女の肩に毛皮をかけた。
「なんでやのん。わからへん」
「元から、つもりがなかっただけだよ」
「ほな、なんでうちに声かけたんな。矛盾しとるわ」
 少女は顔を背けて、唇を尖らせた。瞬は少女の髪を撫で、細い首筋に顔を埋めた。
「ひとりでいるのが怖いから」
「そんなん、酒場にでも行ったらええやろ」
「できれば、かわいい女の子がいい」
 瞬は少女の頬に口付けた。少女はくすくすと笑った。
「うちでええんか」
「こっち向いて」
 少女は瞬に応えて、もどかしげに顔を向けた。瞬は少女の顔を覗き込み、目を細めた。
「君がいい。その青い瞳がいい」
 そばで燃える角灯の火が、悶えるように音を漏らす。
 少女は子供のように顔を崩した。
「うれしい」
 少女は瞬のはだけた胸に体を寄せた。
「うちも、ひとりは嫌や。そない言うて、気持ち悪いおっさんに抱かれるんも嫌や。みんな、うちの目ぇ見て魔族やわかったら、なんやめちゃくちゃしよる。せやからお兄さんに声かけてもろたとき、今日は少しだけ幸せな夜になるな思たんよ。せやけどなんもせんでええんやったら、さむないし、もっともっと、もっと幸せや」
 服の間に手を差し込み、少女は瞬の背中に両手を回す。冷たく細い少女の腕が、少しずつ瞬の熱を奪う。瞬は少女の肩を抱いて髪に口付けた。
「歳は」
「こないだ十三になったとこや。お兄さんは」
「いくつに見える」
「せやなぁ」
 少女は顔を上げて、瞬の顔をじっくり見つめた。
「三十まではいってへんかな」
「じゃあ、そのくらいにしておこうか」
「ずるいわ。うちにばっかり喋らせて。ずるい人や」
 少女は弾んだ声で言うと、再び瞬の胸に頬を寄せた。
 触れ合う肌が熱を同じにし、徐々に境目を失っていく。瞬は少女の境遇を想像し、そこに過去の自分を重ね見た。心細いほど小さな体で、世界の夜を生き抜かねばならない少女は、同年の子供たちより逞しく見えるが、その実は誰よりも脆い。人肌恋しく、求めれば求めるほど、温もりは遠ざかっていく。
 少女は座りいいように瞬の脚の間に腰を落とし、両足をまとめて椅子の肘掛に投げ出した。
「うちが寝るまで、寝たらあかんよ」
「ああ」
「うちが起きるときは、そばにおってよ」
「いいよ」
 そう聞いて少女は満足げに微笑み、瞬に全身を預けた。
 瞬は窓の外に視線を投げた。真っ暗闇の中で照る街灯は、すぐそこにあるようで、同時にずっと遠くにあるようにも見えた。
 全てを捨て、身を裂くほどの寂しさを噛み殺して、ここまで来た。自分が諦めれば、皆が救われると信じた。だが、それを確認する術までも捨て去った。現実に裏切られるのが怖かったのだ。
 ただの自己愛にすぎない。そんな自己否定が瞬を闇に突き落とした。納得したはずが、床下から泥が染み出すように、飲み込んだはずのものが喉を上がってくるように、咀嚼しきれなかった寂しさが、ひとりでに胸のうちで膨らむとは考えなかった。あの日の決意が嘘のように、時が経つほど心は孤独に蝕まれた。
「明り、きれぇやなぁ」
 少女の吐息が体を撫でる。角灯は油を吸い上げその身を焦がす。瞬は黒く長い髪を指で梳いた。
 指先に絡む少女の髪が、記憶の断片と交じり合う。瞬の中を、青い衝動が駆け抜けた。遣り過ごすため、煙草に火をつける。角灯の明りでぼんやり浮かぶ部屋の中に、手に掴めない質感を伴って紫煙が漂った。吐き出す煙にため息が溶ける。
 生きている限り断ち切ってはいけないものを、断ち切った。それは自分が生きている理由だ。彼女らのために生きると誓いながらも、少しの壁に立ち竦んで、ここまで逃げてきた。
 生きる理由を投げ捨てて、今なお生きている自分は、一体何者なのだろうか。
『行くのなら、約束して、瞬』
 澄んだ声が、耳に蘇る。
『三つでいいから』
 彼女は瞬の手を取って人差し指を握った。
『一つ、封印を解かないで』
 中指を握る。
『一つ、もう誰も殺さないで』
 彼女は涙をこらえて唇を噛んだ。両手で瞬の手を握り締める。
『死なないで』
 深い青の瞳から、涙が一筋流れ落ちた。瞬はその小さな雫に体を貫かれた。自分を守るために、心が縮んでいった。そして立ち去る彼女の後ろ姿に、心は死んだ。
 立ち昇る煙を眺めて、瞬は眉根を寄せた。
 死体だ。生ける死人だ。
 窓に映る角灯の赤い光が、濡れながら踊る。体を寄せ合った少女が、身じろぎをした。ふと顔を上げて、瞬を見つめる。
(俺を生かしたお前が憎い)
 そして、ひどくいとおしい。
 瞬は少女と目を合わせて、優しい笑みを浮かべた。それは今にも崩れ去りそうな、刹那的な美しさをまとっていた。
 少女は肘掛に投げ出していた脚を胸に寄せて、全身で瞬にしがみついた。
「あったかいわ」
 痛みを知るものは、人の痛みに敏感になる。知らぬ間に癒し合おうとする。温もりを求めながら、その先に更なる渇望が待ち受けていることも、心の隅で達観している。しかし、だからこそ求めるのかもしれなかった。
 外の気温が下がり、窓には結露が張り付いた。街灯の明け透けな光が、滲んで恥じらいを帯びる。瞬は袖口を手繰り寄せて水滴を拭った。光の前を誰かが横切る。遠目にもはっきりとその影の髪の色が見えた。明け方の高い空のように清浄な色。瞬は闇の中に消えていく背中を目で追って、煙草を消した。少女は小さな寝息を立てていた。
「朝までには帰ってくるから。それまでゆっくりおやすみ」
 瞬は少女の額に口付け、小さな体を寝台に横たえた。毛布を首元までかけ、上着を掴む。袖を通そうとして、動きをとめた。窓を振り返り、少女の温もりを思い出す。瞬は上着を少女のそばに置いて、部屋を後にした。