THE FATES

6.鬼哭(2)

 ガルダコモ帝国の都リースは、宗教的聖地としてアルス大陸有数の観光都市だった。神殿や関連施設が集中しており、大通りには宿屋、貸し馬屋、料理屋などが趣向を凝らした看板を下げて凌ぎを削っていた。しかしそれらも夜は片付けられ、閑散としている。人通りといえば、街娼とその客くらいのものだった。
 由稀(ゆうき)は闇の中、昼間の記憶を頼りに大通りを走っていた。聞いた話によると、この街の外れに古書の収集家がいるということだった。街の特性から、珍しい本があることも期待できた。
 間隔をおいて暗闇に街灯が浮かぶ。その余りの眩しさに、由稀は空を見上げた。厚い雲が垂れこめ、夜の光は一筋も見られなかった。やがて街灯が姿を消し、道幅が半分ほどになった。由稀は立ち止まって、民家の塀に登った。中には広大な庭が広がり、煉瓦造りの建築物がまるで宗教施設のように堂々とあった。ここが目的地の広中邸だった。由稀は敷地内に飛び降りた。木陰に身を隠し、様子を窺う。警備が張られている気配は感じられなかった。
「無用心な家だな」
 呟いて、庭の小さな森の中を進んだ。目を凝らし、木々の隙間から屋敷の造りを精察する。三階建てで、最上階の一箇所だけ外に張り出した露台があった。過去の経験から、由稀はそこが主人の寝室と察した。そして同じ並びに一回り小さな窓があることに気付いた。由稀は笑んで、森から飛び出した。全速力で庭を横切り、屋敷の壁に張り付く。久しぶりの緊張感で、息が上がった。それは次第に高揚感へ変わる。
 すぐ横に、屋根から雨樋が伸びていた。由稀は両手をすり合わせてから、雨樋を掴んだ。足で壁を蹴りつけてのぼる。雨樋は薄い金属製で心許なかった。由稀は躊躇なく三階までたどり着き、片手を窓枠に伸ばした。雨樋が軋む。指先が木製の窓枠に吸い付く。由稀は歯を食いしばって体を窓の方へ振った。雨樋に足がぶつかり高い音を上げたが、特に傷んだ様子はなかった。緊張に塞がれていた耳は弛緩し、風の息遣いが聞いて取れた。空を見上げると、厚い雲が競争するように速く流れていた。時折、光が漏れた。由稀は掌に浮いた汗を服で拭い、両手で窓枠にぶら下がった。
 下から見えた小さな窓は、隣にあった。目測したところ、片腕を伸ばして届くか届かないか、紙一重の距離だった。由稀は足を少し伸ばし、爪先を煉瓦の僅かな窪みに引っ掛けた。息を整えて、片手を離す。体が千切れんほどに腕を伸ばす。中指の爪が木枠をこすった。足に力を入れると、半端な足場に膝が震えた。
「なめんな」
 由稀は呟いて、掴まっている手を離した。体が後方に傾ぐのを腹で堪えて、小さな窓枠へしがみついた。気持ちが急く。首回りの体温が上がる。より確実に掴み直そうとした途端、爪先が煉瓦の上を滑った。一瞬にして、首から背中が冷えた。腕一本で由稀は窓と繋がった。落ちて命に関わる高さではない。だが怪我でもしたら、仲間に言い訳をしなければならない。それが億劫だったのだ。
 両手で木枠を掴む。腕に力を込めて、体を引き上げた。窓に背後の空が映る。いつしか雲は晴れていた。夜の光が部屋の中をぼんやり照らす。壁に本の背表紙が見えた。由稀はにやりと笑って、観音開きの窓を調べた。鍵はかかっていなかった。
「本当に無用心な家だな」
 そう言いながら、由稀の声音は嬉々としていた。窓を開けて、さらに体を持ち上げる。両足を木枠に上げて、息をつく。一気に汗が吹き出した。背骨に沿って汗が流れる。由稀は額を拭って、銀色の腕輪を撫でた。足を床に下ろそうとして、ふと振り返る。誰かに見られている気がしたのだった。だが見える範囲に人影は見当たらない。由稀は気を取り直して、静かに床に降り立った。
「すげぇな」
 屋敷の規模と比べて手狭な部屋は、壁面を本で埋め尽くされていた。また、床にも本が積み上げられ、膝や腰の高さまであった。由稀は自らの目の輝きを感じながら、背表紙に目を走らせた。その中に、触れれば崩れそうな本を見つけた。薄暗い中では表紙の色すらわからない。だが、夜の光に文字が浮かぶ。
 初版・ブレイス。ティファナ教の経典だった。経典そのものは、今でも印刷され出版されている。しかし初版となると、その希少価値は計り知れない。由稀は本棚の前に座り込んで、傷めないようにゆっくり本を手に取った。開くと、随分古い言葉が並んでいた。
 アルス大陸では橙亜国を除く多くの国が、ティファナ教を信仰していた。その成立は古く、アミティス誕生の百年後という話もある。教義の根幹は、唯一絶対の一神崇拝と選民思想だった。しかし一神崇拝といっても、ティファナは三位一体の神であった。クローシア、ラミセス、アトレカーナ。その神々がひとつとなって、絶対神ティファナを創り上げている。クローシアが祈るとそこに新たな生命が生まれ、ラミセスが触れるとその生命の長さが決まり、アトレカーナが涙を流すとその生命は断たれ、また新しい生命へと繋がった。
 経典にはティファナの奇跡や人々との関わりが事細かに書き記されている。
 特に信心のない由稀だったが、夢物語のような伝承も全くの作り話には思えなかった。故郷は寒さが厳しく天候に生活を左右されやすい環境だったため、目に見えないものや世界の絶対的な意思を認める体質が染み付いていた。
 内容のほとんどは現在の経典と差がなかった。ただ、巻末に収録された世界についての資料が珍しく、由稀は古文の解読に没頭していった。

 革靴が小枝を踏みしめた。小さな音も、夜の下ではよく響く。瞬は庭木に凭れて、煉瓦造りの屋敷を見上げた。壁には空色の髪の少年がぶら下がっていた。
 瞬には自分の行動が不思議でならなかった。由稀を咎めるわけでも助けるわけでもない。橙亜国で亜須久を追ったときのような切迫感もない。ただぼんやりと彼の姿を目で追っていた。
『俺はただ格差を感じるだけだ』
 荷馬車の揺れが思い起こされた。瞬は薄い唇を親指で撫でて、考えに耽った。
 由稀がどのような意図をもって格差という言葉を使ったのか、瞬にはわからなかった。だが由稀がそう言いたくなる気持ちは理解できた。自覚があったのだ。瞬は確かに由稀を避けていた。その行為を格差と表現されても、瞬に言い返す権利はなかった。だが、悪意をもってそうしていたわけではなかった。
 由稀の姿に、ある一人の人物が重なって見える。
 アミティスへ来て四十日ほどが過ぎた。天水(てんすい)では十五年近くが過ぎているだろう。ちょうど由稀と同じ年頃になっているはずだった。思い出すのは、穏やかな寝顔と、小さな親指を懸命に吸う癖と、無邪気な笑い声。
 瞬は目を細めて由稀の背中を見つめた。
 どんな表情で話すのだろう。どんな癖があるのだろう。どんな声で笑うのだろう。
 腕の中に蘇る温もりは、瞬の心を容赦なく締め付ける。昂ぶりを、息を吐いて鎮める。熱は冷やされ、白くなって消えた。
 決して悪意をもって避けたのではない。瞬にとってはむしろ逆の思いがあった。由稀に無用の気遣いをさせたくなかったのだ。
 視線を上げると、由稀は窓枠に掴まり、足をかけていた。一度振り返り、辺りを見渡すと、部屋の中へ吸い込まれていった。瞬はそれを見遣って煙草に火をつけた。
 夜の光に晒された庭は、神が見捨てた楽園のように味気ないものだった。

 由稀はブレイスを閉じて息をついた。
「無理だな」
 小さく呟いて、頭を掻いた。到底、由稀に読み切れる本ではなかった。言葉の意味がわからないだけではない。読めない文字も多い。解読するためには、辞書が必要だった。
 由稀は本棚に目を走らせた。背表紙を指で追う。だが、近くに辞書らしいものは見当たらなかった。窓際に積み上げられた本を見つけ、由稀は体を曲げて背表紙を覗き込んだ。
 窓から差し込む夜の光が、俄かに翳る。雲が出たかと由稀は顔を上げた。すぐそこに、瞬の姿があった。腕を組んで窓枠に凭れ、由稀を見下ろしていた。
 あまりの驚きに、由稀は身動き一つ出来なかった。疑問が頭の中を駆け巡る。いつからここにいたのか。どうやってここまで来たのか。そしてなぜここにいることがわかったのか。疑問は混ざり合い、やがて一つの言葉になった。
「お前、つけて――」
 そこまで言うと、瞬は由稀の言葉を手で制した。
『見つかりたいのか』
 瞬の言葉は由稀の頭の奥に響いた。突然のことに、由稀は周囲を見渡した。他に誰かがいるわけではない。そもそも聞こえた声は間違いなく瞬のものだった。由稀の戸惑いを見て、瞬は口を魚のように開け閉めした。
精神感応(せいしんかんのう)だ。出来なきゃ、口話でいい』
 瞬はそう伝えて、窓から背中を離した。彼の深緑の瞳が光で濡れる。由稀は術が使えない抑鬱された気持ちを飲み込んで、口を開いた。
『ついてきたのか』
『偶然だ』
『いい趣味してるんだな』
 由稀は口を歪めて笑った。そうしてみて、自分にそのような表情ができることに驚いた。
『お前が捕まりでもしたら、同室の俺が責められるだろう』
 瞬は爽やかに嘯く。
『いつも部屋にいないのはどっちだよ』
 由稀は鼻で笑って言い捨てた。呆れて立ち上がる。この男とは会話が成り立ちそうに思えなかった。
『俺さ、遊びでやってるわけじゃないから』
『別に、遊びだなんて言ってない』
『は。馬鹿にしてんだろ』
 由稀は瞬を睨んで、窓を開けた。冷たい風が肌に触れる。由稀の手から本の感触がなくなった。
「え」
 横を振り向くと、瞬が初版ブレイスを持っていた。取り返そうと手を伸ばすと、片手で軽く捻り上げられた。
『俺が代わりに読んでやろうか』
「な」
 由稀は思わず声を出した。瞬は横目に由稀を見て、頁を繰った。
『お前にこれは読めないだろうし、読む必要もないだろう』
 そう言う瞬の眼差しに、いつものような嘲笑は見られなかった。由稀は腕を解放され、瞬からブレイスを奪い返した。
『余計なお世話だ』
『事実を言ってるんだ。お前の知りたいことは、その中に載っていない』
 瞬は小さく首を振った。由稀は眉をひそめて瞬を見つめた。
『どういうことだよ』
 由稀は本を持つ手に力を入れた。
『お前、俺の中を見たのか』
 瞬の胸倉を掴む。由稀は奥歯を噛み締めて瞬を睨みつけた。瞬は涼しげに由稀を見下ろした。
『少し考えればわかることだ』
「どうだか」
 小さく呟いて、由稀は瞬から手を離した。ブレイスを小脇に抱え、窓枠に片足をかける。
『やめておけ』
 瞬の言葉を無視して、由稀は湿り気のある木枠に掴まる。
『知ったからって、どうなる。何も変わらないだろう』
 妙に落ち着いた声音で瞬は言う。由稀は息を深く吐き出して、窓枠から足を下ろした。
『何かを変えるために知ろうとしてるわけじゃない。俺はただ俺のことが知りたいだけだ。俺の一族、家族、そういうことを知ろうとして何が悪い』
『育ての親がいるんだろう』
 由稀は頷いた。
『それは不満なのか。お前にとっては血縁だけが親たりうるのか。それは、彼らに対する裏切りじゃないのか』
「そうじゃない! あの人たちには本当に感謝してる!」
 怒鳴りつけて、由稀は我に返った。口を押さえて、瞬を見る。その表情はさきほどまでとは比べものにならないほど、鋭く厳しいものだった。部屋の外、少し離れた場所から、金属が床にぶつかる音がした。騒々しく、理性や平常心を掻き毟るような音だった。その残響の奥から、足音が聞こえた。由稀は本を抱きしめて、身構える。横から舌打ちがした。横目に瞬を見上げると、彼は自虐的な笑みを浮かべて額を押さえていた。端整な顔立ちが愁いを帯びて、破滅的な艶を放った。
「知らなくていいことだってあるさ」
 瞬は煙草に火をつけて、紫煙を吐いた。
「どんな理由があっても、子どもを手放すのは最低の親がすることだ」