THE FATES

6.鬼哭(3)

 扉は、割れそうに大きな音を立てて押し開かれた。
「誰だ!」
 男の声が響く。燭台の光が、由稀と瞬の目を塞いだ。光の影には、一人の男の姿が見えた。よれた服を着た、痩せ型の男だった。男は燭台を前に突き出して、部屋の中へ一歩踏み込んだ。
 由稀は肩越しに背後を振り返る。この高さなら死ぬことはない。だが、怪我は免れそうになかった。玲妥に心配をかけるかもしれない、そう思うと決断はできなかった。
「お、お前は」
 男の呟きに、由稀は視線を前へ戻した。光はさほど由稀の視界を阻みはしなかった。男は震える声で続けた。
鬼使(きし)、鬼使・瞬か」
 そう言って、男は短く息を吸った。全身が揺れるように震えていた。
「お前の知り合いかよ。だったらどうにかしろよ」
 由稀は口早に言って、一歩窓際へ下がった。瞬は煙草の灰を床に落としながら首を傾げた。
 男は手にしていた燭台を床に置き、長い前髪を両手で上げた。
「忘れたとは言わせない。この顔に見覚えがあるはずだ」
 男の額から右瞼にかけて、幾何学模様の刺青が彫り込まれていた。それを見て、瞬はああと声を上げた。
「写真師の……」
里村(さとむら)だ」
 写真師は普通の絵師とは違い、被写体の姿形を寸分違わず描き上げる人物画専門の絵師のことだ。里村は二年前、鬼使・瞬の写真を描いた男だった。
「まさかこんなところで再会できるとは、思ってもみなかった」
 里村の声は、もう震えてはいなかった。むしろ余裕すら感じられる響きだった。由稀は違和感を覚えた。
 里村は小さく笑って肩を揺らした。
「なぁおい。獣肢(じゅうし)って知ってるか」
「さぁ」
 瞬は抑揚のない声で静かに言った。瞬もまた、由稀と同じような違和感を嗅ぎ取っていた。煙草は、吸われないまま灰になっていく。
 里村は上着を脱ぎ、上半身をむき出した。腕から腹にも刺青があった。しかし額にあるものより鮮やかで、今にも動き出しそうな躍動感のある絵柄だった。何の柄であるのかは、線が途切れていて由稀にはわからなかった。
「あの恐怖から抜け出すため、俺は故郷も家族も捨てた。お前に植え付けられたあの地獄。逃れるためには、あれ以上の地獄が必要だった」
 手には絵筆を持って、里村は自分の体に走らせた。筆に色がついている様子ではなかった。だがなぞるだけで、色が浮いてきた。線が繋がり、皮膚の下が蠢く。
「そして魔界でこの力を手に入れた。伝説の彫り師に出会ったのさ」
 里村は手を休めることなく、嬉々として話した。
『由稀』
「え」
 由稀は突然届いた声に驚いた。瞬は数歩前に出た。
『今のうちに逃げろ。こいつはお前とは関係ない』
「でも」
 言葉を続けようとするが、里村の存在に憚られた。瞬の背中を見て、自分には伝達の手段がないことを知る。
「今から見せてやるよ。禁忌の芸術を」
 全ての線を繋ぐと、里村の腕が指先から裂けてめくれあがった。中から体液が滴る。由稀は花のすえたような臭いに耐えかね、口と鼻を手で押さえた。背後を振り返る。しかしまだ決心が足りなかった。
 部屋の中から、獣の咆哮が聞こえた。
 視線を戻すと、里村の裂けた腕から獣族(じゅうぞく)の首が生えていた。喉を唸らせ牙を噛み鳴らし、剥き出した歯茎はぬめりながら光を湛えた。
 由稀は残酷すぎる光景に足が震えた。首に埋め込まれた真っ赤な目が窓辺を捉えた。
「報いを受けろ、鬼使!」
 里村は腕を振り上げ、瞬に向かって突進した。鋭い牙が瞬の喉元を噛み千切ろうと、襲いかかる。しかし紙一重で瞬の姿がその場から消えた。勢い余って、首が由稀の目の前まで迫る。由稀はとっさにしゃがみ込んで、軌道から逸れた。見上げると、真上に獣族の顎があった。緊張と恐怖に押し潰されそうな胸が、短い息を繰り返し吐き出す。由稀は視線を首に向けたまま、ゆっくりと腕を背中に回した。指先に、短刀の柄が触れる。息があがる。掌は汗に濡れた。掴んで引き抜く。鞘走りの音が、吐息の裏に滑り出す。血色の目が、由稀を見た。
「報い、ねぇ」
 瞬の嘲笑に、獣族の意識が逸れた。
「それしきで俺に勝てるとでも思ったか」
 由稀は目を動かして瞬を探した。視界の隅に紫煙が立つ。瞬は本棚に凭れて悠然と煙草を吸っていた。
 里村は顔を引き攣らせるようにして笑った。
「今のは挨拶だ。次は必ず、それを最後の煙草にしてやる」
「どうだか」
 瞬は短くなった煙草を床に落とした。里村は奇声を上げて瞬に向かった。
「早く行け! 由稀」
 獣族が雄たけびを上げて瞬に牙を剥く。瞬は由稀に声をかけたぶん、遅れをとった。頭をかばった腕に、牙が掠った。
「瞬!」
 由稀は短刀を握って立ち上がった。瞬は由稀を一瞥して、肘で里村の頭を殴りつけた。よろめいて膝をつく里村の隙をついて、瞬は由稀の元へ駆け寄った。
「早くしろ」
「お前はどうするんだよ」
「心配されるほど落ちぶれちゃいない。邪魔なんだ、早く逃げろ」
 氷のように冷たい眼差しで言い捨てられ、由稀は少しでも彼を心配したことを後悔した。短刀を背中の鞘に戻し、由稀は窓枠に足をかけた。しかし、本を持っていないことに気付く。
「何してる」
 なかなか飛び降りようとしない由稀を見て、瞬は苛立たしげに言った。由稀は周囲の床に目を配る。ブレイスは、窓から少し離れたところにあった。
「あ」
 由稀は部屋に取りに戻ろうとする。瞬は由稀の視線を追って振り返った。
「ばか」
 ブレイスはうずくまる里村のすぐそばにあった。由稀には本しか見えていないようだった。瞬は由稀の腕を強く引いた。由稀は激しく体をしならせ、引き戻される。体を窓枠に押し付けられた。
「何すんだよ!」
「いい加減にしろ。あんなもの捨て置け」
「そんなことを決められる筋合いはないだろ! もしかしたら載ってるかもしれないんだ」
「忘れたか、載っていないと言ったはずだ」
 瞬の深緑の瞳が、深みを増した。由稀は瞬から滲み出す殺気に息を呑んだ。
「そ、そんなもの」
 唾を飲み込んで、掠れた声を出す。
「人に言われて簡単に信じるほど、ぬるい気持ちじゃねぇんだよ!」
 由稀は瞬の腕をはねのけて、顔を上げた。瞬の肩の向こうに、獣族の首が牙を剥いていた。
 気付いた瞬は、由稀の背中に手を回し、短刀を抜き取った。
「失せろ」
 瞬は腕に力を込めて、背中を向けたまま短刀を里村の腹に突き刺した。捻り上げて少し引き抜いては、背中を押し付けるようにして何度も奥まで短刀を差し込む。里村は叫びを上げた。獣族は歯を食いしばり、隙間から泡を吹いた。
 瞬の体は苦痛の声に打ち震えた。意識の奥に閉ざされたはずの狂気が、血を欲して扉を叩く。
 俺にやらせろ。俺に殺させろ。俺がお前を守ってやる。
 瞬の口元に思わず笑みが浮かんだ。
 不意に無音の世界に落ちる。
『もう誰も殺さないで』
 記憶が狂気を押さえつける。
 瞬は我に返った。
 里村から短刀を抜くと、強く体を押した。里村は突き飛ばされて扉まで転がった。
「行くぞ」
 瞬は窓枠に足をかけた。倒れた里村の腹が上下する。獣族の首は赤い目を瞬に向けて唸った。
 由稀は血の臭いに吐き気をもよおした。
「早くしろ!」
 瞬は由稀に手を差し伸べた。その表情は焦りに歪んでいた。由稀は瞬とブレイスを交互に見た。
「由稀!」
 里村が傷口を抑えながら、上半身を起こした。すぐそばにはブレイスがあった。由稀はブレイスへと一歩足を近づけた。
「今さら竜族なんか追ってどうする!」
 由稀は立ち止まる。里村が、片膝を立てた。咆哮が上がる。
「竜族はもうどこにもいない。滅んだんだ!」
「え……」
 由稀は振り返った。瞬の腕が伸びる。強引に引き寄せられ、由稀は落ちるように窓から飛び出した。

6章:鬼哭・終