THE FATES

7.決裂(1)

 由稀(ゆうき)には、世界が反転して見えた。夜空を蹴るようにして、体の均衡を保つ。何の頼りもない空中で、服を強く引かれた。視界は一面の芝に埋まる。なぜこんなにもはっきりと見えるのだろうと考えて、由稀はようやく我に返った。体が地面に叩きつけられる。肩や腰に衝撃が走った。由稀は呻き声を上げた。
 里村(さとむら)の叫び声がする。目を動かして屋敷を見上げると、窓から獣族(じゅうぞく)の首が垂れていた。赤い目が由稀の周辺をさまよう。
「急げ」
 瞬の声に急かされ、由稀は這うようにして立ち上がった。腕を曲げるたび、足を踏み出すたび、骨が痛みを訴えた。由稀は歯を食いしばって瞬のあとを追った。
 屋敷を囲む壁に、木戸があった。瞬はそこを開いて由稀を待っていた。二人は空から降る夜の光を避けて、細い路地へと身を隠した。滑り込むように陰に潜り、瞬は睨むようにして屋敷を振り返った。夜は静寂の中にあった。
 由稀は壁に凭れて座り込み、長い息を吐き出した。安堵の底から、痛みが競り上がってくる。特に肩がひどく疼いた。
「これ、持ってろ」
 横から強引に渡されたのは、瞬がいつも使っている金属の火付け道具だった。四角く、ある程度の重さがあり、由稀の手の中に心地よく収まった。蓋が開き、小さな火が揺らいでいた。限られた範囲が浮かび上がる。
 瞬は由稀の腕と肩を掴んだ。
「触るんじゃねぇよ」
 由稀は手を振り払おうとしたが、痛みに諦めた。瞬は由稀の袖を捲り上げ、肩や腕の骨を押さえる。
「頑丈に出来てる。ただの打撲だ」
 そう言って瞬は失笑した。由稀は袖を元に戻して眉をひそめた。
「心配でもしたのか」
「最低限のな」
 瞬は由稀の手から火付け具を取ると、煙草に火をつけた。
「どうせすぐに治るんだろう」
 紫煙の白さは吐く息に比べて明瞭で、ひどく冷たい。瞬は立ち上がり、由稀に背を向けた。
「玲妥には心配をかけるな」
「言いっ放しかよ」
 笑いの混じる由稀の言葉に、その場を離れようとしていた瞬は思わず立ち止まった。
竜族(りゅうぞく)が滅んだってどういうことだよ!」
 由稀は声を抑えて叫んだ。瞬の背中を睨みつける。
「どうしてお前がそんなこと知ってるんだ。どうして」
「別に、俺だけじゃない」
 首を振って、瞬は振り返る。
「だったら由稀。お前は今まで誰かに尋ねたことがあったか」
「え、いや」
 由稀は呆然としながら呟く。
 幼い頃、育て親の二人に尋ねたことがあった。だが口を揃えてわからないと言われた。そして、竜族のことは人に聞いて回るなとも釘をさされた。
『あなたが聞いて回ることで、傷つく人がいるかもしれないわ』
 今にして思えば、妙な理由だった。ただその時は、戦争や政治がそうさせていると思ったのだった。
 由稀は肩を落として、うな垂れた。
「じゃあ、俺だけか。俺と玲妥だけが」
「はっきりとは言えない」
羅依(らい)は、夜上(やじょう)は、加依(かい)は! みんな知ってたのか!」
「可能性は、高い」
「そんな……」
 由稀は座ったまま地面に伏せた。裏切られた、そう思った。髪を掴み、込み上げる笑いを堪える。肩が、震えた。
「馬鹿みたいだ」
 銀色の腕輪を抱いて、由稀はか細く笑った。掌に、銀色の熱が染みた。
「お前が今までどんな本を見てきたか知らないが、まさか載ってないはずはなかったんだがな」
 瞬は悠然と煙を吐いて腕を組んだ。
「これで満足か」
「てめぇ」
 由稀は体を起こして瞬を強く睨みつけた。眼差しに憎悪が滲む。胸の奥に、異質な意思が芽生えた。腕輪が燃えるように熱くなる。由稀は壁に手をつき立ち上がった。不意に、誰かに支えられているような感触を、背中から覚えた。
「俺が全部見落としてきたとでも言うのかよ」
「さぁ、どうだろうな」
 瞬は煙草をくわえて、服の隠しに両手を突っ込んだ。薄く形のいい唇がやんわりと笑む。由稀は倒れこむようにして瞬の胸倉を掴んだ。
「そんなぬるい気持ちでやってねぇよ! お前みたいに好き勝手してる奴にはわかんないかもしれないけどな、俺は俺の全てを賭けて竜族のことを調べてたんだよ」
 確かに自分の中にある気持ちだが、言葉にすると一層悲しみが増した。由稀は唇を噛んだ。
「それを、その全てを、こんな風に壊しておいて、お前は平気で笑うのか」
 腕輪の熱は腕の感覚を徐々に奪っていった。由稀の指先は小刻みに震えた。
 燃えきった煙草の灰が、雪のように目の前に降る。由稀はそれを辿って見上げた。瞬は温もりの欠片もない、氷のような眼差しで由稀を見下ろしていた。恐怖が由稀の体を凍らせる。
「好き勝手、だと」
 これが、鬼使(きし)・瞬なのか。
 由稀は恐れに声を詰まらせた。錆びかけた指を軋ませ、瞬の服から手を離す。逃げようとする手を、瞬は潰すように握った。
「お前が俺の何を知る」
 煙草が揺られて、雪が落ちる。由稀は顔を背けるように、雪の行方を目で追った。小さなきらめきは、壁の陰に溶けて見えなくなった。
「お前が何に賭けようと、俺には関係ない。だが、お前に何の権利があって、俺を語る」
 瞬の手に、さらに力がこもる。由稀は痛みに顔を歪めた。胸の奥で、果実が腐敗していくような不快感が広がる。由稀の手から離れた意思は、それを取り込み増幅していく。俄かに生まれた捉えどころのない彼は、まるで鬼のように由稀の心で暴れた。由稀の首を、汗が幾筋も流れた。
 おもむろに、瞬の手から力が抜けていく。眼差しに満ちていた冷たさも、口元を飾っていた嘲笑も、無表情の下に吸い込まれていく。瞬は軽く突き飛ばすようにして、由稀から手を離した。踵を返し、立ち去ろうとする。
「だったら教えろよ、お前のこと」
 由稀は自分の口から滑り出た言葉に驚いた。鬼の激情が由稀の自由を奪う。
「どうして、移動法を使わなかった」
 瞬は立ち止まり、短くなった煙草を路上に捨てた。革靴で執拗に踏みつける。
「俺の判断基準は、面白いかどうかだ。あの場にいた方が面白いと判断した。それだけだ」
 紫煙が途切れて、火は消えた。
 視線の先、瞬が遠ざかっていく。鬼の焦りが由稀に伝わる。
「使おうとしたんじゃないのか」
 瞬は由稀の問いかけに立ち止まろうとしない。由稀は痛む足を引きずって壁伝いに瞬を追った。なぜ、こんなことをしているのか、由稀は自分に問いかける。だがそれはすぐに鬼によって打ち消された。
「意図的に使わなかったなら、お前が非難を受けるのは明白だ。だけどどうしてそんな危険を冒す。あんな状況で無意味だ。だったら残る可能性は、使えなかったから。でもそれも隠そうとするのは、自分から能力を引いたら価値がないと思ってるからだろう。誰もが離れていくと」
 夜の光が瞬の髪に舞い落ちる。光が一層映えた。
「一人が怖いんだろう。だけど人も怖いんだろう。だから思わせ振りにして逃げるんだ。そうやって天水(てんすい)からも逃げてきたのか。そんなに脆いもののために、お前は絡め取られ、苦しんでいるのか」
 由稀の伸ばした手が瞬の背中に届く。服を掴み、息を整える。火付け具の金属的な音が高く短く響いた。瞬は肩を落とすようにゆっくりと息を吐いた。
「俺は好き勝手してるんじゃないのか。言ってることがさっきと真逆だ。まるで別人だな」
 力なく笑って、瞬はやわらかく髪をかきあげた。
「何がしたい、由稀」
 問いかけられて、由稀は掴んでいた服を離した。頭の中が真っ白になる。鬼の姿を見失った。
 立ち昇る紫煙は砂糖菓子のように甘い香りがした。その匂いは由稀の隙間から入り込み、考える力を奪っていく。腕輪の熱は高まり、由稀は腕を上げることすら出来なくなっていた。鬼が意識の舵に手を伸ばす。
「痛みが」
 のそり、と心の中に影が動いた。
「お前の痛みが、知りたい」
 耳から聞こえた自分の声は、まるで他人のもののようだった。
 夜が明けていくように、波が引いていくように、瞬の表層から動きが消えていく。
 由稀はそれを上目遣いに見つめて、口を曲げて笑った。額には汗が玉のように浮き、背筋は悪寒に震えた。吐き気が込み上げ、壁に手をついてえづく。立っているだけで目が回った。
「おい、大丈夫か」
 瞬の声を遠く感じる。由稀は顔を上げた。目に映る世界はぼんやりとして、曇った窓越しに見ているようだった。
 ただ、腕に嵌めた銀色の熱だけが、由稀の体を動かしていた。
「切り捨てれば苦しむとわかっていたんだろう」
 由稀の意思とは関係なく、言葉が口からこぼれた。
「そうまでして背負う想いとはなんだ」
 風が強く抜ける。細長い雲が足早に空を駆けていく。由稀の中の鬼は、泣いた。瞬の影を見切った鬼が、静かに涙を流していた。由稀の空色の瞳から、一筋の涙が落ちた。服に落ちた雫は、温かかった。
「由稀」
 瞬は訝しげに由稀の顔を覗き込んで、支えるように彼の肩を持った。体が小刻みに震えていた。
 由稀は瞬きを忘れて、力なく首を振る。
「俺じゃない、俺じゃないんだ」
「どうした由稀」
 掴んだ肩を、瞬は強く揺すった。
 風がやむように、由稀の体の震えが止まった。
「由稀」
 呼びかけに、由稀がおもむろに顔を上げる。空色の瞳に瞬が見たことのない輝きが宿る。強く、気高く、繊細な輝きだった。
「何から逃げた。何に怯える」
 張りのある声で問われ、瞬は返答に詰まった。心に鞭を打ち、口元に笑みを浮かべる。
「何に怯えているか、だと」
 演技は体に染み、やがて真実になる。瞬は痛みを懐かしむように目を細めて、声を絞った。
「血脈さ」
 耳元で風が唸る。幕が下りるように夜の光が雲に隠れた。
 瞬の言葉を聞き届けると、由稀は満足したのか意識を失い膝から崩れた。