THE FATES

7.決裂(2)

 倒れた由稀を宿まで連れ帰り、瞬は広中(ひろなか)邸に引き返した。屋敷の周りを一周して様子を窺い、木戸から入る。屋敷の正面へ向かった。見上げた屋敷の屋根に光が遮られる。夜空は影になった屋敷より明るく広がっていた。
 大きな扉を引き開ける。玄関には一つだけ角灯の灯りがあった。周囲が赤く浮かび上がる。油の臭いが強い。瞬は角灯を持って上がった。
 由稀を追って屋敷へ来た時からずっと、気になっていたことがあった。それを確かめに来た。
 玄関を過ぎると、開放的な応接室が続いている。大きな窓からは控えめな光が染み入っていた。その端に、二階への螺旋階段があった。瞬は階段へ近寄り、上階を見上げた。吹き抜けから風が降りてくる。油の臭いが吹き飛ばされ、嗅ぎなれた匂いがした。血の臭いだった。瞬は顔をしかめて階段を見た。薄暗いので、角灯を翳す。黒い液状のものが落ちていた。振り返って床を照らすが、それらしき染みは見当たらない。
「上か」
 瞬は血痕をなるべく踏まないように階段を上がった。白い壁が角灯で赤く染まる。手すりや壁に、こすれた手形がついている。追うと、三階まで続いていた。廊下に出て、血の行く先を照らす。
「まさか」
 思わず呟いて、屋敷の方角を確認する。廊下の奥から光が漏れている。瞬はその場に角灯を置いて走った。一部屋だけ、扉が開いている。扉の正面の廊下には、水溜りのような血痕があった。角灯と違って白い光に照らされ、赤黒い。
 部屋の中には、数え切れないほどの本があった。窓際からずっと、撒いたように血が落ちていた。
「里村」
 自分が与えた傷だ。どの程度の出血になるかは想像できる。瞬は急いで部屋を出て角灯を掴み取ると、一気に螺旋階段を駆け下りた。一番下まで降りて、もう一度床を調べる。やはり階段から下に汚れはなかった。
 これだけの血を流しておきながら、ここから先に一つもないというのはおかしな話だった。まさか里村が移動法を使えるはずはないし、もし使えたとしても、なぜ階段を降りなければならなかったのか疑問が残る。何か他の要因で里村は文字通り消えたとしか、瞬には考えられなかった。
 傷を負わせたのは瞬自身だ。だが瞬は彼の無事を祈らずにいられなかった。
『もう誰も殺さないで』
 約束は、まだ破っていない。
 瞬は応接間の窓に寄った。そこから夜空を見上げる。雲間から夜の光が漏れる。窓に映る自分の姿を見て、視線を逸らした。
『切り捨てれば苦しむとわかっていたんだろう』
 由稀の言葉が耳に蘇る。瞬は手の中に火付け具を握った。
 そんなことはわかっていた。だが、それしか選択肢がないと思いたかったのだ。年若い由稀にそれをわからせるつもりはなかった。瞬は煙草に火をつけて息を吐いた。
 苦しむとわかっていても、苦しませるとわかっていても、もう奪われることに耐えられなかった。どうせなら、自分の手でその絆を切ってしまいたかった。
 自分ひとりを恨んで、悔やんで、それで全てが終わるのなら。
 だが、切ったはずの絆を逃げながら追い、似たものを探し続ける自分はなんと醜いことか。瞬は窓に映る自分の顔を睨みつけた。同じように窓の向こうにいる自分も睨みつけてくる。その深緑の瞳からは、死の匂いが立ち込めた。瞬は窓に煙を吹きかけた。
 窓に映る背後の景色に、扉を一つ見つけた。瞬は目的を思い出し、角灯を持ってそちらへ歩いた。煙草は応接机の上にあった灰皿へ軽く押し付けた。
 扉は玄関のすぐ横手にあった。押すと、蝶番が鳴いた。瞬は部屋の中から溢れ出してきた臭いに、思わず吐き気をもよおした。角灯を翳して、その光景に声を失った。小さな仕度用の部屋に、十を超える死体があった。
 血や死体の臭いには慣れていると思っていた。何十年もこのような光景から遠ざかり、健全になっていたことに驚いた。
 一歩足を踏み入れると、絨毯は大量の血を吸い込みぬかるんだ泥土のような感触になっていた。歩くたびに水を跳ね上げるような音がした。
 足元の死体は服装から屋敷の使用人のようだった。腕や腹を食い千切られていた。里村の所業とすぐにわかった。
 部屋の奥から、か細くくぐもった声がした。瞬は死体を乗り越えて奥へ進んだ。隅に、死体が十ほど寄り集まっていた。声はその下から聞こえた。瞬は死体を抱えて山を崩した。四体ほどを動かしたところで、子供の顔が出てきた。まだ、生きていた。瞬は周囲の死体を除け、少年を抱えて引きずり出した。片脚の膝から下が噛み千切られていた。浅い息を繰り返し、力ない声を出していた。
「泣かないで」
 瞬はそう少年に諭して部屋を出た。出血量がわからない。体力は少しでもある方がよかった。
 担いで、応接間まで運ぶ。ほのかな光の下で見ると、顔は青褪めていた。瞬は椅子にかけてあった布を引き裂いて、少年の膝に巻いた。強く縛り、少年の頬を叩く。
「しっかりしろ。死ぬな」
 瞬の呼びかけに、少年は薄く目を開けた。
「ち、父上、母上」
 声は掠れて、音になっていない。
「大丈夫。今、他の者が助けに行った」
 瞬は少年の体に手を翳した。体中の力を手に集中させる。
「頼む」
 掌から少年に向かって力が降り注ぐ。しかし到底、少年の傷を癒せるほどの力ではなかった。弱々しく震え、やがて萎えていった。絶望が瞬の心を蝕む。使えないのは移動法だけではなくなっていた。
「くそっ」
 そばにあった机の脚を払うように殴った。揺れて、乗せてあった器が倒れた。机の端から水が滴る。
 自分は何もできない。無力だ。
「待っていろ。人を呼んでくる」
「あ、あ」
 少年が何か言いたげに口を開く。瞬は留まった。
「どうした」
「あの、化け物は、どこ」
 里村のことに違いないと瞬は思った。顔を上げて、螺旋階段を見る。手に、冷たく湿った指が触った。
「父上、母上」
「化け物は死んだよ。もう大丈夫」
 瞬は少年に向かって微笑んだ。少年にはそれが見えているのか、口元に小さな笑みを乗せた。伝わってくる生の鼓動は、生きているのがおかしいと思わせるほど頼りない。この少年はもう長くないと瞬は悟った。せめて最後に夢を、そう思った。拳を握り、まだ力があることを確かめる。
「ほら、大丈夫」
 そう言って瞬は少年の額に手を乗せた。少年は狭くなった喉を喜びに震わせた。
「父上、母上」
 細い腕が、幻で映る父と母を求めて痙攣する。瞬は目を逸らした。
「ご無事で」
 そう言って少年は息を引き取った。瞬は少年を抱きしめた。歯を食いしばって堪えても、隙間を見つけて涙が溢れた。言葉にならない叫びを上げた。
「すまない、すまない」
 いま救えなかったことを詫びているのではない。里村をあのように追い詰めた罪を悔いていた。たくさんの命を奪ってきた。だが瞬はもっと多くの人生を奪ってきたことに、今さらながら気がついた。
 報いなら、この身で受け止める。その覚悟はできている。だというのに、神はなぜ、このような子供を巻き込むのか。
「なぜ、なぜだ。どうして俺のところへ来ない」
 机の上にあった器を割り、その破片を手に握る。掌は、いとも簡単に切れた。血が腕を伝って落ちる。手を開き、破片を捨てる。血は多かったが、傷は浅かった。たかがこれしきの怪我にも、怖気づいているのだ。瞬は自分の覚悟を疑った。報いを受ける価値すらないと、神に笑われたようだった。
 瞬は少年の体を静かに横たえ、胸の上で手を組ませた。少年の死に顔は穏やかで、瞬は遣り切れなさに顔を歪めた。
「俺を、恨め」
 憎しみを持たせることでしか人を想うことが出来ない。それが報いなのかと、瞬は心のうちで神に問うた。

 部屋に入ると、窓際の角灯にはまだ油が残っていた。やわらかい光に寝台の膨らみが包まれていた。
 瞬は血で汚れた服を脱ぎ捨て、寝台に潜り込んだ。少女を背中から抱きしめる。そうやってようやく、自分の体が冷えていたことに気付いた。
「どないしたん。泣いてるんか」
 少女は眠りから覚めやらない声で言った。瞬の手を取って、胸に抱く。
「怪我してる」
 掌をなぞり、少女は呟いた。
「ああ」
 瞬は少女の髪に顔を埋めた。掌を温かい舌が舐め上げる。
「痛かったやろ。おまじないしといたから、もう大丈夫や」
 そう言うと、少女はまた眠りについた。そして瞬も吸い込まれるように眠りに落ちた。