THE FATES

7.決裂(6)

 漣の空と謳われた天水の空も、今では墨を流し込んだような灰色になっていた。
 少年は改造を重ねたスウィッグの上から、道端に唾を吐き捨てた。スウィッグは道幅が狭い天水には、なくてはならない移動手段だ。人が二人は立てる楕円形の底板には、滑らないように特殊加工が施されており、後部には飾り程度の安全柵が腰の辺りまであった。前部からは首が誇らしげに伸びている。上には平らになった操作面があり、左右からは方向を操る握りが突き出ていた。
『よくここまでしたな』
 彼の知り合いは見るなりそう漏らした。一般的な黒や銀の色を避け、赤い塗料を用いた勇気も指しているが、主にはその改造ぶりを言っていた。市販のスウィッグは地上すれすれにしか浮かないが、彼の物は二階建ての建物も飛び越えるほど浮かび上がる。さらに地面だけでなく、壁などの走行も可能だった。
「どうせ俺は暇ですよ」
 小さく呟き、彼は赤煉瓦の壁を滑って速度を上げた。
 目元を隠す遮光眼鏡をわずかにずらし、少年は道の先を見据える。先には錆色の城が聳えていた。天水王家の居城であり、政治の中心でもある、水輝城(みずきじょう)であった。彼は鮮やかな橙色の髪を風に乱し、城を目指す。城門で一度停止して、門衛が通用門を開けるのを待った。
「おかえりなさいませ」
 少年と同年の若い門衛は頭を下げ、鉄格子の通用門を開けた。
「久しぶり。こないだ修理した通信機、調子はどう」
「はい、何の問題もなく動いてます」
 門衛は畏まって直立した。
「そっか、よかった」
 少年はさして嬉しくもなさそうに言って、城内へと入った。
 水輝城の庭は一部に庭園があるだけで、あとは若草色の芝生が続いていた。彼は裏手にある小屋へスウィッグを置き、回廊へ向かった。俯いて、交互に出る自分の足を見つめる。出所の曖昧な苛立ちと悲しみが、少年の心に交互に顔を出す。やりきれないため息が、薄く形のいい唇から漏れた。
貴宮(あつみや)様」
 城内から少年の聞き知った声がした。顔を上げると、背の高い男が一人立っていた。渋みのある茶色の髪は整えられて清潔感があり、明るい紺の瞳は涼しげで知性に溢れていた。
「どこへ行ってらしたんですか」
「研究所。他にどこ行くんだよ」
 貴宮は唇を尖らせて、上着を男に預けた。
「話はお聞きになりましたか」
「話って、何」
 男に持たせた上着の中から、貴宮は銀色の煙草入れを取り出した。煙草に火をつけて、紫がかった煙を吐く。男は煙草入れを受け取り、光沢のない銀色の表面に視線を落とした。
尋宮(ひろみや)女王が退位を表明なさいました」
「え」
 回廊に座り込んでいた貴宮は驚いて腰を浮かせた。
「それ、いつ」
「つい先ほどのことです。定例会議で、発表されました」
陣矢(じんや)は知ってたのか」
 貴宮は柱に手をついて立ち上がった。陣矢の顔を見上げる。陣矢は静かに首を振った。
「いいえ」
「おじさんたちは」
「おそらく相談はなかったものと」
「勝手に、そんな」
 貴宮は言葉を失い立ち尽くした。陣矢はそんな貴宮の姿をじっと見つめた。
「もう、あまり猶予がないようです」
「あぁ、そっか」
 ゆらりと貴宮は歩き出した。
「貴宮様、どこへ」
(あかね)に会ってくる」
 貴宮の足取りはしっかりしているが、陣矢には今にも彼が倒れそうに見えた。
「貴宮様」
「何」
 振り返った貴宮の表情は、魂が抜けたようだった。陣矢は喉まで出かかった慰めを堪えて、手を差し出した。
「お煙草を」
「あぁ」
 貴宮は思い出したように返事をして、吸いかけの煙草を陣矢に渡した。
「なぁ、陣矢。ようやくこのときが来たよ」
「え」
 陣矢は嫌な予感を抑え切れず、思わず聞き返した。顔を上げた貴宮は、虚ろな笑みを浮かべていた。
「報復のときだ」
 静かにそう言って、貴宮は城の奥へと進んでいく。陣矢は回廊から悲しげに貴宮の背中を見つめていた。

 天水王家の戴冠式では、殊来鬼(しゅらき)という一族の術を受けるのが慣例となっていた。それにより王は王位に就いた当時の若さを保つことが出来た。そして彼女もまた、王位を継いだ二十歳の姿のままだった。
 部屋の窓から街を見下ろし、茜はため息をついて額を硝子に押し当てた。瞼を閉じて、世界から濃紺の瞳を覆い隠す。灰色の雲の間からかすかに降り注ぐ光を受けて、肌は雪のように白くなめらかだった。しかし緊張のため、頬は何度も引き攣った。軽く頭を振って、瞳を開ける。目の前に落ちてくる黒髪を一つにまとめ上げ、深呼吸をした。両手で顔を挟む。
「大丈夫、大丈夫」
 小さく声に出して、茜は何度もそう繰り返した。
 軽く、扉を叩く音がした。
「はい」
「茜、俺」
 扉の隙間から、橙色の髪の貴宮が顔を出した。茜は微笑んで手招きした。
「いいよ」
 茜は平静を装って言った。貴宮は頬に小さな安堵を浮かべて、部屋に入った。後ろ手に扉を閉めて、不慣れな咳払いをする。
「陣矢に聞いた」
 眼鏡に目元を隠され、彼の表情は読めなかった。茜はじっと貴宮の言葉に耳を傾けた。
「もう、無理なのか。あいつのところへ行くのか」
 貴宮は声の調子を落とした。茜は無言で頷く。
「どこにいるとか」
「大丈夫。知っていそうな人に心当たりがあるから。それより、(こう)
 茜は扉の前から動かない紅の元へ歩み寄った。彼女の真っ直ぐな視線が、眼鏡越しに紅を射る。
「あなたには、私と一緒に行く義務がある。たとえ彼と私のことを恨んでいようと憎んでいようと、避けられないことなの」
 眼鏡越しにうっすらと紅の目が見えた。茜は続ける。
「今までの繰り返しになるけど、あの人は私と紅のことを考えて決断したの。それだけは忘れないで」
 茜は紅の腕を掴んで訴える。
「だからお願い、一緒に来て」
 真剣な懇願に対して、紅は頬を緩めて微笑んだ。
「俺が茜にこんなふうに言われて、断ったことがあったか」
 茜は一瞬目を丸くしたが、すぐに首を横に振った。
「ない」
 彼女の微笑みの隙間から、涙がこぼれる。紅は袖を手繰り寄せて、その涙を拭った。
「茜のためなら、俺はなんでもするよ」
「ありがとう」
 掠れた声で呟いて、茜は紅の頬を撫でた。体中に痺れが走る。それは幸福という衝撃だった。目指す先に破滅があったとしても、今の彼女には何の迷いもなかった。ただもう一度、自分のためだけに生きようと誓った彼女は、姿だけでなくその心も少女のときのように華やぎ、光に溢れていた。
「瞬には言わないでね、それだけ約束してね」
 紅は静かに頷いて、茜を抱きしめた。
 これが本当に最後になる。特別を忌み、当たり前のことに憧れ続けた彼の、その望みを少しでも共有したかった。
 たとえ瞬を傷つけることになっても。
「茜のためだから」
 そう言った紅の声は強かった。茜を抱きしめたまま、眼鏡を外して窓の外を見遣った。その瞳には、冷たい憎悪が滾っていた。

7章:決裂・終