THE FATES

8.暴走(1)

 部屋の中はまだ薄暗い。天井には、通りの街灯がぼんやり浮かんでいた。窓に引かれた薄布の向こうを、由稀は寝台に潜り込んで見つめた。鮮烈に明けていく夜を、一粒も零すまいと握りしめた。
 息を潜めると、自分の鼓動で耳が塞がれた。野放しにすると、際限なく膨張していく。体中が鼓動で埋め尽くされていく。低く響き、余韻を残す。鐘の中にいるように、胸の襞が鳴動に震えた。
 鼓動の余韻が、自分以外の存在に思えて恐怖した。
 由稀は水の中から上がったように、空気を求めて口を開いた。手首に嵌めた銀色の腕輪を、まじない代わりに撫でる。汗ばんだ指先に、腕輪は冷たく触った。つれなさに、興奮は次第に冷めた。天井に咲いていた街灯の花が、しぼんで消えた。
「おはようございます」
 背後から、加依の声がした。由稀は反射的に眠っている振りをした。薄い毛布からはみ出た足の指が、勝手に動く。観念して、肩に詰め込んだ空気を吐き出した。
「おはよ」
 由稀は振り返らずに言った。空が朝に染まっていくのを、見逃したくなかった。
「早いんですね」
 加依が起きる気配があった。由稀は口元まで毛布を引き上げた。白い朝が濃紺の夜に滲んでいく。そのさまは、潮が満ちるようだった。
「なんか、ふっと目が覚めて」
「そうですか。疲れが溜まると、逆にそういうこともあるそうですよ」
「すげぇ悪循環」
 乾いた笑いをこぼして、由稀は肩越しに加依を振り返った。加依はもう靴を履き終え、上着に袖を通していた。由稀に気付いて、型通りの笑みを返す。
「旅も終盤です。じき、首都メプトリアですよ」
 加依の言葉には息苦しさがない。現実の生々しい感触が、故意に抜き取られていた。
 視界の隅に、光の帯が射す。由稀は視線を空に戻した。生まれたばかりの朝は、この髪色よりも澄んでいた。
「なぁ、加依」
「なんですか」
 髪を束ねて加依は顔を上げた。
「ありがとう」
 由稀は空を見たまま言った。加依は苦笑して荷物をまとめる。
「何の話ですか」
 笑いながら、加依は由稀の頭を撫でた。遠目には繊細に見える加依の指は、由稀が思っていたより力強いものだった。
「先に洗面使いますよ」
「うん」
 返事をして、由稀は毛布を頭まで被った。空の光が透けて見える。強い光に憧れた。あの色彩になりたいと思った。喉の奥で、鼓動が打った。銀色の腕輪がきつく締まる。
 熱が行き場を失い、衝動が爆ぜた。

 闇をぬって、薄明かりが忍び込む。亜須久はやわらかな眩しさに目を覚ました。窓に引かれた薄布が風に揺らいでいる。光はそこから洩れていた。体を起こすと、冷えた空気が鼻先を掠めていった。
 間隔をおいて置かれた隣の寝台は、亜須久が眠るときに見たままで、乱れひとつなかった。
 朝の張り詰めた世界に、研ぎ澄まされた金属音が小さく響いた。窓から続く露台に、人影があった。風に、甘い香りが混ざる。
「起こしたか。悪かったな」
 人影が部屋の中へ入ってくる。真新しい光に、男の薄茶色の髪が透けて見える。亜須久は、眩しさに片目を瞑った。
「いや、大丈夫だ。それより瞬、寝ていないのか」
 次第に目が慣れて、亜須久は真っ直ぐ瞬を見た。背後からの光を遮り、陰影濃く浮かび上がる瞬の頬には、深い溝があった。笑っている。
「干渉される義理はない」
 瞬は卓の上にあった水差しから、直接水を飲んだ。口の端から水がこぼれ、首を伝って服を濡らした。亜須久は執拗に聞くことはせず、靴を履いた。顔を洗うため、寝台から離れる。
 洗面台は、仕切りのない隣の部屋にあった。足元から冷気が立ち昇ってくる。床は澄んだ青や濁った白の、光沢のある陶磁器だった。目の高さにある小窓には、拳大の鳥が羽を休めている。人懐こく、亜須久に動揺することはなかった。亜須久は袖が濡れるのも厭わずに、顔に水を打ちつけた。冷たさに息が出来なくなる。栓をして水をとめる。乳白色の洗面台に両手をついて肩で息をした。鼻先から顎から、瞬く睫毛から雫が落ちた。清々しさがじんわりと広がる。
 小鳥が悲痛な声をあげて、飛び降りるように羽ばたいた。
「いつまでだ」
 砂糖菓子のように甘い煙草の匂いに、清新な冷気は息の根を絶たれた。亜須久は顔を上げた。鏡に、背後の瞬の姿が映っていた。深緑の瞳は妙な輝きを放ち、目の下には黒ずんだ隈があった。出会った頃より頬は痩け、作り物のような色彩の髪は艶を失っていた。だが、それは決して醜悪なものではなかった。むしろ厭世的で鬱とした眼差しが、人智を超えた妖しさで威圧した。
 亜須久は狂気的な美しさの前で、思わず言葉を失った。
「どうなんだ。聞こえているのだろう」
 苛立った瞬は、重ねて問う。亜須久は顔に残る飛沫を手で払い、渇いた喉に唾を押し込んだ。
「いつ、とは」
「まだ夢の中か、夜上。俺は、いつまで、お前たちといなきゃならない」
「あ、あぁ。そのことか」
 亜須久は備え付けの布で顔を拭い、小窓から空を一瞥した。霞の向こうに光の塊があった。
「まだ連絡がない。じきにあるとは思うが」
 目の奥に白い光が残ったまま、瞬を見る。光は黒い影になり、瞬を隠した。亜須久は曖昧な笑みを浮かべた。瞬は舌打ちをした。
「いいか、あったらすぐに教えろ。そして奴らに穏便に話をしろ」
 瞬は背中を丸めて部屋へ戻る。まっさらの寝台に腰掛けて、脚を組んだ。亜須久に向けられた靴裏は、ひどく磨り減っていた。
「まだ、結論はわからない」
「考えるまでもないだろう」
 瞬は軽く首を振った。髪がやわらかく揺れた。眼差しは物憂い。
「瞬から、由稀たちに話さないのか」
「必要ない」
 指に挟んだ煙草は短くなっていた。真っ直ぐ上に立ち昇る煙は、先へ行くほどに統制を失い、蛇行して霧散した。灰が、枯れて砕ける。
「何を焦っている」
 亜須久の声は、後悔するほどよく通っていた。瞬はおもむろに顔を上げる。強張った表情からは、強い拒絶と孤独が感じられた。亜須久は視線を逸らし手早く着替えると、小さな荷物を持って部屋を出た。
 扉の向こうの静寂に、鳴けぬ鳥の悲しみを思った。