THE FATES

8.暴走(2)

 亜須久が部屋の前から去る靴音を聞いて、瞬は短くなった煙草を投げ捨てた。軽い炎は飛び跳ねながら壁際まで転がり、床を焦がした。壁に張り付いていた露が染み、炎は命をもがれていく。最期の煙はあっけなかった。
 瞬は立ち、窓のそばへ寄った。夜は完全に明け、街は動き始めていた。真下に見える通りを、荷車が横切っていく。めくれた布から鮮やかな色の果物が覗いていた。世界は白々しいほど生命に満ちていた。
 露台に進み、空を見上げる。そこに夜の名残はもうなかった。瞬は底知れぬ居心地の悪さに苛まれた。足元が沈み込むような錯覚に立っていられなくなる。目に見えるもの、手に触れるもの、耳に聞こえるもの、全ての感覚から現実性が失われていく。自分の掌をじっと見つめて、瞬は首を傾げた。
 これは本当に在るのか。
 後ろを振り返り、自分の影を確かめる。一瞬、光が体を透けていったように感じたのだった。
 胸の奥につかえを感じて、瞬は軽く咳き込んだ。聞き苦しい声が体の中に響いて、頭痛が揺り起こされた。鉄の棒を打ち込まれるような痛みだった。光がいけない。そう思って瞬は部屋の中へ戻った。壁伝いに歩き、洗面台まで行く。鏡の前で顔を上げると、口元が血に汚れていた。掌にも、荷車で運ばれる果実のように鮮やかな血色が滲んでいた。驚きはなかった。これが初めてではなかった。
 栓を外して、水を出す。流れる音に、全身を巡る血潮を想像した。暗い穴に水が吸い込まれていくように、自分の中に流れる体液もむざむざと外に飲み込まれていくようだ。瞬は咳き込み、滞る血を吐き出した。血は水に薄まりながら、渦を描いて吸い込まれていった。
 背中を悪寒が走る。
「まさか……」
 何日も眠れない日が続いていた。食欲などとうの昔からない。術もほとんど使えなくなっていた。瞬は過去に符号を見つけ出す。脳裏に、街で見た色褪せた写真が浮かぶ。
「奴が」
 これが全て予兆だとしたら。
「来るか」
 瞬は直観した。体の奥に封じられた化け物が、擦り切れた鎖を引き千切る。破壊を、恐怖を、悲鳴を。飢えて涎を垂れ流し、ひたひたと扉に近付いている。自然の摂理に従って、自分を守ろうと蘇る。力を求めて、腹の底で脈打つものがあった。歪な魂が冷たい眼差しで隙を窺っている。
 瞬は焦燥に心を竦めた。
 足元から這い上がってくる震えが、恐怖を装う歓喜に思えて、瞬はすでに食い込んでいる狂気の爪に怯えた。どこまでが自分でどこからが狂気か、瞬にはその境目がわからなくなっていた。もう自分はいないのではないか。疑い始めると狂気は一気に増大した。
『行くのなら、約束して、瞬』
 舌に燻る鉄の味で、正気を確かめる。瞬は両手に水を掬って口に含み、残った血を吐きだした。
『一つ、封印を解かないで』
 鏡に映る自分を睨みつける。目に輝きはなく、肌からは血の気が引いていた。しかし今度こそはこの体を譲るわけにいかない。罪を背負うのは怖くない。だが、約束を違うことだけはしたくなかった。
『一つ、もう誰も殺さないで』
 頬を軽く叩き、眼鏡をかける。髪を水で濡らしてかきあげる。上着をはおり、靴の踵で床を鳴らす。
『死なないで』
 たとえ体中の血が流れ出ても、跪くわけにはいかなかった。

 部屋から出て一階に下りると、玄関から繋がる広間の椅子に、羅依の姿があった。瞬は食堂へ向かおうとしたが、思い直して彼女の横へ腰を下ろした。
「一人か、珍しいな」
「わ、瞬」
 思わず出た大きな声に、彼女自身が一番驚いていた。両手で口を押さえ、耳まで真っ赤にした。瞬は悪びれる様子なく、声を潜めて笑った。
「な、何だよ! 驚かすなよ」
「そんなつもりはなかったんだけど」
 煙草に火をつけて、瞬は長椅子の背もたれに体を預けた。横目に羅依を窺うと、俯いて何やら文句を呟いていた。
 どういう経緯があって、羅依が鬼使を憎むのか、瞬には事情が思い出せなかった。羅依のことはしっかりと覚えていたが、それはもっと別の理由からだった。
「灰皿、取って」
 瞬の声で羅依は我に返り、灰皿を押し付けるようにして渡した。真っ青の硝子で作られた灰皿は、厚みがあって重かった。受け取って、羅依とのあいだに置く。
 灰を弾く。粉々になって、散っていく。軽やかに舞いながら、灰は青の中にそっと降りた。
 羅依は頬杖をついて、大きな窓の外を眺めていた。横顔には、翳りがあった。
「泣いてたのか」
「え」
 羅依は長い髪を揺らして瞬を振り向いた。
「目、腫れてる」
「うそ」
「ほんと」
 瞬は眼鏡を外した。遮るもののない世界は、透けた白さに溢れていた。羅依は、指先で目元を押さえている。
「みんなに見られる前に、冷やしておいで。その程度ならすぐに引くよ」
 持っていた煙草を口に咥え、瞬は羅依に眼鏡をかけた。乱れた前髪を指先で整えてやる。眼鏡の隙間から、羅依が上目遣いに瞬を見上げた。夕焼けの空に浮かぶ、昼と夜に挟まれた雲のような淡い紫の瞳は、物欲しげに疼いていた。
「何かあったか」
 咥えた煙草から灰が雪のように落ちる。誘われるように手を髪に伸ばしかけて、瞬は呼吸をとめた。何事もなかったように羅依から体を離して、目映い世界を眺める。
 羅依は灰皿の灰を指に掬った。
「怖い、夢を見た」
 小さな声で羅依は言った。
「そうか」
「瞬も見たりするか」
「そうだな」
 瞬は目を細めた。
「現実より怖い夢は、見ないよ」