THE FATES

8.暴走(3)

 街は首都へ近付くにつれて、賑わいを増した。由稀は仲間から距離をおいて、黙々と歩いていた。肩越しに振り返ると、地図を見ながら歩く亜須久の姿があった。
 交互に踏み出される自分の足を見つめる。行き違う人は気配を感じ取ってかわした。目にかかる空色の髪が、気楽に揺らいだ。
 リースでの夜のことが、頭から離れなかった。思い返すと、夢でも見たかのような浮遊感が伴った。夢ならばという後ろ向きな気持ちが、拭いきれない。真実を確かめたくても、瞬を問い質す気にはなれなかった。
 陽射しは強くなった。由稀はここが確かに南国であることを、肌の痛みをもって知った。
 由稀は深くため息をついた。
「なんだよ、ため息なんかして」
 羅依の声に、顔を上げる。いつの間にか、横にいた。
「ガラじゃないね」
 彼女は前を向いたまま言った。由稀は顔を逸らした。
「ほっとけ」
「かわいくねぇな。人がせっかく心配してやったのに」
「お前には関係――」
 言いかけて、由稀は続く言葉を飲み込んだ。
『お前の痛みが、知りたい』
 由稀は羅依の涼やかな横顔を見る。羅依は二年前の鬼使・瞬に会っている。彼女なら、何か手掛かりを知っているかもしれなかった。だが聞けば、彼女の深いところへ踏み込んでしまうことは、容易に想像がついた。
「調子、悪そうだな」
 黙りこんだ由稀を気遣って、羅依が言った。彼女は小さく微笑んでいた。
「ずっとラルマテアにいたんなら、仕方ないよ。気候が違いすぎる。玲妥も言ってたよ、寝ても寝ても眠たいって」
 羅依の赤い耳飾りが、由稀の視界の隅で揺れた。
「夜上に言った方がいいよ。玲妥と一緒に言いに行ったら? もうすぐ首都だけど、それならなおさら、無理に急ぐことも――」
「違うんだ」
 由稀は羅依の言葉を遮った。珍しく強い口調に、羅依は目を丸くした。由稀は棘のような後悔を横目に見つつ、口を開いた。
「違うんだけど、迷ってるんだ」
 確かめながらゆっくり話す由稀を、羅依は決して急かすことはしなかった。袖が触れそうで触れない距離を、並んで歩く。
「羅依のこと、傷つけそうで」
 由稀は羅依の目を見て言った。淡紫色の瞳は澄んで、忍び来る夜のように近寄りがたい。
「何のことだよ」
「怒ったり、落ち込んだりしないって、約束できるか」
「そんなこと言われても。事と内容によるよ」
「じゃあ、いいや。ごめん」
 由稀は優しく笑ったつもりが、羅依には力ない笑顔に映った。足を早めた由稀の腕を掴む。
「待てよ。気になるだろ」
 羅依は腕を半ば抱き込んで離さない。透けるような彼女の肌に見とれる。頬の上で弾ける光が憎らしく思えた。
「そこまで言ったら話せよ」
 腕に沿う羅依の体のやわらかさに、由稀は動揺した。彼女は由稀を同じ生き物だと思っている。一欠片の警戒もない。不意に生温い風が吹くように、意地悪な欲望が由稀の中に湧きあがった。
「だったら、二年前のこと、聞いても大丈夫か」
「え」
 腕から、羅依の手が解けていった。立ち止まりかけた羅依の腕を、由稀が引っ張る。引き締まっているが、思っていたほど逞しくもない羅依の腕は、由稀には新鮮で手放しがたいものだった。
「やっぱり、こうなる」
「別に、そんなわけじゃ」
 羅依が首を振ると、束ねた髪が宙に揺らいだ。香りが舞う。
「いいよ、こっちこそごめん」
 由稀は、惜しみながら手を放した。羅依は由稀が掴んでいた場所をさらりと撫でて、俯いた。由稀は衝動を反省する。
「誰にだって、聞かれたくないことはあるよな」
「そんなんじゃないって、ば」
 羅依は由稀の顔を覗き込んで言ったが、笑顔になれないことに気付き、とっさに顔を背けた。反動で大きく振った指が触れる。羅依は人差し指を伸ばしかけて、やめた。その指は、もう由稀の手を追っていなかった。
「違うの」
「無理するなって」
「違う、違うって」
「いいよ。ごめんな」
 由稀は大人びた笑みを浮かべた。光への憧れは消えなかったが、目の前のさざやかな愛おしさに、由稀は朝が夜に染み入るように気付いた。

 瞬は最後尾をゆっくりとした足取りで歩いていた。人波の向こうに、亜須久の頭が抜けて見えた。
 街は大らかで、隠すところなく、際限なくあたたかい。南国特有の明け透けな態度が、瞬には受け入れられなかった。ぎりぎりまで張り詰めた警戒心を、思わず解放しそうになる。誘惑は巧妙で、強力だった。
 黒い眼鏡は、瞬と世界を水際で隔絶した。晴れ渡った青空も、眼鏡越しでは曇天になる。また日陰にいれば、瞬の視線が誰かに見られることはなかった。
 掌にまだ血が残っている気がして、上着の裾で何度も拭う。執拗に洗ったにも関わらず、嗅ぐと鉄が臭った。
 頬にかかる薄茶色の髪は風にあおられ、落ち着きなく耳朶を撫でた。瞬は煙草を取り出した。使い込んだ銀色の火付け具を鳴らす。しかし風に火を遮られた。瞬は舌打ちして立ち止まった。
 人の流れが自分を避けて追い抜いていく。眼鏡の隙間から人々の背中を眺めて、火をつける。聞き慣れた金属音は無機質で、冷たく繊細な響きがあった。心に清涼感が生まれ、意識は淡白になる。
 思えば、いつもこうやって人の流れを見つめてきた。燃え盛り、死に向かって生きる人々の姿は、時に切なく、時に逞しかった。短い命を散らして、彼らは多くのものをこの世に残して去っていく。
 瞬は粘つく煙を軽く吹いて吐き、一歩を踏み出した。舗装された道は気高い素振りで、瞬の感傷を道端に投げた。
 随分長く生きた。だがいつまで経っても、瞬には生きているという感覚が得られないでいた。生にすがりつく気は毛頭なく、もう、死んだようなものだった。ただ、死という選択肢がこの手にないだけだった。自分は一体どれほどのものを、この世界に残して逝けるだろうか。そしてそれは一体いつになるのだろうか。本当に、来るのだろうか。許される日が、放たれる日が。
 煙草を噛む。甘い香りの裏に隠された、舌が痺れるような苦味が口の中に広がった。
 もしも今、逝けたなら。
 強い日差しが、肌に刺さる。瞬はこのまま灼き殺される幻想に囚われた。約束を守りたい愛情と、楽になりたい本能が、身を曝けて牙を剥く。踏み出す足は重くなり、砂袋を下げているようだった。
 体に倦怠が染み渡る。指先から煙草が抜け落ちた。頭痛は目眩になる。瞬は人の流れから外れて、路地に逃げ込んだ。体中から汗が吹き出る。頬は火照るのに、肩や腕はひどく寒かった。背中を壁に押し付けて、息を整える。胸を競り上がってくるものがあった。喉に鉄の味が思い出される。瞬は逸って、唾を吐いた。
「これ、落としたよ」
 袖を引く者があった。振り向くと、黒髪の少年だった。
「ありがとう」
 目鼻立ちの整った、美しい少年だった。笑顔の向こうには匂い立つような愁いがあった。少年は瞬の手に、冷たい四角いものを握らせた。少年は、笑みに細めていた瞳を瞬に向ける。それは見慣れた深緑の瞳だった。
「失せろ、腰抜けめ」
 少年は歌うように罵声を吐く。
 周囲の音が消える。街を見張っていたあたたかい風も、首を絞められ死んだ。空から光は奪われ、辺りは闇に染まる。瞬は少年とともに世界に取り残された。
 罠だ。
 瞬は息を呑んだ。少年は美しい顔を大人じみた歓喜に歪め、薄い唇を開いた。
「選手交代さ」
 少年のすべらかな腕が瞬に向かって伸びる。瞬は首を振って、後ずさった。譲ってはいけない。戻れなくなる。瞬は渇いた喉に唾を押し込んだ。反動で、滞っていたものが、胸を裂いて口から溢れた。掌も腕も胸も、真っ赤に染まる。少年の笑い声がした。
「いつまで意地を張るつもりだ。諦めるんだな。お前は俺には敵わない」
 顔を上げると、少年は瞬の姿になっていた。不遜に顎を逸らし、血に濡れた瞬を見下ろす。手には煙草の箱が握られていた。そこから一本を差し出す。
「ほら」
 瞬の手に、煙草を握らせる。巻き紙に血が染みて、赤いまだらになる。
「一服でもしてろよ」
 手で促され、瞬は少年に持たされたものをあらためて見た。覚えのある感触は、銀色の火付け具だった。これは罠だ。明らかな悪意だ。瞬は火付け具を投げ捨てようとしたが、激しく手を振っても離れない。
「無理だよ。お前はそれを捨てられない」
 諭されて、瞬は火付け具を見つめた。傷だらけの表面に、ぼんやりと自分の姿が映り込む。脳裏を、過去が駆け巡る。
 嗚呼、ここに全てが。
 擦り切れた人生の小さな光。凍える夢のかすかな温もり。いつも、この銀色の炎があった。そうだ、これがあれば、まだ生きられる。何も失わない。だから今は、少し、休もう。
 瞬は慣れた手つきで銀色に炎を点した。二人を覆っていた闇が目映い白に染まる。瞬は息を呑んだ。目の前の男が笑っている。
 これは、罠だ。
 男の手が瞬に伸びる。指先が肩に触れる。軽く、後ろに突き出される。視界が空に埋まっていく。手元から火付け具が奪われる。
「さようなら、瞬」
 男は静かに言って、火付け具の蓋を閉め、火を消した。