THE FATES

8.暴走(6)

 濁った風が、喉の奥でざらつく。突き抜けるようだった青天は、悪魔に奪われ黒く染まった。
 鬼使・瞬が、目の前にいる。そのことが羅依の心を掻き乱した。
 羅依は再び鬼使を目の前にして、ひどく狼狽していた。肌を灼くような《気波動》にあらためて愕然としたが、何より、あれほど抱いていた憎悪が一切沸いてこない自分の心に当惑していた。
 男は優雅に微笑む。彫刻のように整った鼻梁は、氷のように冷たい。薄茶色の髪が揺れ、深緑の瞳が見え隠れする。じっと見つめられると、息が止まってしまいそうだった。羅依は唾を飲み込んだ。
 声を上げて、瞬が笑った。羅依は顔を赤くした。
「な、何がおかしい」
「これが笑わずにいられるか。俺の喉を掻っ切るだと。お前に出来るなら、やってみるといいさ。俺の返答がないと出来ないなら、いくらでもお望みの返事をしてやるよ」
 瞬は迷いなく、真っ直ぐ羅依に向かって歩き出した。
「なんだと」
 羅依は思わず足を一歩後ろへ踏み出す。逃げたくないのに、体が無意識に危険を回避しようとしていた。せめぎ合い、強張った体はその場に張りつけられた。すぐ前に瞬が立つ。彼は羅依の頬に手を添えて、顔を上向かせた。深緑の瞳が抉るように覗き込んでくる。恐怖と美しさに、羅依は声を失った。
「俺に会いたかったんだろう。だったら、ねぇ、嬉しいって鳴いてみて」
「う……」
 羅依の両手から、短刀が滑り落ちた。意識が絡め取られていく。
「健気な女は好きだよ。でも素直じゃないのはいけないね。ほら、どうしたかったの。俺に会ったら、どうされたかったの」
 非の付け所のない完璧な微笑みに、羅依は顔を真っ赤に染めた。息が熱くなる。
「ずっとこのままがいい? 時間を止めてあげようか。君の時間を――」
 瞬は顔のそばに飛んできたものを、とっさに手で払った。手の甲には、血が滲んだ。顔を上げて、羅依の向こうを見る。
「おかしいなぁ。邪魔が入らないように結界を張ったんだけど」
「知らねぇよ」
 由稀は握った瓦礫を上に軽く投げながら、瞬を睨みつけた。
「羅依から離れろ」
「はいはい」
 瞬は羅依から手を離し、軽く由稀の方へ押した。彼女の体は無抵抗なまま後ろへ倒れた。すんでのところで抱きとめて、由稀は胸を撫で下ろす。
「おい、羅依。しっかりしろ」
 呼びかけても、羅依から反応はなかった。虚ろに開いた瞳は何も映していない。
「お前、羅依に何した!」
 由稀は瞬を見上げて声を荒げた。胸の奥がざわついた。いつかの夜のように、腕輪が熱を帯びる。痺れるような痛みが腕を走った。
 力がほしい。
 拳を握ると、腕輪にひびが入った。破片がはらはらと落ちる。由稀は羅依の体を瓦礫に預けた。
「別に。何もしてないよ。ただ、この女がそうなることを望んだだけだ」
「羅依を、そんなふうに呼ぶな」
「どうやって結界をすり抜けた。つくづく君は興味深いね」
「知らないって言ってるだろ」
 激情に刺激されて、腕輪から破片が剥がれ落ちていく。由稀は羅依の額についた自分の血を袖で拭った。そこに、透明の雫が落ちる。一瞬、雨かと疑った。だがそれは由稀の零した涙だった。悔しさが、溢れ出る。
 力さえあれば、彼女を守れたのに。
 強く拳を握る。腕輪が、か細い音を立てた。
「さぁ、どうする。少年」
「どうもこうもねぇよ」
 瞬に背中を向けたまま、由稀はゆらりと立ち上がった。爪が刺さるほどに強く握る。胸の奥に閉じ込められていた鬼が、殻を破る。由稀は肩越しに瞬を振り返った。
「ぶっ殺す」
 熱も痺れもすでになく、由稀は軽やかに腕を払った。銀色の腕輪が、由稀から弾け飛んだ。きらめきが旋風になり、一瞬のうちに竜巻が空を貫いた。道を占め、周囲のものを巻き上げながら瞬へ向かっていく。
 瞬は軽く飛び上がって後退すると、胸の前で両手を向かい合わせた。
「わが源、姿を現世(うつしよ)に、繋紲(けいせつ)の力を示せ」
 手に包まれた部分が金色に輝き出す。瞬はなめらかな笑みを浮かべて、光を掴んだ。竜巻が煽る風に、体が押し出される。それでも彼の微笑みは崩れない。
「荒ぶる害は、静謐の無に」
 瞬は掴んでいた光を、竜巻の渦の中へと投げ込んだ。光が弾けて杭になり、竜巻を拘束する。瞬は目を細めて、指を鳴らした。
「無に」
 竜巻は命を絶たれ、霧のようになって消えた。空中には、青銅の鏡が取り残された。瞬が指を曲げて鏡を呼び戻す。
「少年、これで終わりじゃないだろうな」
「まさか」
 由稀は頬をこすって身構えた。足元に落ちていた羅依の短刀を、足で踏んで拾い上げる。
「泣いても許してやらねぇから」
「それは楽しみだ。久々の娑婆は、体が疼いて仕方ないんだ」
 瞬は鏡を握るように持って、大振りの太刀に変えた。

 行く手を阻んでいた結界が消え、亜須久は羅依の元へ駆け寄った。あれだけ賑わっていた大通りには、すでに彼らの姿しかなかった。
「羅依、羅依」
 背中に腕を回し、彼女の上半身を抱き起こす。虚ろな瞳が空を彷徨っていた。亜須久は逸って、羅依の体を強く揺すった。埃で汚れた頬を、指で払う。体温だけが亜須久の希望を繋いでいた。
 激しい震動に、亜須久は顔を上げた。巻き上がる砂の向こうに、火花のようなきらめきが霞んで見えた。今まで見たことのない力のぶつかり合いに、亜須久は自分の無力を認めざるをえなかった。
 腕に、小さな躍動が伝わった。
「羅依」
 強く呼びかける。羅依は苦しさに顔を歪め、ひどく咳き込んだ。跳ね上がるように起きて、地面に手をついて咳を繰り返す。いくらか嘔吐して、ようやく収まった。口を拭い、顔を上げた羅依の目には、涙が薄く浮かんでいた。だが淡紫の瞳には光と意志が戻っていた。
「大丈夫か」
「うん、ありがとう」
 羅依は胸を押さえて、呼吸を整える。視線を素早く周囲に巡らせて、険しい目つきになる。
「兄貴と玲妥は」
 植え付けられた恐怖が離れないのか、羅依は亜須久の服を掴んで迫った。亜須久はそれを無下に振り払わず、震える肩を優しく押さえた。
「安全な場所へ行った。大丈夫だ」
「そっか、よかった」
 体から力が抜けたのか、羅依は地面に座り込んだ。亜須久は荷物の中から水筒を出し、羅依に手渡した。羅依は小さく笑って受け取った。しかし笑顔は続かない。視線の先に、空色の髪を捉える。
「夜上、由稀のことで何か、聞いてることはないか」
「いや……」
 亜須久は伏し目がちに首を振った。羅依に落胆はなかったが、相槌を返すこともなかった。両手で水筒を握り、真っ直ぐ彼らを見つめていた。握る手は、震えている。
「知ってたか。あいつ、由稀は《気波動》を認識できないんだ。もちろん使うことも出来ない」
「認識、できない?」
「そう。前に言ってた。瞬が賞金稼ぎの曽慈(そじ)に仕掛けた術の気配を、全く感じなかったらしい」
「そんな、まさか」
「使えない人はいくらでもいる。でもそれでも、感じられるものだろう。なのに、あいつにはそれすら出来ないんだ」
 羅依は亜須久に縋るように言った。直視できない現実が羅依の心を乱していた。亜須久にはそれが手に取るようにわかった。
「しかし羅依、それが本当だとしても、今の俺には信じられない」
 亜須久もまた、乱されていた。羅依は鋭く亜須久を睨み上げた。女が香る。
「じゃあ、あれはどう説明するんだよ!」
 叫びを上げ、羅依は由稀を指差した。亜須久は渋面で黙り込んだ。
「《気波動》のことだけじゃない。あの体、おかしいよ。きっと私より背が高くなってる」
 指差す先には、腕に《気波動》で練り上げた竜巻を纏う、空色の少年がいた。彼の姿は由稀でありながら由稀ではなかった。羅依が知る由稀よりも大人びていた。
 答えはおろか手がかりすら持たない亜須久は、首を振って額を押さえた。
「一体、何がどうなってるんだ。そもそも瞬も、どうしてあんな……」
 亜須久の言葉で、羅依の奥に埋め込まれた恐怖が、首をもたげた。地を這うような風が彼女の長い髪を揺らす。目元には前髪が流れ、光が届かない。瞳は何も映さない。羅依にとって、いま目の前にある狂気は、過去を思い返すための背景でしかなかった。
「あれが、鬼使だよ」
「鬼使……。鬼使も、瞬だろう」
「違う」
 羅依は語気を強めた。そばの瓦礫に掴まって立ちあがる。震える膝をおして、彼女は一歩結界に近付く。手を翳して、感じようとする。触れる手前で手を引いた。結界は、近付くだけで狂い死にそうなほど強力だった。鬼使は由稀との戦いを楽しもうとしている。
「違うよ、こんなの。瞬じゃねぇよ」
 体を小さくして、羅依はくぐもった声で言った。水筒の栓が外れ、飲み口から水が零れ落ちていた。光を浴びて輝きながら降る水は、姿を自由に変えながら地面に飛び込んでいく。弾けて融合して、また裂かれる。地面は湿り、跡を作った。
 亜須久は、羅依の垂れた腕を強く握った。
「悔しさを、無力を、憎むな。責めるな。誰も、悪くないんだ」
「それでも、諦められない」
「俺もそうだ。他の道を探そう」
「嫌だ! あたしも、あたしも……っ」
 羅依は亜須久の手を振り払おうとして、やめた。力を抜くと、亜須久の方から手を離した。靴の下に、小石とは違った感触を得て、羅依は金属の破片を拾った。由稀の腕輪だったものだ。断面はねじれ、引き千切ったようにも見えた。
「この中に、入りたい。少しでも近付きたい。知りたい。邪魔することもできないなんて、悔しすぎる」
 飲み込み切れない気持ちが、言葉になって吐き出される。だがいくら言葉にしても癒されることはなかった。
「諦めることが大人なら、あたしはずっと子供のままがいい」
 瞬の姿を目で追う。狂気が常軌を逸したものなら、瞬の美しさは狂気と言えた。造形の美しさはもちろん、内に秘めた衝動や激情が艶に病んだ。瞬く深緑に、嘆きを見抜く。
『現実より怖い夢は、見ないよ』
 羅依は腕輪の破片を血が滲むほど握りしめた。