THE FATES

8.暴走(7)

 天水(てんすい)の空は、薄灰色の雲に覆われていた。地面には所々芝があるだけで、ほとんどが砂に埋め尽くされていた。地平線は砂丘の稜線だった。
 (こう)は天水王家領外の土を、初めて踏んだ。城の裏の砂より、さらに乾燥していた。芝は短く、砂が煽られると根まで見えた。靴先で掘る。生きているのか、死んでいるのか、見分けがつかない。糸のように細い根が、捩れながら地上に怯えていた。植物相手では、罪悪感は沸かなかった。
 (あかね)の後に続いて、厚い布地で組まれた白い住居へ入る。入り口は腰を屈める必要があったが、天井は高く、紅の想像以上に広広としていた。風に飛ばされた砂が、壁に当たって音を立てる。足元を見ると、靴が白っぽくなっていた。床は極彩色の織物が何重も敷かれていた。
 迎え入れてくれた女性は、琉霞(るか)と名乗った。手を差し出されたので、紅は成り行きで握手をした。茜と同じようにきれいな黒髪だった。肩の長さに切り揃えて、快活に揺れていた。紅は勧められるまま丸い椅子にかけて、黒い眼鏡の隙間から琉霞の顔を見つめる。彼女は顔の半分が包帯に覆われていた。
「近々、いらっしゃるんじゃないかって、思ってました」
 穏やかな口振りで琉霞は言った。部屋の中央では火が焚かれ、上から吊られた鍋では茶を煮出していた。柄杓で混ぜて、器に注いだ。真っ白な湯気が上がる茶色い器を、琉霞は茜と紅に差し出した。
「ずっと気になっていたんです。でも私、お城へは行けないし」
「ごめんなさい。遅くなって」
「ううん。茜さんが謝ることじゃないの」
 顔の前で両手を振る。琉霞の手は、指先まで包帯が巻かれていた。
 茶をすする。家畜の乳の匂いが、甘く舌に絡みついた。初めての味だったが、紅の好みだった。
「色んな可能性とか危険とか、考えてみたの。彼、言ってた。アミティスへ行くって。あそこは、ここと時間の流れが違う。あのね、向こうの方がゆっくり流れてるの」
 琉霞のゆったりした口調は、茶の味と重なった。紅は組んだ脚に頬杖をついて、目を閉じた。薪の爆ぜる音は、それだけで温もりを想起させた。
「こちらの百年が向こうの一年らしいから。それって、大変なこと」
「大変って」
 茜は一口も茶を飲もうとしない。両手で器を包んだまま、膝の上に置いていた。
「瞬は百年が過ぎる速さで、一年を過ごそうとしているの。相当の負荷。逆なら、ほとんど支障はないんだけど……」
「具体的には、どんな支障があるの」
 茜は焦燥を隠せずにいた。器を持つ手は力み、指先が白くなった。部屋の隅に置かれた燭台の火が、空気を求めて低く喘いだ。琉霞の唇が躊躇いに濡れる。
「封印が、解けます」
 先に視線を逸らしたのは、琉霞だった。茜は琉霞の首筋辺りを見つめたまま、じっとして動く様子がない。あまりの重苦しさに、紅は大仰にため息をついた。
「なぁ、その封印ってのを解いたら、何が起こるの」
「うん……、そうだな……」
 少し考え込んで、琉霞は口を開いた。
「瞬の中の、もう一人の瞬が意識を支配することになるの」
「二重人格かよ」
「そんな感じ」
 琉霞は色素の薄い、淡黄色の瞳を細めた。壊れそうな笑顔だった。紅の中に、憎しみが一片積もる。
「あいつは誰にでも、そういう顔をさせるんだな」
「え」
「何でもない」
 顔を逸らして、紅は煙草に火をつけた。
「ねぇ、琉霞さん」
 茜の声は掠れていた。押し潰されたようなひどい声だった。
「うん?」
 琉霞は優しく問い返す。
「私が、間違っていたの」
 虚ろな目をしていた。自責でも後悔でもなく、茜は過去を振り返っていた。
「行かせてはいけなかったのよ。泣いて引き止めなければいけなかったの。何が王位よ、何が国民のためよ。私は……」
「でも、瞬が決めたことなんでしょう?」
「そんなの、そうするように追い込まれただけよ!」
 声を荒げて、茜は持っていた器を投げつけた。琉霞の足元に、鈍い音を立てて転がる。立ち上がりかけた紅を琉霞は笑顔で制し、濡れた布で敷物を拭いた。
 茜は、震えていた。
「逃げたんだわ、私」
 憎しみが膨らみ、体がはちきれそうになる。茜は自分の肩を抱いて、火を見つめた。群青の瞳に揺らぐ炎は、青かった。
 琉霞は器を片付けると、茜のすぐそばにしゃがみ込んだ。体を屈める茜を、下から覗き込む。
「あなたにしか出来ない。あなたにしか、彼を救えない」
 琉霞は茜の背中に手を置いて撫でた。包帯の指先は茜の苦悩を吸い上げた。
「ね、行ってあげて」
 促されて、茜は顔を上げた。涙はなかった。琉霞は眼差しを曇らせた。
 湧き上がる哀切を押し込めて、琉霞は炎に手を翳す。中から黒い塊が浮き出た。手に取って、宙に浮かべる。塊は弾けて煙になり、人の姿を形作った。煙をかき分けて、足が出てくる。
「やっと、お呼びがかかった」
 現れたのは、男だった。髪は黒くやわらかく、少しくせがあった。朗らかに微笑む。笑顔から滲む人懐っこさが、琉霞と似ていた。
「茜さん、お久し振りです」
「そうね」
 茜は男を見ようとしないで、紅に手を伸ばした。悟った紅は立ち上がり、茜の手を取って引いた。足元の覚束ない彼女を、腰を抱いて支える。
「君が紅くんだ」
「そう、だけど」
 眉を寄せる紅に、男は満面の笑顔を向けた。
「ほんとに、よく似ているね」
 清々しいほど明瞭な声で、男は紅が最も嫌う言葉を放った。
「さぁ、それじゃ、あの馬鹿を鎮めに行きますか」
 何事もなかったように、男は足元に光の輪を作る。白々しさより、紅は男の人格を疑った。そもそも、彼は人なのか。
 男は二人に手を差し伸べる。
「この手を、離さないで下さいね。空間移動は結構激しいですから」
 そう言うと、強引に紅の手を引き寄せて輪の中に引きずり込んだ。
「行ってきます、姉さん」
「お願いね、凍馬(とうま)くん」
 琉霞に笑顔を残し、三人は光とともに消えた。