THE FATES

9.鎮魂(2)

 黒い翼で空に逃げ出した。腕に抱えた玲妥は、痛々しいほど怯えていた。《気波動(きはどう)》にあてられたようだった。加依は想像していたよりも禍々しい鬼使の存在に、やや興奮している自分を見つけ、他人事のように静かに笑った。
 結界は柱のようになって空に向かって突き立っていた。無性に触れてみたくなった。弾き飛ばされるだけではすまないかもしれない。わかっていても誘われた。それだけの魅力が、力が、そこにあった。
 服が強く引っ張られる。玲妥が加依の服を握っていた。か弱いものを見ると、なぜか壊したくなった。
「玲妥」
 名を呼んで、衝動を押さえ込む。加依は羽ばたいて、その場から離れた。前方に一際大きな屋敷を見つけ、庭へ降り立った。
 青灰色の屋根の屋敷は二階建てで、壁面には濃い緑の蔦が一面に張り付いていた。窓には薄布が引かれ、中の様子は全く窺えない。敷地を囲む塀は高く、完全に外からの視線を遮った。静かな場所だった。加依は玲妥を抱えたまま、周囲を見渡した。
 庭は荒れていた。敷地の広さや建物の豪華さに見合わない荒廃だった。無人と直観した。思い立つとすぐに玄関へ向かった。大きな観音開きの扉は、固く閉ざされていた。取っ手を捻っても、びくともしない。
「おりる」
 小さな声で玲妥は言った。加依は無言で彼女を下ろした。手を取って、裏口を探す。玲妥が痛みで手を引こうとするまで、加依は強く握った。
 裏口は塀が近く、光の射さない場所だった。靴底から湿りが伝わる。木戸の横に置き去られた樽は黒ずみ、白く透明がかった虫が這っていた。取っ手を引くと、蝶番が軋みながら開いた。中から、生温い風がのそりと流れた。
「すみません、誰かいますか」
 一歩踏み入って、声をかける。中は暗い。加依は空いた手に光の玉を作り、屋敷に踏み入った。針を刺すような小さな違和感が、頭をよぎった。
「すみません、誰か」
 返事はなかった。淡く青く光る玉に、廊下が照らされる。よく磨かれた、つやのある木の床は、二人の足音を吸収した。引き戸を開けると、炊事場になっていた。足元から冷気が上がってくる。
「お留守ですか」
 炊事場は声がよく響いた。だがやはり、誰かに届いた様子はなかった。
 炊事場の扉を開けると、廊下には光が溢れていた。先には、階段が見えた。廊下を進むと、玄関広間に繋がっていた。吹き抜けの玄関には、扉の上にある小窓から光が差し込んでいた。加依は光の玉を消した。
 四角く切り取られて届く光に、浮遊する埃を見る。加依は玄関の横手にある扉を開けた。壁一面の窓のそばに、布張りの長椅子が据えられていた。その前で玲妥の手を離し、向かいの壁の小さな窓を開ける。金具はすんなりと外れた。窓枠に埃はない。加依は確信した。ここは、本当は無人ではない。
 衣擦れの音を聞きつけて、加依は玲妥の元へ戻る。
「気分はどうですか」
 玲妥は長椅子に体を横たえて、目を伏せていた。頬にかかる髪をかきあげてやり、すぐそばにしゃがみ込む。玲妥は口元だけで小さく笑った。
「そうですか。良かった」
「ありがと」
「いいえ。今は自分のことだけを考えてください。その方が、みんなも喜びますよ」
「みんな?」
「はい」
 加依は慣れた笑顔を返す。玲妥の顔に暗雲がさした。おもむろに顔を背ける。加依は必死に笑顔を貼り付けた。何か言おうとするが、声が震えそうで出来なかった。
 だから子供は嫌いだ。なんでも安易に決め付ける。笑顔が嘘か真か糺すことは、幼稚で社会性に欠ける。心があろうとなかろうと、笑顔には常に意味があるのだ。それが社会だ。それが大人ということだ。
 深く息を吸って、長く吐き出す。
 加依は床に座り込んで、胡座をかいた。手を組んで、額を乗せる。首筋を髪が流れ落ちた。
 玲妥が笑顔の真偽を非難したわけではないことは、加依にはよくわかっていた。見透かされると、自分の中に沈殿する悪意が息を返して吹き上がってくる。
 わずかに顔を上げて、目の高さに横たわる玲妥を見る。姿こそ子供だが、捩った腰はすでに女だった。彼女は加依の中にある澱みを確かに見抜いていた。
 純真な心で、真っ直ぐな瞳で、飾らない言葉にして、ありのままを彼女は見つめていたのだ。
 喉の奥が焼けるように熱い。人はこういうときに泣くのかもしれないと思いながら、加依は玲妥への強い羨望に苛まれた。見つからないようにして、静かに笑う。
 玲妥の前では、完璧なはずの仮面が崩れて剥がれた。唯一存在を許せる自分の姿が保てなくなる。なんと無様な姿か。
 君のようになりたかった。
 きれいな心。思ったことを告げる勇気。自分の正しさを持った強さ。そんなものは、童話の中の作り物だと思っていた。
 羅依に会えて嬉しかったのは本心だ。だがそれだけのために、知りもしない妹を探したわけではなかった。羅依の存在が、加依を自由にした。無理をせずとも、あの息苦しい場所から加依を解放してくれた。
 黒い翼で飛び立つ夢ばかり見た。足首には鎖が何重にも巻かれていた。
 そのために何度も刺し殺そうと思った。
 しかし実現できない葛藤で、何度も死んでしまおうと思った。出来ることなら、蒸気のように消えたいと思った。
 一族の恥にならぬよう、吐くほど勉強した。民の前では穏やかに、公平に、常に正しくあろうとした。
『さすが次の長になる人はちゃうで』
 誰も本当の加依を見ようとはしなかった。
 打ち明ける友人も家族もいなかった。一人で抱えて生きてきた。生き続けるための一歩は、ずっと重かった。そうするのが普通だと思った。正しいと信じていた。
『俺は雨が好きだ。この世に絶対的な正しさなどないと教えられる』
 瞬の言葉を、時折思い出した。彼の言ったことはおそらく正しい。だがそれを正しいと認めることは、加依にはできなかった。今まで耐えた苦しみを否定することだけは、できなかった。
 強く額を押し付ける。冷えた手は、自分のものではないようだった。生々しい感触が遠ざかる。意識が体から離れていく。世界も体も、加依にとって差はなかった。夢から覚めるように、煩悶から抜け出す。
 加依は上着を脱いで玲妥にかけた。
「大丈夫ですか。何かほしいものはありますか」
 玲妥は首を振る。力ない姿に、加依は安堵する。
「待ってくださいね。荷物の中に、確か水が……」
「加依」
 玲妥の手が伸びて、加依の服を引いた。
「私のこと嫌いなら、はっきり嫌いって言って」
「玲妥」
「私、邪魔したくないよ」
 顔を上げた玲妥は、頬を赤らめて唇を噛んだ。試しに、嫌いと言ってみたくなる。
 加依は逡巡も苦悶も一切無視して、使い慣れた仮面を被る。
「邪魔って、何の話ですか。そんなことはないですよ」
 より強固に。より完璧に。崩れた部分は塗り固めて補強された。