THE FATES

9.鎮魂(5)

 羅依は二人の全てを見逃すまいと、瞬きも忘れて結界の中を見つめていた。
 二年前を思い出す。あの時も、自分の無力に打ちのめされた。駆けつけた場所は土が血色に染まっていた。足の踏み場もないほど、死体があった。その向こうには彼が悠然と構えていた。昨日のことのように記憶が溢れ出る。
『はじめまして』
 そう言って彼はにこやかに微笑んだ。夜の光が彼の整った顔を照らす。
『男気がいいね。贋物のくせに』
 会った瞬間に、女を見抜かれた。覗き見られた心地がして、辱めを受けたように震えた。
『よくもまぁ、こんな玩具を振り回していられる』
 武器を奪われ、狂気に心を奪われた。
『震えてる。かわいいね』
 彼の手が髪に触れた。逃げようと思っても、足を無くしたように動けなかった。
『君はなんて、――』
 言葉は不意に途切れた。違和感が雨のように羅依の体を打つ。縫い付けられた過去がほつれていく。掴もうと意識の手を伸ばすが、細く心許ない糸は爪に触れて消えた。
 小さな綻びは、一瞬にして広がった。
 記憶が繋がらない。羅依は茫然とした。
 血も枯れるほど刻み込まれた悪夢が、無情に途切れた。イングスでは彼の張り紙を見て、確かに思い出せた。羅依は胸元を握った。動悸が早く打つ。羅依はじっと地面を見つめた。立っていると地面が溶ける幻覚に襲われた。均衡を失して体が傾ぐ。胸の奥に築かれた自意識が、脆くも崩れ去っていく。
 羅依はその場に座り込んだ。
「葉利」
 亜須久の突然の呟きも、羅依には聞こえなかった。亜須久に肩を揺り動かされ、顔を上げる。彼の隣には女がいた。
「作戦を実行します。協力をお願いします」
 葉利は結界の中を一瞥した。羅依は戸惑いながら立ち上がる。
「ど、どういうこと」
「説明している時間はありません。この事態を打破するために、力を貸していただきたいのです。どちらかの《気波動》が鬼使に割れていませんか」
「瞬は俺の結界で波長を合わせたことがあるが、鬼使の時ではない」
 視線を瞬に向け、亜須久は疑問を堪えて乞われるままに答えた。葉利の胸中には落胆があったが、表情には出さなかった。
「あなたは」
「……知ってる、と思う」
 羅依は渋々口を開いた。記憶のわだかまりが堆積していく。確証が持てなくなる。何もかも、幻想ではないかと疑う。
「でも、覚えているかどうか、わからない」
 口にして、寂しさに押し潰されそうになった。あの滾るような憎しみは、残骸すら見つからない。忘れられるものなら忘れたいと、願ったこともあった。だが実際に忘れてしまうことは、予期しなかった。
 葉利が羅依の苦しみを知るはずがない。歯切れの悪い羅依の手を取る。
「《気波動》を結界に向けて下さい」
「え」
「どういうことだ」
 亜須久は葉利を振り返る。
「そんなことをしたら、羅依が危険だ」
「正直、私にもよく分かりません。ある人が鬼使をとめると言うので、従っているだけです」
「どういう意図があって《気波動》を」
「隠れ蓑が欲しい、だそうです」
「そうか」
 亜須久は息をついた。羅依は困惑の表情を葉利に向けた。
「鬼使をとめるって言っても、この結界は簡単には」
「私もそう思います。でも他に方法がありません。このままでは街が崩壊してしまいます」
「やるしかないってことだね」
 羅依は記憶の混濁を割り切った。悩んでいても、どこにも行き場がない。立ち止まるより、動いていたかった。
「俺もやろう」
 亜須久が結界のすぐそばまで歩み寄る。
「流されるのは、嫌いじゃない」
 羅依を振り返って、小さく笑った。亜須久は膝をつき、掌を地面に滑らせた。小さな結界が生まれ、鬼使の結界と交わる。すぐに弾き返された。羅依は亜須久の横まで駆け寄り、短刀を握り締めた。
「あたしも流されてみる」
 深く考えないのは愚かだからではない。柔軟な心の証拠でもあった。
 全てを受け入れよう。繋がらない記憶も、棄てたのでなければ、いつかまた舞い戻る。羅依はそう信じた。

 慣れは恐ろしい。自分の中の基準が、知らぬ間に書き換えられている。不破はこの甚だしい《気波動》に慣れた自分を見つけて、空恐ろしくなった。
 凍馬は座って、頭に巻いていた綾紐をはらりと取った。複雑に指に絡め、両手を組んだ。人差し指は鉤型に曲げられた。不破も隣に座り込む。ふと見上げると、茜はじっと結界内を、鬼使・瞬の様子を見つめていた。
 息をつく。薄く目を伏せる。実体のない冷たいものが腹の底に渦巻いていた。《気波動》が体から染み出す。
「鬼使とは、どういう関係なんや」
「友達」
 穏やかな表情で凍馬は答える。不破は凍馬の手を真似しようとしたが、指が攣って断念した。
「友達て。とんでもない友達やな」
「あぁ、他の人から見ればそうかな。でも、ああ見えて結構普通に友達だよ」
「仲ええんか、それ」
「それなりに、こうやって危機に助けに来たりするくらいにはね。見ていて面白いから、ついつい手を焼くんだ」
 凍馬の指の形が変わった。不破にはやはり真似の出来ないものだった。
「ひどいなぁ」
「それでも俺はあいつが好きだよ。許してないけどね」
「え」
「《気波動》ぶれてるよ」
 不破は深呼吸をし、慌てて元の《気波動》に修正した。重要なことを聞き逃した気がした。
「ほな、さっき一緒におった小僧は何や」
「紅くんか」
 凍馬の指と綾紐は絡み合い、一つの生き物のように融合していた。風の流れが変わる。不破にも変化が感じられた。結界に凍馬の力が纏わりつき、徐々に侵食している。
「彼は厄介だよ」
「誰の何なんや。うおっ」
 凍馬が胡座を崩して片膝を立てた。指に絡めていた綾紐は、澄んだ白い煙を上げていた。結界内の空気がじんわり外に洩れ始めた。不破にも収束の時が感じられた。
「きちんと会えばすぐにわかるだろうけど」
 術中にも関わらず会話を続けられる凍馬に、不破はある種の畏敬の念を抱いた。
 茜が小さく悲鳴を上げた。鬼使の《気波動》が飽和し、不破の耳には高域の雑音に聞こえた。顔を顰める。薄く目を開くと、《気波動》の塊から由稀が吐き出された。空色の髪から、生の影が失われていく。
「彼はね」
 そして聞いた。鋭い耳で、凍馬の言葉を。
「え……」
 崩壊はすぐそこに迫っていた。

 眼鏡の隙間から時折空を眺めて、紅は気の向くままに歩いていた。
 探す気がないわけではないが、使命感を持っているわけでもない。運任せだった。無理ならば凍馬がいる。自分は、ひどく無駄なことをしている。
 紅は立ち止まった。街は息を潜める。向こうから地響きがこだまする。道には人々の混乱の様子が取り残されていた。道に落ちていた果物を拾う。踏まれずに残っていたが、果物がしょげているように見えて、紅は投げ捨てた。手に、汁がついた。
 服で手を拭いながら、空を見上げる。この空があれば、全てが許せてしまう。
 通りを横切り更に進むと、ようやく人の姿があった。だが彼らの表情は憂色が濃く、眩しく明け透けな陽射しには似つかわしくなかった。
 角に、十歳ほどの少年が数人集まっていた。大人の目を気にしながら、寄り合って話していた。紅はそれを横目に一瞥し、前方の大きな屋敷を見上げた。門の柵の間から覗くしかできなかったが、遠目に見ても人が住んでいるようには感じられなかった。
 足元に、黒い羽根が落ちていた。濡れたような艶があった。紅は手を伸ばす。
「や、やめた方がいいよ」
 振り返ると、先ほどの少年らだった。
「俺の勝手じゃん」
「だってそれ、悪魔の羽根だよ」
「は」
 紅は笑いたいのを必死に我慢する。屋敷を肩越しに見る。
「ここ、誰の家。悪魔の家ってことか」
「知らない。でも悪魔の家でもないと思うよ。初めて見たもん。女の子を抱えて飛んできたんだ。人の形してたけど、真っ黒い羽が生えてた。あれは悪魔だよ」
「へぇ」
 紅は少年に視線を戻した。
「持ったら、呪われたりするかな」
 羽根を指差す。少年は勢いよく頷いたが、じっと紅に見つめられると首を傾げた。
「連れて来られた女の子は、金髪じゃなかったか」
「う、うん。たぶんそうだったと思う」
 少年は戸惑いながら小さな声で言った。紅は意地悪く笑って、羽根を拾った。それを少年らに向けて投げる真似をする。彼らは悲鳴を上げて逃げ出した。いちばん幼い子がつまずいて転んだ。紅と話していた少年が、手を貸す。
 紅は羽根の軸を摘まんで、くるくると回した。鳥の羽根には確かに大きいようだった。
「悪魔、か」
 呟いて、紅は眼鏡を外して屋敷を見た。新緑の瞳を眩しげに細める。お遣いはあっけなく終わった。