THE FATES

interlude.残像(2)

 龍羅飛は、(りょう)、回丹、(おう)の三市から成り、周囲を強固な石壁で囲まれていた。坂を下りながら街を見下ろすと、黒煙は大門に近い央市から一層上がっているようだった。瞬は立ち止まり、憂いに顔を歪めた。先ほどはわからなかった結界特有の閉塞感に気付く。追いついた焔は瞬の頭に軽く手を置いた。瞬は目を上げて悲しげに兄を見つめた。
「大丈夫かな」
 瞬は息を吐くように言った。
「大門が破られたのだとしたら、状況はかなり不利だな」
 爆煙や砂埃に阻まれ、大門周辺は霞んで見えた。
「急ごう、瞬」
 促すように瞬の背中を押して、焔は並んで駆け出した。時折、横目に弟の姿を見る。瞬は端正な顔を歪めて、真っ直ぐ前を見据えていた。焔のことはおろか自分のことすら顧みる余裕がないようだった。
 街まで降り、家へと向かう。顔を上げると屋根の向こうに塔が見えた。二人の家はそのすぐ近くにあった。途中、何人もの知り合いを見かけたが、誰もが生き延びるのに必死で、街の中心地へ行こうとしている二人を呼びとめる者はいなかった。焔は仲の良かった学友の姿を見つけて振り返ったが、声はかけずに再び駆けた。
 大きな衝撃が地を揺るがす。瞬が足を取られて転倒した。
「瞬」
 焔は戻って瞬を抱える。体の小さな瞬は滝のように汗を流し、息を切らしていた。
「いいから、先、行って」
「馬鹿なことを」
 再び同じ規模の爆発があった。先ほどより近付いていた。焔は瞬の腕を肩に回して、狭い路地に入り込んだ。直後、二人がいた周辺からは火柱が立った。炎の熱が頬を撫でる。布に落ちた染みが徐々に広がるように、火の周辺が延焼していく。空には炎の渦が風を起こし、火の粉が舞っていた。赤い光はちらつきながら降りかかる。焔は手でそれを払いのけて舌打ちした。空を忌々しげに見上げる。
「結界か」
 瞬に聞こえないように呟いて、焔は自分の胸倉を握り掴んだ。体の奥に潜む罪が確かな鼓動を繰り返す。その音はまるで焔を嘲っているようだった。
 お前が正統ならば、と。
 焔はゆっくりと後ずさる。奥歯を強く噛み、炎のように舞い上がる恨みや憎しみを押し込める。瞬の腕を掴んだ。
「遠回りになるけど裏道から行こう」
 瞬は兄の言葉に頷いた。
 途中、倒れた敵から服を奪った。襟には天水王家の紋章が輝いていた。
 二人は家路を急いだ。瞳の色を見られないよう、軍帽を目深にかぶる。自然と俯く視界には、血色ばかりが映りこんだ。
 崩れた家を越えて、舗装のめくれた道を行く。二人の間から会話は消えていた。鼓膜には爆音が響く。焔にはそれが実際の音か残響か区別がつかなくなっていた。
 家の近くまで来ていたが、変わり果てた街並みに焔は進むべき道を見失っていた。走り去っていく天水軍を、死体の振りをして遣り過ごす。すぐに瞬の手を引いて走った。
「兄貴」
 瞬が立ち止まり、焔の腕を引きとめた。何かと聞き返す前に、瞬の視線を辿る。見覚えのある織物が崩れた壁に挟まれてあった。居間の壁に飾ってあったものだ。瞬は焔の手をすり抜けて、瓦礫を乗り越えていった。焔は住み慣れた家を外から眺める。あまりにも変わり果てた姿に、焔は呆然と立ち尽くした。
「母さん、母さん!」
 瞬の声で焔は我に返る。瓦礫を跳び越えて、窓のあった場所から這って中へ入った。
 折れた机のそばに、母の姿があった。瞬は母のそばに膝を折り、声の限り呼びかけていた。焔はそれを上から見下ろし、他人事のように傍観していた。母は浅い息を繰り返し、時折痙攣するように呼吸を乱した。胸を圧されたのかもしれなかった。母を抱き起こそうとする瞬の手を、焔はとめた。
「動かすのは危険だ」
「だけど、このままじゃ母さんが」
 瞬の手に何かが触れた。機敏に反応して見ると、それは母の細い指だった。
「母さん」
 瞬は自分の無力に歯噛みしながら、母の手を握った。涙を堪えるように肩口に頬を寄せる。命の弱まっていく音が伝わった。
「……玉兎」
 もう殆ど息だけの声がして、瞬は顔を上げた。
「母さん、僕はここだよ」
 呼びかけてくれる息子に応えようと、母は気力を振り絞ってぎこちなく微笑んだ。細かな皺が目元に窺えるが、整った顔立ちの涼やかな美人だった。優しげな深緑の瞳や艶やかな黒髪は、瞬とよく似ている。彼女は薄い唇で何事かを紡いだ。
「どうしたの」
 眉を寄せて、瞬は再び頬を寄せる。近付くほど、瞬の胸は痛んだ。助けたいと切実に思った。
「どうしたの、母さん」
「ごめんね」
 薄く開かれた母の瞳から、涙がこぼれた。瞬は呆然と首を振って、母の言葉を遮る。焔は錆びた刀で胸を突かれたようだった。
 背後で瓦礫の崩れる音がした。振り返ったが、逆光で顔は見えない。焔は腰に下げていた剣に手をかけた。
「金烏か」
 父の声だった。
「父さん」
「玉兎もいるのか。学舎へ行っていたんじゃないのか。どうして戻ってきた」
 父はかざしていた剣を下ろし、額の汗を拭った。
「父さん、母さんが」
「見ればわかる」
 眉を寄せて、父は母の顔を見遣った。母は安心したように微笑んだ。唇から洩れる息に擦音が混じる。内臓に傷があるようだった。
 焔は一歩下がって三人の姿を眺める。逡巡して、胸の前で手を合わせる。気配を感じた父が焔を振り返った。
「何をしてる!」
 焔の手を掴み、印を崩す。
「鏡を使って母さんの傷を治す」
「馬鹿を言うな。お前にもわかるだろう。今ここで鏡を使えばどうなるか」
 父は嘲笑して視線を逸らした。焔は母のそばに座り込む瞬の背中を見下ろす。
「瞬に結界を張ってもらう」
「え……」
 思いがけず名前を呼ばれ、瞬は兄を振り仰いだ。
「僕、そんな結界なんて」
 瞬はそこまで言って思わず黙り込んだ。自分を見下ろす焔は、目を疑うほど冷然としていたのだ。
「できるだろう、瞬」
「で、でも」
「金烏、世迷言はやめろ。こいつにそんなことができるはずないだろう」
 ため息とともに父は諌める。焔は父を睨みつけた。
「鏡さえあれば」
「よせ、金烏」
 母のそばに腰を落とし、父は強く言った。
「母さんは私が看ている。お前たちは先に逃げなさい」
「でも父さん」
 瞬はかぶっていた軍帽を乱暴に脱ぐ。それを強く握り締めて唇を噛んだ。
「早くするんだ」
「だって」
 泣き出しそうな顔で瞬は母を見る。母の顔色に苦悶の陰は見られない。しかしそれが却って、瞬に母の苦しみを想像させた。瞬は母の手を取って両手で抱くように握った。
「私の言うことが聞けないのか、玉兎」
 叱りつけて、父は瞬の細い腕を掴んだ。強引に引っ張り上げる。瞬の手から、母の手が離れていく。
「母さん」
 熱が喉の奥をあぶり、ゆっくりと目元を濡らす。
「嫌だ、逃げるなんて。僕もここに残る!」
 瞬は体を激しく振り、父の手を払おうとする。しかし釘で打ち付けたように手は離れず、瞬は引き寄せられて頬を殴られた。
「子供みたいなことを言うな!」
 衝撃に、体が後ろへと流れる。父の腕に繋がれて、倒れはしなかった。もう一度手が上がる。
「父さん!」
 焔は飾りのような言葉を発するだけで、拳をとめることは出来ない。見ている間に、二発目が瞬の細い顎を払った。焔はとっさに目を瞑る。腕を掴まれた瞬はだらりと垂れ下がった。
 父は後悔に口を歪め、息子の腕を引き上げた。おもむろに瞬が顔を上げる。形のいい薄い唇は血に濡れ、澄んだ新緑の瞳は深く澱み、また氷のように冷たく刃のように鋭かった。父は我が子ながら本能的な危険を感じた。脳裏に司祭の皺だらけの顔がよぎった。
『この子に持たせてはならん。この子は凶星を負い生まれ落ちた。人を貪り、世界を黒く塗り変えていく。この子にそれを持たせてはならん』
「玉兎」
 追い詰められているというのに、瞬の表情にはそれを愉しむような色もあった。瞬には恐れが見えなかった。
 一瞬、父に隙が出来た。瞬は腕を振り払い、母の元に膝をついた。水を掬うように大事に手を取る。母の表情に困惑が差した。口元は物言いたげに震えていた。
「どうしたの」
 優しく問いかけ、瞬は母の口元に耳を寄せる。息の奥に声が混じる。
「玉兎、もたもたするな。逃げろ!」
「うるさいよ、父さん! ごめん母さん、教えて」
「お願いよ、言うこと聞いて、逃げて」
「そんな、母さんまで」
 瞬の背中が小さくなっていく。首を掴めば、すぐにでも息絶えそうなほど脆弱な存在だった。
「僕は、僕はここにいたいんだ」
 涙声で、瞬は懇願した。
 焔は自分が瞬と同じ言葉を口にする様を想像した。思わず自嘲がこぼれるほど、それは白々しい光景だった。
 焔の心に黒い雪が降り積もる。理性に踏み固められ、表面は固い鉄のようになっていく。決して表に出してはいけない羨望が、焔の心を萎縮させていく。瞬を見下ろすことで、焔は何とか均衡を保つ。罪を糾弾し、歪んだ運命を正すことは、自らの存在を危うくした。
「母さん」
「かわいい瞬、お願い」
「嫌だ、母さん!」
「愛してるわ」
 瞬は愕然と母を見つめ返した。彼の澄んだ新緑の瞳から、物言わず涙がこぼれ落ちた。瞬は祈りを捧げるようにうずくまり、肩を震わせた。激しい爆音も遠ざかるような、弱々しい清らかな姿だった。
 父に背中を押され、焔は否もなく瞬のそばに立つ。声なき指示を全身に感じ、弟の細い肩に手を置いた。
「行こう、瞬」
 呼びかけに反応はなかった。焔は仕方なく瞬の腕を引いた。抵抗なく、瞬は素直に従い立ち上がった。顔を覗くと、瞳は死んだように虚ろだった。
「瞬、ここは父さんに任せて行こう。落ち合った先でまたすぐに会えるから」
 諭しながら、焔は確かな絶望を感じていた。しかし耳から聞こえる自分の声に、そのような翳りは微塵もない。焔は自らに静かに戦慄した。
 意識を攫うほどの爆音がして、足元が揺らいだ。崩れかけた家は左右に降られ、一方の出入口が完全に塞がれた。
「金烏」
 父の声に焔は頷いた。瞬の手を引き、辛うじて残った隙間へ、足をかけた。
 母の声が聞こえた気がして、焔は振り返る。その面差しには、すでに死が這っていた。焔は目を伏せて、心の中で頭を下げた。感謝の念は浮かんでも、母を喪う悲しみは湧いてこなかった。
「森へは行くな。周囲の石壁には必ず結界の穴があるはずだ。その先は砂丘の陰をうまく使え」
 口早に父が言った。焔は瞬をつれて隙間をくぐった。駆けて、細い路地へ滑り込む。焔は父の気配を察して、瞬の背中を強く押した。地面に伏した弟の上に、焔は覆い被さる。すぐに背後から割れるような爆音が押し寄せた。白と黒の爆風が体の上を激しくうねり過ぎていく。抗いがたい力が去ってから、焔は体を起こした。下にいた瞬が、蒼白になって跳ね上がる。視線の先では、赤々とした炎が上がっていた。黒い芯を持つ赤い炎は、父が得意としていた猛火だった。揺らめきの奥に、景色が浮かぶ。慣れ親しんだ敷物が、千切れるように燃えて舞い上がった。
 瞬が、狂人の叫びを上げた。