THE FATES

interlude.残像(3)

 地平線が光を振り絞り、辺りは闇に包まれた。岩場に守られた森は、一切の光が明日へ奪われるより早く、夜を選んだ。
 見慣れぬ森の中で、焔は崩れるように座り込んだ。街を離れてから三日が経っていた。
 王家の軍服は血と汗に汚れ、肌には砂が張り付いていた。渇きは雨水で辛うじて凌いだが、飢えを癒すすべが砂漠にあるはずもなく、体は悲鳴を上げていた。背を岩に預けて、焔は浅い呼吸を繰り返した。
 ざわめく葉の合間から濃紺の空が覗く。砂粒のような小さな輝きが瞬きを重ねる。一度は闇に包まれた世界に、仄かな光が薄布のように舞い落ちた。地面には、木々の影が差した。
 焔は影を目で追って、すぐ真横でとめた。そこには瞬が、体を小さく丸めて横になっていた。向けられた靴裏は穴があき、服から覗く細い足首は、小刻みに震えていた。
「寒いのか」
 問いかけに返事はなかった。焔は深く息を吐き出して、両手で頭を抱えた。そのまま膝を抱え込む。
 逃げ落ちるあてもなく、今ここにある命すら頼りない状況で、寒さなど感じられるはずもなかった。
「悔しくないの」
 瞬は小さなくぐもった声で言った。焔は顔を上げて振り返る。瞬は体を起こして焔を睨みつけていた。背中が凍るほど、瞬は真っ直ぐに兄を捉えていた。
「瞬……」
 焔は言葉が続かない。
「みんなを傷つけられて、悔しいとは思わないの。僕たちだけおめおめと逃げて、兄貴は情けないとは思わないの。あれだけの追っ手がついたってことは、龍羅飛の街が制圧されたってことだろう。きっと、塔も、もう」
 掠れた声を張り上げ、瞬は焔に掴みかかった。瞳には持って行き場のない怒りや悲しみが揺らいでいた。焔は逼迫した瞬の激情を受けながら、静かな気持ちでその瞳を見つめていた。彼の瞳はいくら負の感情を抱えようとも、濁ることがない。焔はこれが同じ腹から生まれた兄弟かと不思議に思った。
「ねぇ、兄貴。何とか言ってよ」
 瞬の整った顔から激しさが消えていく。
「違うって、言ってよ」
 涙声で呟くと、俯き、瞬は掌で額を押さえた。彼は今、泣きたいのを必死で我慢している。瞬の癖だった。
「瞬、顔上げろよ。な」
 様子を窺うように、震える肩に手を置いた。
「僕、僕、こんなことになるなら」
 瞬は喉の奥から声を絞り出す。
「みんなと死んだ方が良かった」
「瞬」
 焔は声を大きくして瞬の言葉を諌めた。瞬は肩に置かれていた手を払いのける。
「だって僕は、そのために街に戻ったんだ! なのに……」
「確かにそう言って戻った。でも父さんも母さんも、俺たちが生きることを望んだんだ」
 俺たちと口にした途端、焔の舌に苦味が走った。構わず続ける。
「その願いを無にはできないだろう」
 薄ぼんやりとした景色の中、瞬が小さく笑った。
「違うよ、そうじゃないよ」
 妙に艶のある声で瞬は軽やかに呟いた。焔は眉を寄せる。
「俺たちじゃないよ。だって僕はついでだから」
 実体がない煙のように瞬は立ち上がった。焔は体を縛り付けられたように動けなかった。
「でももう、いいよね。みんなにはばれないよね。もう足、引っ張らないから」
 整った顔立ちが、射す影に匂い立つ。
「今まで、ありがとう」
 澄み切った悲哀を抱き、瞬は森の奥へと駆け出した。
「待て、瞬!」
 追って立ち上がると、目眩がした。焔は岩に手をつき、呼吸を整える。瞬の黒髪が見る間に闇に溶けていく。
「違うんだ。お前は何もわかってない」
 焔は鉛のように重い体を叱咤して、弟を追って駆けた。胸の奥で仮初めの力が息づく。鏡が、焔の無様を笑う。
 森は闇を抱えて緩やかに揺れた。葉ずれの雑音が焔の意識を取り巻く。頭の中で悪意が囁いた。

 今こそ解放されるのだ。
 無力な弟など、捨て置くがいい。
 独りきりなら、いずれ死に絶えよう。

 焔は立ち止まって激しく頭を振った。思わずえずいたが、吐き出せるものは何もなかった。足元には青い光が滲んでいた。顔を上げると目の前で森は開け、泉が微風に撫でられていた。水際には瞬が佇んでいた。
「瞬」
 焔は小さく呟いた。
 水面に弾かれ行き場を失った光の欠片が、瞬の体に舞い落ちる。それはまるで世界を憂う神のように気高く、未熟な体を持て余す少女のように頼りなく、見る者の胸を掻きたてるものだった。
 焔は正統なる力に吸い寄せられ、一歩を踏み出す。靴の下で小枝が折れた。氷が割れるような音に、瞬が振り返る。泉を映していた瞳には雫が溢れていた。焔は嗚呼と感嘆を漏らした。誰よりも清く強く輝く瞬の瞳が、素直に妬ましく羨ましかった。この光を守るための命なのだと、自分の欲望を腹に押し込める。
「どうしてお前がついでだなんて思うんだ」
 焔は森から出た。瞬は体をこわばらせて兄を睨みつけた。
「当然だよ。僕みたいな出来損ないを、誰が守る」
「だけどお前は試験では誰にも負けなかった」
「あんなの、本読んで勉強すれば、誰にでも出来ることだよ。あれでは特別にはなれないんだ」
 瞬は近付いてくる兄から逃げるように、背後の泉へ一歩ずつ後ずさる。
「瞬、特別って何だ。母さんの言葉を聞かなかったのか」
「母さん……」
 俯いて、瞬は唇を噛みしめた。瞬の心から溢れ出した悲しみが焔を拒む。焔はそれを感じ取り、続く言葉の先を躊躇した。
 風が強く吠え、森のざわめきが一層膨らんだ。焔は乾いた唇を舐めた。
「愛してるって」
「やめて、兄貴」
 鍵をかけて仕舞い込みたい記憶に触れられ、瞬は兄の言葉をなかったものにしようと大きく腕を払った。その拍子に体が均衡を失い、後ろに傾いだ。
「兄さん」
 助けを求めて瞬が手を伸ばす。
「瞬!」
 駆け寄った焔の指先は、瞬の爪を掠っただけだった。水をはね上げて、瞬は真っ暗な泉の中へと消えた。
「瞬……っ!」
 焔は縁に膝をつき覗き込むが、何も見えない。水面は何もなかったように平静を取り戻していく。迷っている時間はないように思われた。焔は泉へ飛び込もうと深く息を吸った。上半身を乗り出す。
「待って」
 泉の向こうの茂みから、女の声がした。驚いた焔はとっさにほとりの草を掴み留まった。草木を掻き分け、人影が現れた。
「あなたはそこにいて。入ってはいけないわ」
 女は明瞭に言い放つと、思い切りよく泉へ飛び込んだ。水面は活発にうねり、まるで意思を持つもののように自由に蠢いた。女は波間へすぐに顔を出した。腕の中には身動きのない瞬を抱えていた。焔は彼女が泳ぎ着く水際へ駆け寄り、瞬の体を引き上げた。
「森へ隠れて」
 軽く咳き込み女は言った。焔は頷いて瞬の体を担いだ。女は泉から上がる間際、持っていた筒状のものを水に投げ込んだ。それを横目に見つつ、焔はもつれる足で必死に森へ転がり込んだ。
 自分の鼓動が耳のそばでするようだった。焔は上がった息を抑えるように、何度も唾を飲み込んだ。女は短い呼吸を小さく繰り返し、泉を注視していた。
 泉の周囲にはすぐに数人の女が駆けつけた。しゃがみ込んで泉を調べているようだった。一人が泉へ飛び込み、しばらくして筒状のものを拾って帰ってきた。巻かれていた紐を解く。焔から見て布に見えた。水分を含んで重く垂れ下がっていた。女たちはそれを見ていくつか言葉を交わすとすぐに立ち去った。
 焔のすぐそばで安堵の息が漏れた。
「よかった」
 女は呟いて焔を振り向いた。二人の視線が交錯し、話しかけようと開いた口元が思わず固まった。
「あなた、その目」
 焔は視線を逸らした。逃げる方向を素早く探る。このまま泉の周囲を回れば、元いた場所に戻れそうだった。瞬の体を近くに抱き寄せる。足に力が入り、靴が砂を強く踏みしめた。
「初めて見たわ。本当にきれいな色なのね」
「え」
 予想していなかった女の反応に、焔は拍子抜けして聞き返した。この目を見れば大抵の者が恐れ、そうでない者は欲に眩む。なんの裏心もなく誉められたのは初めてだった。
「この目が、か。この龍羅飛の」
 焔の戸惑いに、女は笑顔で返した。暗がりでよくわからなかったが、焔には彼女が確かに微笑んだように見えた。
「ねぇ、あなたの名前は」
「……乾那(けんな)金烏」
「幼名は?」
 焔は少し言い淀み、瞬の手を強く握った。
「焔。こっちは弟の瞬だ」
 二人のやり取りを聞いていたかのように、瞬が身をよじり呻いた。
「瞬、大丈夫か」
 焔は瞬の腕を掴んで体を揺すった。振動に誘われて、瞬は咳き込んで水を吐き出した。ゆっくりと澄んだ瞳を覗かせる。
「気が付いたのね」
 瞬はぼんやりと声の方へ顔を向け、かすかに頷いた。彼女は微笑み、水で額に張り付いた瞬の髪を、母のような仕草でかきあげてやる。すぐそばで見る彼女の横顔は、慈悲に包まれていて、焔は強い衝撃を受けた。これがこの世に生きる者の顔かと疑った。それほどに彼女の面差しは慈しみに溢れていた。
 再び瞬は瞼を閉じる。彼女は瞬の寝顔を眩しそうに見つめた。
「私の名前は染芙(せんふ)。家へいらっしゃい。その怪我、治してあげる」
 そう言って染芙は瞬の額に口づけた。