THE FATES

interlude.残像(4)

 爽やかな木の香りに瞬は目を覚ました。明るい木目の天井に見下ろされている。思考はまどろみ、瞬は被っていた毛布を引き寄せて再び目を閉じた。口元の毛布の匂いを嗅いで、瞬は飛び起きた。
 ここはどこだ。
 毛布を剥いで部屋の中を見渡した。他に人がいる様子はなかった。
 泉に落ちたことは覚えている。だがそれ以降の記憶は全くなかった。
「兄貴」
 心細い呟きに応える相手はいなかった。部屋は小さく整っており、窓からは白い光が流れ込んでいた。瞬は眩しさに目を細めた。翳した手には、包帯が巻かれていた。気付くとすぐに、脈打つように腕が疼いた。同じように体中が痛みに軋んだ。それを契機に、惨劇の記憶が濁流のように瞬の意識に流れ込んできた。頭の中に悲鳴が響く。地鳴りが足首に蘇る。視界が赤黒く染まった。
「あぁ……」
 瞬は頭を抱えて体を折った。
 瞳を強く閉じても、瞼の裏に焼きついた景色が離れない。陥落していく街を背に走った。背徳感と恐怖が逃げる瞬の心を行き来した。追っ手の声が上がり、瞬は足元を砂に取られた。急いで印を結んで結界を張った。だがそれは追っ手の武器を弾いただけだった。瞬は這って立ち上がり、兄の姿を探した。鼻先を掠めた切っ先を、拾った剣でとっさに薙ぎ払うと、手首には重く鈍い感触が伝わったのだった。白砂に血が散った。
 初めて人を殺した。
「ああぁっ!」
 体が震え出す。みぞおちが熱くなり、瞬は吐き気を催して液体を吐き出した。
「どうした、瞬!」
 部屋に焔が飛び込んできた。瞬はそれに気付くことなく激しく咳き込む。焔は介抱の具合がわからず、思わずその場に立ち止まった。
 聞きつけた染芙がすぐに駆けつけた。艶やかな銅色の髪を急いで束ね、強い輝きを放つ濃紺の瞳で瞬を見据えた。
「大変だわ」
 そう言いこぼすと、染芙は瞬のそばに寄り添った。
「しっかりして、こっちを向いて」
 寝台に上がり、染芙は瞬の体を揺すった。全身が固く硬直していた。言葉になりきれない苦痛の声が、瞬の虚ろな口元から諾々と漏れる。染芙はこの少年の苦しみを察した。
「大丈夫よ、もう怖いことは何もないのよ」
 染芙は懸命に笑顔で語りかける。しかし瞬はそれに目を向けることがない。顔は涙に濡れ、顎はがくがくと音が鳴るほど震えていた。
 瞬の頑なな拒絶に、彼女も渾身の勇気を持って立ち向かう。
「言葉に出して。ゆっくりと息を吸って」
「あ、あ」
「そう、その調子よ」
 染芙は体を寄せて、瞬の黒髪を撫でた。
「こ、ころ……」
「苦しいことを言ってごらん。すぐに楽になるから」
「殺した、人を、殺した!」
 明瞭に瞬は叫んだ。いくつも後を追って涙が流れた。瞬は染芙に強く抱きしめられた。
「怖かったよね、つらかったよね、痛かったよね。それでいいんだよ。それが正しいんだよ。だから我慢しないで。たくさん泣いてもいいんだよ。どんなに叫んでもいい。だけど、閉じこもらないで。私たちにそばに居させて」
 焔には小柄な彼女の姿が大きく見えた。窓から差す光が銅色の髪に舞う。もしもこの世に神がいるなら、彼女のように抱きしめてくれるに違いないと焔は納得した。
 瞬は染芙に抱きつき、大声をあげて泣き出した。

 瞬は思う存分に泣くと、腫れた目をして染芙に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「私じゃなくて、お兄さんに謝りなさい」
 手袋を填めた指で鼻先を指され、瞬は首を竦めて焔を見た。
「ずっとあなたのことを心配していたのよ」
 すると焔は気にするなと言うように肩を軽く上げた。
「ごめん」
 素直に頭を下げた。染芙が終わりの合図と手を叩いた。
「お腹空いたでしょ。すぐに用意するわ」
 染芙の明るさにつられて瞬は頷いた。
「何でも作るわ。好物を教えて」
「あ、あの」
「なに?」
「名前……」
 瞬は申し訳なさそうに上目遣いに言った。
「染芙。染める芙蓉と書くの。染色師をしてるのよ」
「染、芙」
 口に出して、発音を確認する。染芙は寝台から降りて笑顔で返した。彼女が背を向ける。瞬はあることに気がついて、そこから動けなくなった。
『染める芙蓉と書くの』
『染色師をしてるのよ』
 ある一族の女は生まれてすぐに卜占で職業を決められ、それに因んだ名前を付ける慣習があると、講義で学んだことがあった。その一族は政治力に長け、他の少数部族を従え、また天水王家とも蜜月の関係を結んでいた。瞬の心には再びの絶望が訪れた。
殊来鬼(しゅらき)
 瞬は愕然として呟いた。染芙の背中に、緊張が走った。それを感じ取った瞬は寝台から飛び出し、染芙を押しのけて、焔の腕にしがみついた。染芙は悲しげに瞬を見つめた。焔は二人の間に挟まれ、繕う言葉を見失った。無言で直立する。瞬は兄の服を強く掴んだ。
「兄貴、なんで殊来鬼なんかに」
「そう言うな。彼女はお前を助けて――」
「だけど、こいつらは天水王家と繋がってるんだよ! きっともう、この家の周りには王家軍が潜んでる。そうに違いないよ」
「瞬」
 諌める声は力なかった。顔を上げると染芙と目が合った。思わず視線をそらす。
「信じてもらえないのね」
 染芙の声は特に非難するふうではなかった。だが純なる落胆が焔を戸惑わせた。
「し、信じたいさ。君の気持ちは充分に伝わってる」
 焔はしがみつく瞬の手を上から握り、指を解かせた。
「だが俺たちが目にした現実が過酷すぎた。俺は瞬を叱りつけることは出来ない」
「どういうこと、兄貴」
 訝しげに、瞬は首を傾げて兄を見上げた。焔は眉根を寄せて弟の視線を受け止める。焔は澄んだ瞳に真実を見抜く力を求めた。
「お前なら大丈夫かもしれないな」
「え」
 瞬の疑問に答えが返されることはなかった。焔は染芙に向かって頭を下げた。
「弟にも同じ話をしてくれないか」
 窓から染み出す光が、背後から染芙の肩を包む。彼女は穏やかに微笑んだ。
「わかったわ」
 そう言った彼女の面差しは、母の最期の笑顔に似ていた。

 殊来鬼の集落は龍羅飛の半分ほどの広さだった。だが乾燥した天水で、この集落だけは水と緑に溢れていた。農作物もよく育ち、家畜を増やす牧草にも事欠くことはなかった。
 瞬は窓から頭を出して透き通った空を見た。時折、空が虹色に光る。結界だった。瞬はすぐに窓を閉めて椅子に戻った。
 この地の恵みは全て集落を覆う結界によって守られていた。
 ひと目見ただけで、強力で大規模な結界であることは明らかだった。これだけのものを維持するには、相当の力が必要になる。瞬はすぐさま、龍羅飛の上空に張り巡らされた探査結界を思い出した。二つの結界は同じ香りがした。はす向かいに座る染芙を見て、瞬の心は揺れた。
 染芙は湯の入った器を両手で包み、食卓の木目をじっと見つめた。
「あの泉、私たちは結泉(けっせん)って呼んでるわ」
 強く大きな結界を張ろうとすれば、それを支える柱が必要になった。それが結泉だった。
「ここの結界は特殊な仕組みになっているの。例えるなら門衛ね。人の出入りを確認して、部外者が無断で侵入すると自力では出られないわ」
「どうしたら出られるようになるの」
「術者に扉を作ってもらうのよ」
「じゃあ、それをしてもらおうよ。僕の体なら、もう大丈夫だから」
 瞬は隣に座る焔の袖を引いた。しかし兄は黙って俯くだけだった。
「それが、出来ないのよ、瞬」
「なんで。それは僕たちの龍眼(りゅうがん)が欲しいからなの」
「瞬」
 焔は一喝した。瞬は肩を震わせて口を噤んだ。染芙は気まずそうに湯を飲んだ。
「通達よ。見つけた者には報奨金を支払い、匿った者は同罪として処刑するという内容だったわ。もしもあなたたちがいることを外の誰かに話したら、扉を作ってもらうどころか、軍に報告されるだけよ」
「そっか」
 瞬は声を落として呟いた。目の前には、淡い黄色の布が人数分敷かれていた。それは温もりに溢れ、穏やかな日の昼下がりのように優しい風合いだった。瞬はこれが染芙の作品だと直観した。
「その術者の人は、染芙みたいな人じゃないんだね。でも本当に可能性はないの」
「ええ。よく知ってる人だから、どうするかわかるわ」
「知り合いなんだ」
 瞬は顔を上げた。瞳には生き生きとした希望が宿っている。染芙はそれを見て申し訳なく思った。
「私の姉よ」
「お姉さん。だったら、一生懸命頼んだら――」
「やめろ、瞬」
 力ない声で焔は言った。首を振ってため息をつく。
「人それぞれ、色んな事情があるんだ。無理を言うな」
 まるで父のように強い調子の焔を見て、瞬は押し黙った。
 瞬は兄の言葉は正当だと思った。だがもし自分が染芙の立場だったなら、何としてでも兄に頼み込んだだろうし、それをきっと兄は受け入れてくれるだろうと考えていた。だが強く自分を諌める兄を見て、もしかしたら兄はそうではないかもしれないという考えがよぎり、瞬は胸がつかえるほどの寂しさを覚えた。
 瞬は染芙に開いた穴の代わりを求めた。
「ねぇ、染芙」
「何」
 染芙はおもむろに顔を上げた。瞬は逡巡し、緊張を紛らわすために唇を舐めた。
「僕を助けてくれたとき、通達のことは知ってたんだよね」
「そうよ」
「だったら、どうして僕を助けたの」
「え」
 染芙は夢から覚めたように声を漏らした。
「理由なんて。誰かが泉に落ちたのなら大変だと思って。気付いたら水の中であなたを探していたのよ」
「じゃあ、どうして僕が元気になるまで世話してくれたの」
「それは、放っておけなかったからよ」
 染芙の答えは淀みない。
「そっか」
 瞬は嬉しそうに頬杖をついた。
「兄貴、僕は染芙を信じるよ」
「え……」
 驚いた染芙は、瞬を見て目を瞠った。彼は明るく微笑んだ。
「僕、分かっちゃった。染芙なら大丈夫だって。だから、信じる」
 染芙の瞳から、静かに涙が伝い落ちた。瞬は彼女の純真を確信すると、小さく微笑んだ。
「ご飯食べよっか。僕、おなかすいちゃったよ」
「そうだね。温め直すからちょっと待って」
 涙を拭い、染芙は席を立った。顔を上げた刹那、焔の表情が視界に入る。染芙は驚いて思わず目を逸らした。
 瞬を横目に見る焔の瞳には、井戸の底のような暗い闇があった。