THE FATES

interlude.残像(6)

 そっと扉を開けて中を覗くと、心地良さそうに瞬が寝息を立てていた。手には石が連なった首飾りが握られていた。染芙は音を立てないよう静かに扉を閉めた。
 隣にある焔の部屋の扉を叩く。短く返事があったので、染芙は扉を開けた。部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。手の中には首飾りが握られていた。

 焔は寝台に腰掛けていた。染芙は妙に緊張した面持ちだった。
「染芙、どうかしたのか」
 呼びかけにも彼女は曖昧に答えるだけで、埒があかなかった。焔は立って、染芙のそばへ寄った。
「具合でも悪いのか」
 問いかけに染芙は首を振る。焔はため息をついた。
 おもむろに染芙が顔を上げた。
「怒らないで、聞いてね」
「ああ」
「瞬のことは好き?」
 問いかけから彼女の真意を探ろうとするが、焔にはそれが掴めなかった。ただ呆然と彼女を見つめ返し、首を傾げた。
「何の話だ」
 背筋を冷たい汗が流れていくのを、焔はどこか他人事のように感じていた。なぜ彼女に知られてしまったのだろうかと、そればかり考えていた。
 誰かにこの罪と恐怖に気付いてほしいと願っていた。だが同時に、いつまでも隠し通さねばならないという自制心も働いていた。せめぎ合い、焔の心は常に波立っていた。口にすることはもちろん、意識することさえ憚られるようになったのは、そうすることで全てが真実になってしまうことを恐れたからだった。自分だけが苦しんで家族が救われるのなら、全てを曖昧のままにしておきたかった。いつしかそれが彼の平常となり、特に表出することもなくなっていた。
 愛情から始まった仮面劇は、街が崩れ落ちたときに幕が下りていたのかもしれなかった。焔は沈んだ瞳で中空を見つめた。
 染芙の指が手袋越しに焔の頬に触れた。焔は無感動な眼差しで染芙を見る。彼女の濃紺の瞳は悲しく揺れた。
「瞬のことは、好き?」
 少ない可能性に望みを託しているようだった。早く頷いてほしい。祈るような彼女の声が、焔にも聞こえた気がした。
「好きとか嫌いとか、考えたことがない。瞬は俺の弟、ただそれだけだ」
「それじゃ、どうして瞬に怯えるの」
「え」
 焔の内側で何かが弾けた。今まで凍り付いていた氷塊が溶け出し、みるみる流れ出す。
 背負わされた罪。束の間の優越。正統なる者への羨望。仮初めの恐怖。
 それらが渦を巻いて混ざり合い、焔の心は畏縮していた。
「どうして君はそんなことを」
「見てしまったの。あなたの闇を」
 染芙は焔の首に手を回し、銀細工の首飾りを下げた。肌に擦れる銀には、染芙の手の温もりがあった。焔の腹の底から込み上げるものがあった。
 陽だまりが寄り添うように、染芙は焔を抱きしめた。焔は人肌の温もりが恐ろしくなり、とっさに彼女の両肩を掴んだ。しかし体を離して初めて、自分が彼女の温もりを欲していたことに気付いた。染芙はそれを悟ったように、焔の胸に頬を寄せた。
「焔」
 焔は彼女の声を甘く感じた。今なら言える、彼女なら全てを包み込んでくれるかもしれない、そう思った。だが正直な渇望を霞ませてしまう靄が、焔の心には広がっていた。焔は染芙を抱きしめ、胸の内の掴み切れない何かを掴もうとする。指先が靄に飲まれて、焔は羞恥を覚えた。
 抗っていたのは、自尊心だった。
 しかし焔は思った。彼女が闇を見たときに、すでにこの自尊心は跳び越えられてしまったのだと。
「聞いて、くれるのか」
「ええ」
 染芙は腕の中で顔を上げた。
「耐えられるか」
「大丈夫よ」
「無様だと笑いはしないか」
「しないわ」
「俺を……」
 苦しさに焔は顔をしかめた。染芙はより強く彼を抱いた。
「救ってあげたいの、あなたを」
 その囁きが彼の救いになった。

 素肌の触れ合う部分から、焔の中に長年蓄積された汚物が蒸発していく。顎を伝って染芙の胸に汗が落ちる。二人の首には対の飾りが揺れていた。
 重ねあった唇をもの惜しそうに離して、焔は染芙の中に涙の欠片を放った。押し戻されて布を湿らす欠片は、浄化され輝いて見えた。
 染芙の細い体を抱いて、焔は重い口を開いた。
「瞬が生まれたとき、司祭が言った。これは凶星だ、鏡を持たせてはいけないと」
「鏡って、龍仰鏡のこと」
 染芙の息はまだ上がっていた。焔は彼女の背中を優しく撫でた。
「そうだ」
「寓話の世界の話ではないの」
「もう何千年も姿を見せず、ただの伝承になりかけていた。だけどあいつは体の中に持って生まれてきた。親父はその言葉を聞いて、急に顔色を変えた。すぐに司祭が言うように、あいつの体から鏡を抜き取った」
「でも、そんなことをして――」
 焔は小さく首を振った。
「ただじゃ済まない。それに、鏡を保管しておく器もいる」
「鏡の器……」
 染芙は呟いて、口を噤んだ。恐ろしい考えに戦慄した。焔は静かに頷いた。
「鏡は外圧に弱い。だから家の棚にしまっておくわけにはいかない。誰か生きている同族の中に埋め込む必要があった。元の持ち主との相性や年齢、何より家の内だけで片付けるべきことだった。器は、俺しかいなかった。もちろん抵抗した。でも親父に敵うわけがなかった。親父は俺の体に龍仰鏡を押し込んだ。俺は四十日にも渡って高熱にうなされ、死ぬとまで思った。それがある日、何の症状もなくなった。体の中に鏡があるなんて忘れてしまうほど。最初はそれでもどこか怯えながら過ごしていた。何が起きるか分からない、それが俺の意識を支配した。だが時間とは不思議なもので、俺は忘れていったんだ。高熱にうなされたことも、その後の恐怖も。ただ、自分は龍仰鏡を持っているという自尊心だけが残って、醜いほど膨れ上がっていった」
 焔は染芙の銅色の髪を指で梳いた。
「そんな俺とは違って、瞬はあるべき龍仰鏡がないことで、体が弱く、いつも家でじっとしているしかなかった。なのにあいつはそんな運命を呪うこともなく、出来る範囲で母さんの手伝いをして、空いた時間にはいつも勉強していた」
「あの子は知らないのね」
 焔は様々な思いを込めて頷いた。
「あいつの頭脳は人並じゃない。そのうちきっと誰にも出来ないことを成し遂げると感じた。それと同時に、俺はひどい罪悪感に苛まれた」
 苦しげに顔を歪めて、焔は次の言葉を紡ぐために唇を舐めた。染芙は焔の瞳をじっと見つめた。彼女の濃紺の瞳には、同情や哀れみとは一線を画した、不思議な濁りが揺らめいた。
「俺は龍仰鏡を持っていることで、周りから崇められるように育てられた。だが体が弱く、術もろくに使えない瞬は、恰好の虐めの対象だ。俺へのやっかみがそれを増長した。あいつの体を見てみるといい」
「知っているわ」
 焔は驚いて染芙を見たが、すぐに納得した。
「看病をしてくれたときか」
「驚いたわ。随分と酷い目に遭わされていたのね」
「なのにあいつは、一度も文句を言わなかった。笑って言うんだ、『僕が駄目だから仕方ないね』って。耐えられなかった。俺はこの胸を抉り出してでもいいから、あいつに龍仰鏡を返したかった! これはお前の物なんだと返して、仕返しをさせてやりたかった! こんなの、不公平だ。あいつの人生は、一体何なんだ。龍羅飛のためにあるのか。司祭のためにあるのか。違うだろう、あいつの人生はあいつのためだけにあるんだ。たとえそれで人が滅びようとも、それが人の歩むべき道だったなら、受け入れるしかないんだ」
 染芙は焔に覆い被さるようにしがみついた。
「ありがとう」
 焔は無駄な慰めを言わない染芙の態度に深く感謝した。しかし染芙は彼に抱きついたまま、顔も上げようとしない。
「染芙」
 彼女の肩は小刻みに震えていた。
「泣いてるのか」
 彼女は首を振る。焔は染芙の体を離し、顔を覗き込んだ。確かに彼女は泣いてはいなかった。しかし、切ない怒りを全身に内包していた。
「全て俺の半端な気持ちが引き起こした。親父に鏡を押し付けられたとき、覚悟を決めて立ち向かえば良かったんだ。その後だって、何とかして鏡を追い出そうとでもすれば良かった。だけど俺は、それをしようとはしなかった」
「違うわ」
 染芙は焔の上に乗ったまま、手袋をした指で彼の頬をそっと撫でた。彼女の銅色の髪が額にかかった。
「あなたもお父さんも、悪くない」
 お互いの鼻先を合わせて、囁く。
「傲慢な信仰の被害者だわ」
 染芙はそっと焔の唇を舐めた。彼女の舌は温かく、焔は貪るように吸い付いた。お互いの魂を求め合う。
 心のあった場所に、心が染み込む。生きている、焔はそう実感した。
 生まれて初めて、永遠を感じた。
 それは、赤裸々な幸福という名の永遠だった。