THE FATES

interlude.残像(7)

 作業に疲れた染芙は、気晴らしに家を出た。手の上に染色液の入った壜を転がし、森を歩く。
 木の陰に光を弾く黒髪が見えた。手に印を結び、小さな声で文言を唱えていた。
「何してるの」
「わっ」
 驚いた瞬は、拍子に印を解いた。地面から浮き上がっていた木の葉が、ひらひらと落ちた。
「びっくりしたなぁ。せっかく上手に出来てたのに」
「ごめん、ごめん」
 染芙は笑いながら謝って、そばにしゃがんだ。
「ねぇ、もう一回やってみせてよ」
「いいよ」
 瞬は得意げに頷き、さきほどの印を結んだ。文言が始まると、木の葉が左右に振れた。天から糸を引かれたように、木の葉はゆっくりと持ち上がっていく。だが瞬は目の高さまで上げて、急に手を離した。整った顔に陰が差した。
「瞬?」
 染芙は隣に座って瞬の顔を覗き込んだ。
「みんなはね、違うんだよ」
「え」
「こんな印も文言もいらないんだ。思うだけで浮かせられるんだ」
「瞬……」
 今にも泣き出しそうな瞳を見かねて、染芙は彼の頭を撫でた。瞬は顔を真っ赤にして染芙の手を振り払った。染芙は手を浮かせたまま、呆然と瞬を見た。我に返った瞬は、染芙に背中を向けた。
「気に障った? ごめんね。あまりにも、可愛かったから」
「別に。でもそんな風に言われたくない」
「そんな風って」
 染芙の問いに、瞬は肩越しに振り返った。
「可愛いとか言われても、僕は男だから、あんまり嬉しくない。特に染芙には言われたくない」
「どうして」
「え、いや、それは」
 瞬は返答に困り、頬をさすった。
「いいじゃん、別に」
 ふてくされて、そっぽを向いた。
「冷たいわね」
 染芙は潔く諦めた。些細なことで彼に嫌われたくなかった。腕を大きく伸ばして深呼吸をする。視界の隅に、密かに振り返っている瞬の顔が見えた。
「ねぇ。それ何」
 瞬が指す先を辿ると、染芙の手に行き着いた。染芙は腕を下ろして壜を翳した。
「染料よ」
「部屋にあるのと、ちょっと違う壜だね」
「ちょっと特殊な染料なの。捨てようかと思ってね」
 瞬が手を伸ばすので、染芙は彼に壜を渡した。壜の蓋には木から切り取った栓を使うが、これには壜と同じ硝子の蓋を使っていた。
「なんで。もったいない。せっかく創ったのに」
 手の中に隠れてしまうほどの大きさの壜を、瞬は振ったり逆さにしたりして眺める。
「そうなんだけどね。あんまりいい色が出なかったから」
「ねぇ、特殊ってどういうこと」
「染料は従来、布地の本来の色を活かしながら染めるんだけど、これは、特定の色を特定の色に変えるのよ」
「特定の色って、たとえば?」
 壜を空に翳しながら、瞬は横目に染芙を見た。
「黒をとても薄い茶色にするの」
 そう口にして、染芙は瞬の美しい黒髪に気付いた。
「へぇ」
 瞬は壜を振って、下から覗き込んでいる。染芙は慌てて壜を奪い取った。あまりの強引さに、瞬は呆気に取られた。
「もしも被ってしまったら大変だわ。このきれいな黒髪がなくなってしまう」
 染芙は両手で壜を握り締め、弱々しい笑みを見せた。瞬は自分の髪を鷲掴みにして、首を傾げた。
「僕のこの髪が、きれい」
「えぇ、瞳の色が良く映えてきれいよ。すごくいとおしいと思うの。愛しているからよ」
 染芙はにこやかに微笑む。瞬の中で、母の声に重なった。
 愛してるわ。
 瞬の胸にこみ上げてくるものがあった。とっさに額を押さえる。懸命に涙を堪えた。
 染芙は怪訝な顔をした。
「瞬」
 呼ばれて、顔を上げる。
「どうかしたの」
「ううん、何でもない。ねぇ、染芙。それ、本当に捨てちゃうの」
 瞬は大仰に手を振って笑顔でごまかした。染芙は不自然な笑顔が釈然としなかったが、瞬の望みどおり触れないことにした。
「気に入らない作品を置いておきたくはないし」
「でも、そのうち好きになるかもしれないよ」
「そのうち、好きに……」
 染芙の呟きに、瞬は破顔して頷く。彼にそう言われると、不思議と本当にそのような気になった。染芙は壜を見つめて、力なく微笑んだ。
「そうね、そうかもしれない」
 壜から顔を上げると、そこには瞬の屈託のない笑顔があった。染芙は瞬の強さを垣間見て、焔の苦悩が少しわかった気がした。

 遠くから梅煉の声が聞こえた気がして、染芙は言葉を切った。様子に気付いた瞬は、大人しく染芙の様子を窺った。低木が揺れて、奥から梅煉が飛び出してきた。小脇には、布に巻かれた細長いものを抱えていた。梅煉は染芙の姿を見とめると、息切れながら叫ぶように言った。
「大変だよ、染芙! あの女が、結蘭がここへ向かってる!」
「まさか」
「本当さ。これを、この剣を比留(ひる)の所に受け取りに行ったとき、聞いたんだよ」
 刀剣師・比留の家と結蘭の屋敷とは、路地を挟んだ向かい同士で、動きは筒抜けだった。染芙はふらりと立ち上がった。
「そんな」
 瞬も彼女の後を追って立ち上がる。
「早く、瞬と焔をどこかに隠さないと、染芙!」
「どこかって、どこに」
「らしくない。落ち着いて」
「ねぇ、窯の部屋は」
 提案したのは瞬だった。染芙ははっとして振り返った。
「そうね」
「ちょうどいいよ、今朝やっと冷たくなったところさ。焔はどこだい」
「僕の部屋にいるよ。呼んでくる」
 瞬は軽い身のこなしで駆け出した。しかし後ろから梅煉が呼び止める。梅煉は抱えていたものを彼に渡した。
「約束の剣だよ。護身用に持っておきな」
「ありがとう。すぐ行く」
 瞬は彼女らに背を向け、焔の所へ走っていった。

 染芙が家へ戻ると、すでに瞬と焔の姿はなかった。甕の中から水を汲み、一気に飲み干す。
 街で会ったときのことを思い出す。琥珀色の瞳が染芙の恐怖を呼び起こす。腹の中がかき回されるような不快を感じ、染芙は口元を押さえた。流し場に飲んだばかりの水を吐いた。激しく咳を繰り返していると、表の木戸が叩かれた。染芙は咳を飲み込んで耳を澄ます。すぐに、より強く木戸は鳴った。染芙は胸を押さえて戸の前に立った。
「どなた」
 喉が引き絞られるようだった。声は震えて小さくなった。
「私よ、染芙」
 結蘭の声だった。染芙は咳払いをして戸を開けた。結蘭は薄く開いた戸を大きく押し開けて、染芙に断ることなく部屋に上がった。すれ違いざま、甘い蜜の香りが漂った。
「ここに入るのは初めてだわ」
「そうでしたか。ご招待できなくてごめんなさい」
「いいのよ。森は歩きづらいから嫌いなの」
 踵の高い靴には泥が跳ね上がっていた。気付いた結蘭は顔を顰めて、手近にあった布で拭き取った。泥のついた卓掛けを染芙に押し付ける。
「突然来て、迷惑じゃなかったかしら」
 彼女の笑顔は細部に至るまで整えられていた。ただ笑顔が持つはずのやわらかさだけがない。染芙は仕方なく卓掛けを受け取った。
「いいえ、そんなことは」
「あら。だって誰かと一緒にいたんでしょう」
 結蘭はしなやかな手つきで椅子を引き腰掛けた。染芙は布を握ったまま立ち尽くした。
「梅煉ならさっきまで一緒でしたが」
 用意していた答えを述べる。舌が渇いた。結蘭は目を細めて染芙を見据えた。
「最近ね、面白い噂を聞いたの」
「噂、ですか」
「あなたが宝石を四つも拾ったと。おかしいわね。あなた私に否定したわよね」
 長い爪を見つめ、結蘭は興味なく装う。だが琥珀色の瞳は輝きを増した。
 染芙の膝は震えた。額の際に汗が滲む。自分の鼓動が大きすぎて、結蘭の声が遠く響いた。
「ええ、以前お話した通りです。宝石なんてありません」
「深緑のきれいな宝石だそうよ。まぁ、ないならいいわ。たちの悪い噂に騙されたのね、私」
「きっと、そうですよ」
「そうよね。まさかあなたに騙されてるわけではないわよね」
 染芙は思わず言葉に詰まった。急いで頷く。結蘭は立ち上がった。
「そろそろ失礼するわ。王都へ行かないといけないの」
「えぇ、はい」
 虚ろな返事をして、染芙は木戸に手をかけた。
「楽しかったわ。相手してくれてありがとう。また来るわ」
 肩が触れる。染芙は首に手をかけられたように錯覚した。
 結蘭が去った部屋には、花の蜜の香りが残った。