THE FATES

interlude.残像(8)

 棚から出した茶器で茶を淹れる。茶器は銅製で、梅煉の作品だった。
「使ってくれてるんだね」
「当たり前じゃない。とても使いやすいわ」
「良かった。そんな繊細な物を作ったのは初めてだったからね。心配してたんだ」
「そう。それならもっと早く言えば良かったわね」
 染芙は梅煉の前に茶を出した。梅煉は嬉しそうに一口飲んで深く頷いた。彼女も納得したようだった。
 窓の外はすっかり暮れていた。卓の上には手燭が置かれ、赤い灯りが丸くなって部屋を照らした。梅煉は軽く頬杖をついて、染芙が座るのを待った。
「ねぇ染芙」
「なに」
 昼間の緊張からようやく解放され、染芙の笑顔は普段よりも和んでいた。梅煉は心を鬼にして口を開いた。
「前から聞こうと思ってたんだ。あんた、いつまであの二人を匿うつもりだい」
 染芙の表情から潮が引くように色が消えた。梅煉は落ちてきた髪を耳にかけた。
「無理なんだ。龍羅飛を匿うなんて。あの女から逃げられやしないよ」
 染芙は答えられずに視線を落とし、膝に置いた指をじっと見つめた。
「それとも何か理由があるのかい。彼らと一緒にいる理由が」
 染芙は思わず顔を上げた。直後、その行為が梅煉の問いに対する肯定であると気付く。梅煉はため息を吐き出した。
「そうなんだね」
 容赦ない梅煉の追及に、染芙は再び俯いた。その様子に、梅煉は言葉を重ねず待った。染芙は観念したように、束ねていた髪をほどいた。
「好きなの」
 口にすると、抑えていた気持ちが暴れだした。染芙は両手で顔を覆った。手袋が涙に濡れた。
「焔のことが好き。愛してるの」
「やっぱり」
 染芙は目を丸くして顔を上げた。梅煉は卓に身を乗り出して染芙の頭をゆるく叩いた。
「何十年あんたと友達やってると思うんだい。すぐにわかったよ」
「ごめん」
「謝ることじゃないよ。それより厄介だね」
 わかっていたが、言葉にされると胸に刺さった。染芙はたどたどしく頷く。
「どうしたらいいのか分からないの。焔たちはここから出られないし、そう長くもいられない」
「違うよ。いや、それもあるんだけど、あたしが言ったのはあんたのその気持ちのことだよ」
「私の、気持ち」
「あんたはもし、二人が結界から出られたら、ここで手を振るつもりかい。気をつけてねって。嫌だろ。一緒にいたいだろ」
「うん」
 それは返事というほど明快なものではなかった。染芙は考え込む。何を選べばいいのかわからなかった。染芙はあえて首を振った。梅煉には読めていた。
「まぁ、このままだと、もしも出られたらなんてこと言ってられないけどね。自分でも分からないんだろう? 何をどうしたらいいのか、何をどうしたいのか」
 染芙は徐に頷く。
「ゆっくり考えてみな。自分の中で何がいちばん大きな気持ちなのか、あんたなら掴めるよ。どうしたらいいかじゃない。どうしたいかだよ」
「わかってる。私はあの二人に生き延びてほしい」
「だったら――」
「ただ、それが彼の幸せなのかしら」
 淋しげな笑みを浮かべ、染芙は首を振った。梅煉は困惑した。ぬるくなった茶を飲んで息をつく。
「染芙」
 呼び掛けに彼女はおもむろに顔を上げた。虚ろな濃紺の瞳は梅煉を見つめながら、どこか遠くを眺めていた。
「それじゃ、あんたは私の幸せがわかるかい」
 染芙の顔がみるみる涙に歪む。梅煉は茶を飲み干して、静かに卓に戻した。
「困らせるつもりじゃないんだ。でもね、誰にも分からないんだよ、そんなこと。幸せなんてものは個人のごく限られた定義でしかないからね。あたしらから見て不幸なことが、誰かには幸せかもしれない。逆だって。違うかい」
 子供に言い聞かせるような優しい問いかけに、染芙は静かに頷いた。
「違わないわ。確かにそうよ。でもあの人は、消滅を望んでいるの」
「消滅……?」
「体に刻まれた罪から解放を。それがあの人の幸せなのよ」
「染芙、どういう意味だい」
「待って、そうなのよ。だってあの人の罪は、終わらせることでしか償えない」
 染芙は卓に身を乗り出し、声を荒げた。廊下の向こうでは瞬と焔が休んでいる。すぐに染芙は口を押さえて座った。梅煉はこんなに興奮した染芙を初めて見た。無性に渇いて器を持ったが、ついさっき飲み干したことに気付いた。
「染芙、もう一杯もらえるかな」
 器を差し出され、染芙は何度も頷いて席を立った。梅煉の器にはすぐに熱い茶が注がれた。一気に流し込むと、喉が焼けるようだった。
「焔は、何をしたんだい」
 梅煉の言葉には隠すところがなかった。染芙は組んだ手を卓に乗せて、俯いたまま口を開く。
「龍仰鏡、知ってるよね」
「聞いたことはあるよ。伝承の話じゃないのかい」
「違うの。それを瞬が持って生まれたの」
 染芙は事情を話した。黙って話を聞く梅煉の顔は次第に険しくなった。
「鏡を返せばいいじゃないか」
 低い声で梅煉が問う。染芙は首を振った。
「衝撃で、焔の命が危険になる」
「かわいそうに……」
 それは梅煉が最も嫌う言葉だった。染芙は驚き、次の言葉を待った。梅煉は茶を一口含み、ゆっくりと飲み込んだ。
「どこにもぶつけようがないね。龍羅飛は信心深い人が多いって聞いたことがあるけど、そうだったんだね」
 殊来鬼には龍羅飛のような統一的な宗教がない。二人には実感として理解できない。
「神と自分の子供とを天秤にかける親がいるんだね。躊躇いすらも背徳なんだろうか」
「結果、司祭の言う通りにした……」
 問いに梅煉は頷く。
「焔が罪を背負うことはないんだよ。みんな被害者なんだ。それに、焔がいなくなったら、瞬は一体どうやって生きていくんだい」
「確かに私も、彼らは信仰の被害者だと思う」
 染芙は苦しげに眉を寄せた。
「そして、焔は瞬を恐れてる……」
「それは自分の範疇外だからだよ」
 答えはすぐに返ってきた。
「焔の基準と瞬の基準が違うから」
「そんなの、みんな――」
「そう。みんなそうだ。何も特別じゃないんだ。絶対なんてない。活路はきっとあるよ」
「どういうこと」
「焔が死なずに鏡を取り出すことは出来ないのかい」
「梅煉」
「みんなで生き残るんだ。それが私の幸せだよ」
 言外に問われて染芙も頷く。
「私も」
「だろう。死んだら苦しいことはないかもしれない。でも楽しいこともないんだよ。確かに生きてりゃ苦しいことばかりさ。だけどそれがなかったら、どんな楽しさも埋もれてしまうだろう。楽しさを知るためには、苦しさがいるんだ。そう考えりゃ、苦しいことも乗り越えられる。いいかい、探すんだ。もちろん瞬にも事情を話してね。あの子は頭がいいから大丈夫。受け入れられるよ」
「それはあたしもそう思うわ。だけど……」
「ほとんど絶望的だね」
 梅煉はあっさりと言い切った。染芙はそれも梅煉の優しさの形と知っていたが、それでも瞬間的に心が痛んだ。梅煉は続けた。
「だけど否定することに何の意味があるんだい。世の中は何が起こるかわからない。もしかしたら焔の中にある鏡を、外から瞬が操れるかもしれない。やってみるしかないんだよ」
「わかってる。出来ることは全部したい」
 新しい茶を用意するため染芙が立ち上がると、梅煉も同じく立ち上がった。染芙が変な顔をする。梅煉は使った器を返し、染芙を抱きしめた。
「頑張ろう。幸せになろう」
「うん」
 染芙は梅煉の厳しさと優しさに包まれ、今まで自分が選んできた道に、間違いはなかったと強く感じた。