THE FATES

interlude.残像(9)

 空は快晴には及ばなかった。だが雨が降る気配はなく、白い綿のような雲がうっすらと一面に広がっていた。
 梅煉に誘われ、瞬は剣を抱えて家を出た。大柄な梅煉の背中を見上げて、瞬はずり落ちてくる剣を何度も抱えなおした。
「ねぇ梅煉、何するの。これにすごいの付けてくれるの」
「うん、まぁそうだね。うん」
 いつになくはっきりとしない梅煉を不審に思い、瞬は小走りで彼女の前に回りこんだ。顔を覗き込むと、梅煉はすぐに視線をそらした。
「そ、そうだねぇ。どんなの付けようか」
「梅煉、何か隠してるでしょ」
「え」
 梅煉は素っ頓狂な声を出して、瞬を振り返った。すぐに、めりはりのある顔を歪める。
「しまった……」
「何がしまったんだよ。何隠してるの」
 瞬は梅煉の服を掴んで立ち止まった。梅煉は瞬と視線を合わせようとしない。瞬は勘繰った。
「染芙の家で、何かあるの」
「何かって、何さ」
「僕が邪魔なんでしょう。だから」
「邪魔なはずないよ。まずは焔に話を」
 梅煉は、あっと口を噤んだ。瞬は厳しい眼差しで梅煉を睨みつけた。
「話って。何の話だよ。僕に秘密なんだ」
「そんなことないよ。まずはお兄さんに話すってだけで」
 梅煉は瞬の手を取った。しかし瞬は力尽くで振り払った。
「それが邪魔ってことなんだよ! 梅煉のばか」
 瞬は走り出した。来た道を戻る。
「ちょっと」
 梅煉はすぐに追いかけたが、踏み出した足が見えない壁に阻まれた。そこには結界があった。手を翳して、術者を探る。瞬の気配が残っていた。
「そんな、まさか」
 瞬は術が苦手だと聞いていた。だが今、梅煉の行く手を遮る結界は、付け入る隙がないほど高度なものだった。とっさの行動が、奇跡に繋がったとしか考えられなかった。
 梅煉はそばの木の幹に凭れかかり、ため息をついた。
「よりにもよって、結界を張るかね、あの子は」
 脳裏に、結蘭の喜ぶ顔が浮かんだ。

 染芙の部屋の壁は、色とりどりの薄布で飾られていた。染芙は焔を部屋に通して、後ろ手に扉を閉じた。
「お姉さんのことだね」
 焔は染芙の暗い瞳を見抜いた。寝台に腰掛ける。掌に触れる毛布はやわらかく、焔に染芙の体を想起させた。
「どんなことを言われたのか、教えてくれないか。君たちに迷惑はかけられない。どうしようもならなかったら、俺たちはここを出て行くよ」
「出て行くって、どうやって結界を抜けるの。無理なことを簡単に言わないで」
 染芙は声を震わせた。
「近いうちに必ずまた来るわ。今度は何人も連れて。龍眼を手に入れるため」
「そうか」
 想像していた通りで、焔には返す言葉が見つからなかった。
「どうして、どうして」
 扉に背中をつけたまま座り込み、染芙は両手で顔を覆った。
「龍眼は人の眼よ。意志が、心が、命があるから美しいのに」
「染芙、おいで」
 顔を上げると、焔は寝台を軽く叩いていた。染芙は前髪を整えて、彼の隣に腰かけた。
「ごめんなさい、取り乱して」
「ううん、嬉しいよ」
 焔は染芙の髪を指で梳いて、抱き寄せた。彼女の白い首筋を、宥めるように吸う。染芙は泣いていた。
「焔」
 鼻声の染芙の声は子供のようで、焔の中の愛しさは弾けそうになった。無言で先を促す。
「ずっと一緒にいて。私、あなたと生きたい」
 焔は瞠目した。体を離すと、染芙が首に抱きついて、口づけた。言葉は奪われて、吐息に溶けた。
 互いに傷を晒し、共に涙することを、傷の舐めあいと蔑んでいた。それは思えば負け惜しみに過ぎなかった。一度でも舐めあえば、その快感を忘れられなくなる。失う怖さや自尊心に構っていられなくなる。彼は生きる心地を味わっていた。世界はどこまでも鮮やかだった。人はこれを幸せと呼ぶのだと思った。
 染芙が望むなら、生きることも絶望ではなかった。
 胸の奥が疼く。嘲笑が聞こえる気がした。焔は体の内で沸き起こる悪意から目を逸らす。染芙だけを見つめる。後ろめたさをごまかすように、彼女を強く抱きしめた。そのまま、寝台に押し付ける。これから彼女を失う人生は、考えたくなかった。
「染芙」
 名前を囁くと、衝動が体を占めた。服をかき分け、彼女の素肌に触れる。
「ねぇ、焔。みんなで、結界を出よう」
 染芙は焔の背中に回した手で、きつく服を掴んだ。
「もしかしたら瞬が、鏡を」
 焔は乳房に伸ばした手を引きとめた。
「無謀だ」
 焔は体を起こして染芙から離れた。声が冷めたのは恐怖のせいだった。
「断言するには、早いんじゃないの」
「鏡を持って生まれたにも関わらず、扱いきれなくて自滅した者もいる。この鏡は凶器なんだ。魅力的な利点はある。だがそれ以上の危険もある。俺がやるなら挑戦してみないこともないが……」
「それじゃ、意味がない」
 染芙は服を合わせて起き上がった。
「みんなで生きるの、みんなで幸せになるの」
「理想だ」
「理想がなきゃ、前に進めない」
 強く焔の腕を掴んで、染芙は訴えた。しかし焔は首を横に振る。
「染芙、理想だけでは打ち砕けない現実だってあるんだ」
「聞きたくない」
 染芙は耳を塞いで首を振る。焔は優しく微笑んで、染芙の手を握った。
「心配しないで。俺は染芙に出会えて、存在の全てを救われたんだ」
「じゃあ、どうして」
 焔は染芙を抱きしめた。
「これ以上、何も望まないからだよ。失うこともね」

 息を切らして、瞬は染芙の家の木戸を開けた。中はしんとして、二人の姿は見当たらない。踏み込んだときの床の軋みが、瞬には大きく感じられた。戸惑いながら、二人を探す。居間を抜けて、廊下を奥まで突き当たる。
 染芙の部屋の前まで行くと、話し声がした。焔と染芙のものだったが、その内容までは聞き取れなかった。扉を叩こうとするが、躊躇いが腕を重くした。瞬は息を殺して、静かに扉を引いた。隙間から部屋を覗く。
 腕の中から、抱えていた剣が落ちた。鈍い音が響いた。瞬は扉から飛びのいて、緩慢に首を振った。目にした現実が、受け入れられなかった。
 部屋の中には、焔と染芙がいた。だが瞬の目には、焔と染芙の姿をした別人に思えた。絡まりあう二人の肌が、よく知る二人のものだとは思いたくなかった。
「瞬!」
 中からの声にも気付かず、瞬は向かいの部屋の扉を開けた。鼻をつく染料の臭いが、溢れ出す。瞬の瞳から、涙が零れた。心にある大きな池が、枯れていく。周りの植物は萎れ、蜜を求めてきた鳥や虫は寄り付かなくなった。瞬は池の真ん中に取り残された。膝まであった水はなくなり、地面はひび割れた。
 瞬の中で、希望が崩れた。薄暗い部屋の中で、嘲笑を浮かべる。
『このきれいな黒髪がなくなってしまう』
『すごくいとおしいと思うの。愛しているからよ』
 染芙のことが大好きだった。彼女の言葉が嬉しかった。好かれたくて、こっちを向いてほしくて、頑張ったり甘えたり。染芙にとっての特別な存在になりたかった。名を呼ばれると、体が熱くなった。
 机に並べられた壜に、硝子の蓋を探す。しかしどれも木の蓋だった。瞬は外れの壜を払いのけた。足元に割れた壜が散らばる。服の裾が、鮮やかに染まった。
 焔の弟。それが自分の名前だ。
 瞬は背後の棚を振り返る。手当たり次第、壜を持っては床に投げつける。壜が砕けて、瞬の心も千切れていく。瞬は不思議に思った。慣れていたはずなのに、皆の視線が兄にばかり向くことなど、生まれたときから知っていたのに。なぜ、裏切られたと思うのだろう。
 こんなにも痛いのだろう。
 棚の端に、他の壜に隠れるようにして、硝子蓋の壜があった。手に取って、窓へ翳す。光が液体に吸い込まれて、七色に揺らいだ。蓋を開けると、飴のような匂いがした。
「やめて、瞬!」
 染芙の悲鳴がした。瞬は頭から染料を被った。
 粘り気のある液体は、髪を濡らし、肌をゆっくり流れて染み込んでいく。瞬は額に張りついた髪を指で摘まんで、上目遣いに見た。
 窓から滲む光に髪が透けて、金色に輝いて見えた。染芙は泣き崩れた。
「どうしたの、染芙。そんな格好じゃ、具合悪くなるよ」
 瞬は廊下でうずくまる裸の染芙に、部屋にあった布をかけた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、許して、瞬」
「どうして謝るの。染芙、悪いことしてないよ」
 染芙の背中をさすり、瞬は笑った。触れる掌は、死体のように冷たいものだった。
「瞬」
 顔を上げると、瞬は首を傾げた。髪からは染料が滴っていた。瞬の手が染芙に伸びて、布の前を合わせた。
「僕は染芙の子供でも人形でもないんだよ。いつまでもそんな無防備にしないで」
 瞬は染芙の銅色の髪を撫で、立ち上がった。
「今日から、梅煉の家に行くよ」
 廊下に落ちていた剣を拾い、瞬は染芙に背を向ける。足取りに迷いはない。躊躇いも後悔も喘ぎも、不自然なほどに欠落していた。木戸が閉まり、隔たりは目に見えるものになった。横から焔が抱きしめた。
「ごめんなさい、私、私」
 泣いて縋る染芙に、焔は何も言わない。ただ強く抱いて、髪を撫でた。
「捨てておけばよかった。あんな染料」
 焔の体温を感じながら、染芙は瞬の冷たい手の感触がまだ忘れられずにいた。

 作業部屋の窓から、夜の光が射す。清らかで静かな光は砕けた硝子に宿り、ささやかに煌めいた。
 染芙は部屋を片付ける手をとめて、窓から夜空を見上げた。明滅する光は、囁きあう恋人たちに見えた。楽しげな笑い声が光になって届く。染芙の頬を涙が一筋流れた。
 両手でそっと腹を撫でる。染芙はしゃがみ込み、膝を抱えて泣いた。