THE FATES

2.偽装(2)

 羅依は時間が経つのも忘れ、街角の掲示板をじっと見上げていた。ただそれだけで、内から激しい憎悪が湧き上がって来る。生々しくぬめりを帯びた感情は、まるで意志を持つ生き物のように蠢いていた。
 掲示板には一枚の写真が張られていた。端のほうは切れ切れになり、描線は痛々しいほどに色褪せていた。羅依の頭の奥で彼の声が低く響いた。体が小さく痙攣した。
 描かれた男の笑みは変わらなかった。
 気持ちが煮詰まって、ふきこぼれそうになる。羅依は軽く息を抜いた。
 晴れ渡った空の下、街は賑わいを見せていた。中心部からは幾筋か奥まった通りだが、下町らしい温かみに溢れていた。羅依は恨めしそうに空を見上げた。
「あんた、賞金稼ぎか」
 背後から突然声をかけられ、羅依は飛び上がるほどに驚いた。聞いたことのない男の声だった。相手に感づかれないように辺りを目で探る。街は時が止まっていたかのように何の変化もない。羅依は自問自答を繰り返す。なぜ、どうして声をかけられるまで男の存在に気付かなかった。けれど張り詰めた警戒の網に触れる気配など、虫の一匹さえいなかった。自分の間合いに土足で踏み込まれたことと、それに気付けなかったことに、羅依は腹立たしさを覚えた。
 何事もなかったかのように羅依は振り返る。
 男はへらへらと笑って突っ立っていた。浅黒く焼けた肌が快活で健康的な印象を与えるが、体格的にそう恵まれているようではなかった。宝探しをする少年のような目つきと厚い唇が、南国の風のように大らかで、接する者の警戒を解いた。
 男は上機嫌で微笑んだ。大きな口が顔の半分を埋めた。
「そっけない人やなぁ。そんなに真剣に見てんねん、誰が見ても賞金稼ぎにしか見えへんわ」
 聞き慣れない魔族訛りが羅依の調子を狂わせた。
「だったら、なんだ」
「今でもこの男を狙う奴がおるんやなぁって、感心してたんや。そりゃまぁ、こいつの首獲ったら、一生遊んで暮らせるもんな」
 男は掲示板に歩み寄り、写真を指で小突いた。
「せやけどもう二年やで。あの騒動以来、目撃情報すら出てけえへん。もうおらんのちゃうか、こいつは。鬼使(きし)・瞬は」
 羅依は男を睨みつけた。気付いた男は、両手を軽く挙げて眉を下げた。
「待ってや、なんで俺をそんな親の仇みたいに見んねん。でもほら、客観的に見たらそうなるやろ。そら俺かて一遍でええから見てみたい気はあるで。あん時のことは俺もよう覚えてるからな」
 男は腕を組み、掲示板の柱にもたれた。
「最初に現れたんは、シュリツ共和国の小さな田舎町やった。鬼使はそこでまず村人の半分を殺した。それから橙亜国に行って甘広の遊女を数人。それから数日間、なんもなかったけど、正直生きてる心地やなかったな。いつ自分のおるとこに鬼使が来るか、それだけが怖くてしゃあなかった」
 掲示板が不意にぐらつき、男は慌てて飛びのいた。
「でもびっくりしたで。自分から写真を役所に送りつけて、賞金かけさせたんやからな。よっぽど捕まらん自信があったんやろな。愉快犯ってやつや。一応俺も探してみたんや、鬼使の居場所。せやけどすれ違うことはおろか、奴のいた形跡すら当たらんかった」
「この街で予告が出た」
「え」
 男は羅依の話した内容より、羅依が口を利いたことに驚いた。羅依は男を横目に見る。
「知らなかったのか」
「初耳や。そうやったんか、せやから死体が一箇所にあってんな」
「思念波だ。届く範囲はそう広くはない」
「行ったんやな、あんたも」
 男の問いに、羅依は答えなかった。男はぴくりともしない羅依の表情に観念して、追及を避けた。
「どんなに危険やとわかってても、こんだけ莫大な賞金や。そら賞金稼ぎだけやない、生活に苦しい普通の人らかて集まったって話や。途中で怖なって引き返したやつもおるやろう。それでも四十八人や。四十八人の死体がクプトの山ん中にはあったんやで。クプトいうたら、こことは目と鼻の先やろ。こんなにのどかな街やのに、まさかほんの二年前にそんなことがあったなんて、俺には信じられんわ」
 男は通りを振り返り、慈しむような眼差しで往来を眺めた。羅依もつられて街を見遣る。
「俺にはなんで今でもこの掲示があるんか、理解できへん。特にこのへんの街の人からしたら、こいつの記憶は悪夢以外のなにものでもあらへん。そもそも、もういらんやろ。こいつがまた現れることはない思うねん」
 道向かいの商店で、幼い子供をつれた女性が店主と親しげに歓談していた。子供は道端にしゃがみ込んで、石ころを積み重ねるのに夢中になっている。
 羅依は男の言わんとするところを、その光景に嗅ぎ取った。骨の髄が急に冷めるような感覚に襲われた。
 それは恐怖に潜む、至高の興奮だった。
 男は軽く息をつき、気だるい様子で腕を組んだ。
「無駄やと思わへんか」
「なぜ」
 羅依は興奮を悟られないよう、小さく問い返した。
「せやから、二年間なんの情報もないのに」
「あいつは来る」
 羅依は聞きたくない男の言葉を遮り、強く睨みつけた。初めて二人の視線が交わる。男は口を噤んだ。
「ここにな」
 羅依は地面を指して、歪んだ笑みを見せた。その指はまるで自分の胸を指しているようだった。
 羅依は何の前触れもなく、男の前から立ち去った。
 人混みに消えゆく細い背中を見つめる男の目に、先までの軽薄さはなかった。片手で形のいい顎をさする。
「へぇ、結構面白いやないか」
 男はそう言って、満足げに微笑んでいた。

 二年という月日に現実感はなく、羅依は長いとも短いとも感じられなかった。拳を握る。靴が地面を蹴り上げる。風が頬に当たり、裂ける。自分が生きていることが、未だに信じられないでいた。
 その日はよく晴れた夜で、色濃い空にはたくさんの星がばら撒かれていた。灯りを持たずとも、目は利いた。予告された場所についてみると、足元には物言わぬ肉片が敷き詰められていた。低い方へ低い方へと、赤い川が流れる。噎せかえるような死臭に、羅依は膝が震えた。
「お前で最後かな」
 思念波で聞いた声が、耳に届いた。辺りを見渡すが、人影らしきものは見当たらない。風で木の葉がこすれ合う。森がさざめいた。
「はじめまして」
 首筋が震えるほど甘い声が、真後ろから聞こえた。驚いて息を吸い込んだ時にはもう、喉元に腕を回され締め上げられていた。
「ずいぶんかわいらしいのが来たんだな」
 男は羅依の耳元に口を寄せ、わざと腕の力を抜いた。羅依は男から飛びのき、距離を取った。靴裏がやわらかいものを踏み潰す。その感触が膝で広がる。羅依は顔を顰めた。
「それはほら、あれだよ。ちょっと前に来た男の胃か腸だよ」
「黙れ」
 言ったつもりが、うまく声にはならなかった。羅依は男を振り返った。そこにいたのは、およそこの陰惨な光景にそぐわない、優しい笑みを浮かべた好青年だった。肌は陶器のようになめらかで、髪は作り物のような金茶色をしていた。男の髪は木々の間を行ったり来たりする風に乱され、目元を覆った。
「鬼使っていうのは、お前か」
「そうだよ」
 にこやかに答えて、鬼使・瞬は髪をかきあげる。月明かりに晒された素顔に羅依は恐怖を抑えられず、思わず小さな悲鳴をあげた。彼の深緑色の瞳は樹海の奥に潜む化け物のようだった。鋭く深く無為なほど気高い。そして何より畏怖を抱くほどに美しかった。羅依はとっさに腰に下げていた剣を抜いたが、持つ手が小刻みに震えた。もう片方の手を重ねても、震えは止まらなかった。
 怖い、怖い、怖い。そればかりが頭の中で回り続けた。一歩踏み出すと、爪先に感触があった。羅依は広がる光景に今再び目を向けた。お前たちも同じ恐怖を感じたかと問う。乗り越えたのか、それともそんな時間すら与えられなかったのか。問いは巡り巡って羅依の心に辿り着く。
「なんだお前。構えてるだけで俺を殺せるのか」
 一歩ずつ、鬼使・瞬は羅依に歩み寄る。羅依は大声を上げた。
「男気がいいね。贋物のくせに」
 彼はそう言って、顔を歪めて笑った。羅依は震えも忘れて鬼使・瞬の間合いに飛び込んだ。剣を薙ぎ払う。とらえたと思ったときには、もう相手の姿は見えなかった。羅依は舌打ちをした。
 血のにおいが俄かに強くなる。
 抗えない力が羅依の体をいましめた。息が詰まりそうになる。
「大丈夫ですか」
「え」
 顔をあげると辺りはやわらかな光に満ちていた。羅依は道端に座り込んでいた。
「ずいぶん顔色が悪いみたいですけど」
 見知らぬ女性が肉付きのいい手の平で羅依の背中をさすっていた。
「母さん」
 女性に母の面影が重なる。心が手綱を放した馬のように自由になる。
『泣かないで、羅依』
 閉じ込められた記憶はいつも血のにおいがする。羅依は素早く立ち上がると、女性から距離を取った。こわばった羅依の表情に、女性は気落ちした顔で軽く頭を下げた。
「何でもないなら、よかったわ」
 羅依は女性が背を向ける前に、その場から駆け出した。
 現実という悪夢が体に纏わりつく。走りながら羅依は、額を拭った。あとからあとから汗が噴き出し、体中の水分が蒸発するような幻想に襲われる。
 死なない記憶は繰り返し羅依の心を締め付ける。屈辱という生き物は二年が過ぎた今でも牙を剥き、飽くことなく羅依の自尊心を食い散らしていた。
 彼の深緑の瞳が鮮明に脳裏に浮かぶ。
『よくもまぁ、こんな玩具を振り回していられる』
 腰の力が抜けてしまいそうになるほど、穏やかな声には狂気が刻み込まれていた。
『もっと、もっといい物を持っているのに』
 構えていた剣は、きめの細かい砂に変わって消えた。
『使えばいい。どうしてそれを使わない』
「やめてくれ」
 街並みは商業地区から居住地区に移り変わっていた。羅依は石を積み上げた塀に手をついて、口で激しい呼吸を繰り返した。唾液が糸を引いて足元に落ちる。
『俺を殺しに来たんだろう。使えばそれが叶うんだよ。それとも使いたくないのか。殺したくないのか。お前の性がそうさせるのか』
 何もかもを見透かしたように、記憶の男は目を細めた。
「もう、消えろ……」
 羅依は消え入る声で呟くと、その場にしゃがみ込んだ。
 忘れたいと何度も思った。何もかも消え去ってしまえばいいと思った。普段はそれができているつもりでいた。願えば叶うものだと歪んだ征服感を覚えることもあった。
『わざわざ背の高い靴を履いている理由』
 亜須久にそう言われて、すぐに鬼使のことを思い出した。憎悪が息を吹き返した。亜須久が知っていることには、もう諦めがついた。彼が知っていたところで、何が変わることでもないと気付いたからだ。だが、鬼使だけは許せなかった。あの時の屈辱を、羞恥を、許すわけにはいかない。
 羅依は何度も彼の名を心に繰り返す。
「殺し損ねた俺を、早く殺しにこい。その時は俺がお前を消してやる」
 羅依は体を起こして、唾を吐き捨てた。