THE FATES

interlude.残像(11)

 瞬は戻ってこなかった。染芙は頭のどこかで、瞬がすぐに帰ってくるものと思っていた。梅煉の家なら心配はない。ただ寂しかった。
 染芙は瞬が出て行った翌日から、作業部屋に篭もって染料を作っていた。どうにか瞬の髪を元に戻せる染料を作り出そうとしていた。いくつか試作品は出来た。だが、瞬に会う勇気が出なかった。
 腹が疼いて、吐き気がした。水を飲もうと部屋を出る。居間へ行くと焔がいた。染芙に気付いて、振り返る。
「随分、暗い顔だ」
 そう言う彼も、世界の終わりのような顔をしていた。染芙には作った笑顔が痛々しかった。
「そんなことないよ」
 甕から水を汲んで、一気に飲み干す。染芙は焔から視線を逸らし、椅子に腰掛けた。空は灰色の雲で覆われ、光は欠片すらない。部屋は湿り、壁際から薄闇が張り出していた。器を持つ手は冷えて、軋むようだった。
「なぁ染芙」
 焔は窓から森を眺めて言った。横顔には光も影もなく、全てが平らに均されていた。染芙は無言のまま、彼の言葉を待つ。
「生きるって、何だろうな」
 唐突な話に、染芙は焔の真意を掴み損ねた。彼の視線を追って、森を眺める。染芙は、そのずっと先に、龍羅飛があることに気付いた。
「苦しみしか生み出さない。そんな時間を、なぜ生きなければならない」
「焔」
「他にも生き延びた仲間はいるだろう。でもそれが何だっていうんだ。今死のうと、未来で死のうと、同じに思えるんだ。ずっと、考えてた。俺の望み。それは全てを終わらせることなんだよ」
 染芙は焔の言葉に震えた。暗緑の瞳が染芙を射る。息が止まるほどに陰鬱で美しい色彩だった。
「染芙、俺を終わらせて」
 焔は染芙の手に自分の手を重ねた。そのあまりの温かさに、染芙は逃げるように立ち上がった。はずみで器が倒れ、卓に水がこぼれた。
「やめて」
 手袋の手を握りしめ、染芙は焔を見下ろした。焔は子供のような眼差しで、染芙を乞う。
「龍眼は生きているうちに取らないと、ただの肉片らしい。生活の糧になるなら、使ってくれていいから」
「やめて、そんな話聞きたくない」
 耳を押さえて、焔の声を塞ぐ。それでも聞こえてくるので、染芙は叫んだ。
「自分勝手を言わないでよ。あなたと生きていきたい私の気持ちを無視しないで」
 床に座り込んで、小さくなる。染芙は声を殺して泣いた。体中が火照り、吐き気をもよおす。
 焔は染芙の前に腰を下ろして、全身で彼女を抱いた。
「染芙を苦しめるつもりはないんだ。出来るなら、君と一緒に煙のように消えてしまいたい。ここから、今から、この世界から。でも君を巻き込めない。君には君の生命がある」
「だったら、どうしてそんなこと。私を苦しめたくないなら、どうしてそんなこと言うの」
 焔の腕から逃れようと染芙は暴れるが、より強く焔に抱かれて諦めた。温もりは罪だった。染芙は脚を抱えて泣いた。手袋が濡れていく。
「俺は平凡に静かに生きたかった。それだけなのに、どうしてそんな夢すら見られない。瞬が鏡を持たなければ良かった。俺も瞬も、ただ生まれてきただけなのに、俺たちが何をしたって言うんだ。これが神の意志、世界の希望だと。宗教が何をしてくれる。俺たちを救ってくれやしない。誰も救えないんだ」
 腕に力が入る。染芙は痛みに顔を歪めた。
「痛いよ」
「ごめん」
 謝りながら、焔が力を緩めることはなかった。
「本当は君を連れて逝きたい。その気持ちだけは誤解しないで」
 染芙は焔を疑うわけではなかった。だが、試したかった。
「ねぇ焔、聞いてほしいことがあるの」
 彼が生まれてきた意味を。生きるということを。これから先に続く、二人の未来を。
 顔を上げて、息がかかるほど近くに焔を見つめる。手袋の手で頬を撫でる。生の感触が欲しくなって、染芙は頬をすり寄せた。
「私、身篭ったわ」

 空は墨を流したように薄暗い。瞬は結泉の水面を見つめた。灰色の空を映す水面は、溶けた鉛が揺れるようだった。さやさやと吹く風に、毛羽立つように波紋が出来た。
 恨めしく泉を睨みつける。この泉さえなければ、この結界さえなければ。これが全てを阻んでいる。逃げ出して行くあてなどないが、それでもここにいるより良かった。ここにはもう、いたくなかった。兄と染芙のいる場所には。
 前髪を上目遣いに見る。空が透けてしまいそうな髪色だった。
 気付けば瓶の蓋を開け、それを頭から被っていた。
 体の奥の開かれていた場所が、染料の粘り気に閉ざされた。
 瞬は手近にあった石を泉に投げ入れた。波紋は連なって広がり、やがて消えていく。何度か繰り返し、近くから石がなくなると、跪いて泉を覗き込んだ。水面には見慣れない自分が死んだような目で映っていた。気分が悪くなり、瞬は体を引っ込める。
 失うのなら、全て失いたかった。閉ざされるなら、閉ざされたことすら知らずにいたかった。傷口の皮膚が引き攣れて塞がるような、声にならない痛みが瞬を取り巻いていた。美しい煌めきほど、醜い叫びになった。
 胸に手を当てると、捨てきれない愛情に気付かされた。
「最低」
 世界は広く、呟きはすぐに消えた。瞬は膝を抱えて座り、泣いた。

 雨が降り出した。大きな雨粒が窓に当たり、流れていく。部屋は雨音に包まれた。
 焔は染芙の肩を掴んで、後ろに押し倒した。強く床に押し付ける。彼女の腹に跨り、手には短剣を持った。
「そんな喜劇はやめてくれ」
 口元には嘲笑が浮かんだ。片手を床について、剣の切っ先を染芙に向ける。なけなしの光を集めて、刃先が瞬いた。零れる輝きは焔の躊躇いだった。短剣を持つ手は震えた。
「私を殺すの。それとも、腹から命を掻き出すの」
「どうして君を殺さなきゃならない」
「だって私、あなたの望みを阻んでばかりいる」
「だとしても」
 焔は体を曲げて、染芙の腹に頬を寄せた。耳をそばだてると、染芙の鼓動が二重になって聞こえた。想像する。ここに、二人を繋いだ証があると。
「あぁ、染芙」
 服の上から腹をさすり、口付ける。
「愛しいよ。悲しいくらい、今が愛しい」
 雨音は優しかった。焔は染芙と二人しかいない世界を味わう。こんなにも穏やかな気持ちになるのは、生まれて初めてのことだった。心に降る雨は、冷たくもなく、激しくもない。壁を濡らし、地面に広がり、静まり返った。
「君を傷つけたくない。でもどうすれば傷つけずに済むのか、わからないんだ」
「嘆かないで、怖がらないで。傷つけて傷つけられて、それでも、這ってでも生きるの」
 染芙は手袋を脱ぎ捨て、体の上でうずくまる焔の髪を両手で撫でた。髪質は瞬とよく似てやわらかかった。焔は染芙の手を取って、掌を嗅いだ。染料の元になる花の匂いが染み付いていた。隙間なく重ねた夜を思い出す。
「冷たい手。体に障るよ」
 息を吹きかける。染芙の手は湿りながら温もりを分け与えられていく。
「昔、まだ子供の頃に、家族四人で草原まで出かけたことがある。蓮利朱の集落が近くに見えた。瞬は初めて見る草原が嬉しかったみたいで、歩かずに寝転がってばかりいたんだ。父さんは立って歩けって怒るんだけど、いつもみたいに怖くない。母さんも笑ってるだけ。俺は瞬が羨ましくて、あいつの腕を引っ張ったんだ。でも逆に引っ張られて、顔から地面に落ちたよ」
 懐かしさに目を細める。
「土の感触はやわらかかった。草も根も、そこにあるもの全てが優しかった。瞬が笑うから、俺も笑った」
 焔は体を起こして、再び染芙の体に跨り顔を覗き込んだ。
「あいつを守りたいんだ」
 彼女の両手を床に押し付ける。小さな青い光が染芙の前を横切った。異変に身をよじろうとしても、床に縫い付けられたように動かなかった。
「焔、何をしたの。術を解いて」
「染芙、言ってたろ。瞬が鏡を使えるかもしれないって」
「え」
「瞬に鏡を返す」
 焔は短剣を自分の首にあてがった。
「やめて、焔! 一人にしないで」
 必死に体を起こそうとするが、腕も足も指一本すら動かない。首筋を汗が流れた。
「私はどうすればいいの、生まれてくる子に何て言えばいいの! お願い、やめて。お願いだから」
 泣き叫び、髪を振り乱す。視界は涙に歪む。
「愛しいって、言ってくれたじゃない……」
「うん、愛しい。大丈夫、俺は染芙を信じてる」
 染芙の頬に手を伸ばし、焔は彼女の涙を拭う。
「ごめんな。こんな父親で申し訳ないよ」
 笑いながら、焔は短剣を引いた。血が勢いよく散った。痛みに顔が歪む。
「いや! 焔、焔!」
 染芙の頬は焔の血で濡れた。涙も血も混ざって流れていく。焔は首だけで死にきれないのを悟り、短剣を腹に突き立てた。ぎりぎりと歯噛みして、腹を開いていく。
「やめてぇ、もうやめて……」
「染芙、染芙」
 焔は片手を柄から離し、染芙の頬に伸ばした。
「笑って、最後は笑った顔が見たいよ」
 乞われて笑顔を作ろうとするが、泣くことしか出来なかった。しかし焔の目には、はっきりと染芙の笑顔が見えていた。
「あぁ、きれいだよ」
 裂いた腹からは臓腑がこぼれた。床には焔の流した血溜まりができた。
「生きて、生きて、生き抜いて。生きろ、染芙」
 脂と血で膜の張った短剣を、焔は胸に押し込んだ。捻りながら骨を砕く。
「染芙、染芙、染芙。会えてよかった。ありがとう、染芙」
 何度も染芙の名を呼ぶ。声を出すと、口から血が溢れた。
 短剣の先が、鼓動を捉える。焔は前のめりに倒れ、床に体を押し付けた。鈍った刃先が焔の命を引き千切った。
「いや、焔! 起きて……!」
 染芙の体は自由になった。起き上がって、焔の体を抱きしめる。仰向けにして、短剣を抜き去った。吹き出るような血は残っていなかった。
 金色の光が焔の体から浮かび上がる。部屋の中が白く染まるほどの光だった。染芙はたまらず目を瞑る。光は唸りを上げて、一瞬で消えた。
 部屋は再び薄闇に包まれる。染芙の掌には、焔の残した温もりが確かに息づいていた。