THE FATES

interlude.残像(12)

 森の中で結蘭は、未知の力を感じて立ち止まった。
「結蘭様」
 そばに駆け寄った女が訝しんだ。
「何でもない。それより、様子は」
「はい。染芙さんと兄の方が家にいるようです。弟の方は、今しばらく」
「遅い」
「申し訳ございません」
「あぁもう、鬱陶しい雨ね。何をしているの蓉影(ようえい)。早く行きなさい」
 蓉影は片膝をついて頭を下げると、再び木陰へと消えた。
柳剣(りゅうけん)
「ここに」
 違う女が背後に控えていた。
「あなたは染芙の家へ行きなさい。きっと男は死んでいるから、亡骸を回収して。染芙には気をつけるのよ。ただの染色師と思うと、ひどい目に遭うわ。それから男の目。もう駄目だろうけど、念のため取っておきなさい」
「御意」
 頭を下げ、柳剣は音もなく走り去った。入れ替わるように、蓉影が戻る。結蘭は立ち止まり、蓉影を見下ろした。
「弟は、結泉に」
「そう」
 結蘭は満面に喜色を浮かべた。蓉影をその場に残し、彼女は姿を消した。

 雨のように光が降った。瞬は稲光かと思った。
 光が瞬を襲った。押し潰されて、瞬は地面に這いつくばった。体に腕を捩じ込むような衝撃が走る。熱の塊が胸や腹で蠢き、瞬は嘔吐した。涙目になりながら、起き上がる。痛みや苦しみに反して、体は軽くなった。
 瞬は、襲った光に見覚えがあった。兄の持つ龍仰鏡の光も、同じように溢れるような光を伴っていた。
 予感がよぎる。体の奥に、温もりを感じ取る。だが瞬には信じられなかった。
 草が雨音の裏で揺れた。
「誰だ」
 剣を掴み、茂みを警戒する。
「誰かいるんだろう」
 返事をするように、背後の結泉から水柱が立った。
「なに」
 凄まじい轟音を立てて、水は天を目指して駆けた。雲を貫く。雨とともに飛沫が降り注ぐ。瞬は呆然と見上げた。
「あら、お人形みたいね」
 聞き覚えのない声に、瞬は剣を構えて振り返った。水柱は勢いを失い縮んでいく。女が一人、姿を現した。
「誰」
「思ってたより、いい声ね」
 琥珀色の瞳が瞬を捕らえる。女が踏み切ったのと、瞬が駆け出したのは、ほぼ同時だった。放たれる《気波動(きはどう)》を、剣を回して弾く。
「お上手ね、坊や」
 女は人差し指を曲げた。静まったはずの結泉が再び咆哮を上げ、幾つもの縄に縒り合わさる。瞬はそれまでの攻撃が、女の時間稼ぎだったことに気付いた。
「くそ」
 縄はしなりながら瞬に向かって宙を這った。よける余裕はなかった。目の前に縄の先が迫る。
 瞬の体から金色の光が溢れた。手にしていた剣が共鳴して輝きだした。瞬に向かっていた水縄は、光に弾かれ空中で分解した。雨に混じり、地上に降る。
 瞬は剣を見つめて、立ち尽くした。予感は確信に至った。胸元を強く握り締める。確かにここには龍仰鏡があった。だが、信じたくなかった。
 それは兄の死を意味した。
 瞬は顔を上げ、女を見た。口元に指を当て、結泉を見つめていた。顔には金茶色の髪が吸い付いていた。整った顔の女だった。しかし瞬は彼女をきれいだと思えなかった。彼女の瞳は死んでいた。
 女は瞬の視線に反応を示し、強い瞳で睨み返した。
「生意気ね」
「俺のこと知ってるの」
「えぇ。知っているも何も、私は染芙の姉だもの。結蘭よ。よろしく。あなたたち兄弟のことは、あの子から全て聞いてるわ」
 結蘭の唇に、余裕に似た笑みが浮かぶ。瞬は冷静さを欠いた。
「嘘だ。染芙はそんなことしない」
「あの子を過信すると、痛い目に遭うわよ。虫も殺さないような顔して、平気で何でもやるんだから」
 彼女は腕を組み、ゆっくり瞬に近付く。瞬は本能的に警戒して後ずさった。
 頭の中は真っ白だった。目に映るものに現実味を感じられないでいた。嘘だ、何かの間違いだと、否定ばかりを繰り返した。しかし潜り込んだ光の塊が、瞬の気持ちを宥める。生き延びろと瞬を叱咤する。脳裏に、初めてここへ来た日のことが思い出された。
 瞬は結泉を背にして、結蘭との距離を保った。
「いつまで逃げるの」
 苛立って結蘭は言った。瞬は結蘭の様子を観察している。
「目的は龍眼か」
「そうね、それもあるわ。でも本音を言うと、私はあなたに興味があるの」
「え」
 瞬は聞き返しながら、背後の結泉を一瞥する。もうあと数歩で縁だった。
「前に森の中で結界を張ったでしょう。あれ、気に入ったわ」
「だったら、どうするの」
 緊張に瞬の鼓動は高鳴る。口の中はからからに渇いた。
 結蘭は悦びを隠しきれず、粘着質な笑みを浮かべた。
「欲しいものは、手に入れるためにあるのよ」
 結蘭は瞬に向かって地を蹴った。すぐそばに結蘭の顔が迫る。
「こうやってね」
 長い爪の指先が瞬に伸びる。しかし結蘭の手は空を切った。瞬の体が後ろへ傾いでいく。瞬は、笑っていた。
「そんな」
 叫びを上げる間に、瞬の体は傾き結泉へと吸い込まれていった。結蘭が縁に立った時には、瞬が作った波紋さえ雨に紛れて見えなくなった。
 だが落胆には早かった。彼が結泉へ身を投げたのは好都合だった。額の前で指を立て、目を伏せる。水で網を作って、絡め取る。
「逃がさないわよ」
 結蘭の足元から力が溢れ出す。彼女を中心にして放射状に拡散し、雨も寄せ付けないほどに激しい風となった。
 意識を集中する。瞬を探すのに、長くはかからなかった。結蘭は小刀を取り出し、手首を薄く切った。流れ出した鮮血は白い腕を伝い、土に落ちる。結泉の水面を極度の緊張が襲った。彼女の作り出した網が、瞬を捕らえようと躍動する。瞼の裏には、水中の様子が手に取るように映った。水底の瞬に逃げ場はない。結蘭は予感を得て、笑った。
 瞬が振り返る。結蘭は視線が合って、息を呑んだ。深い緑の瞳が、笑ったように見えた。
 水底の窪んだ場所に、瞬が剣を突き立てた。驚いた結蘭は思わず目を開けて結泉を見た。泉は、一切の動きを握られていた。結蘭は驚愕に顔を歪める。
「そんな、馬鹿な……!」
 水は轟音を立てて渦を巻いた。やがて一気に、外へ向かって投げ出される。地面に這うほどの水圧が、地上の結蘭を襲う。とっさに結界を張ろうとしたが間に合わなかった。腕に激痛が走る。目を開けることも叶わない。
「まさか、破られる!」
 傷を付けた腕が、肩から吹き飛んだ。体も飛ばされる。視界の隅に、水に押し出される瞬の姿を捕らえた。彼の体は高く上がり、岩壁の向こうまで飛ばされる。
 体をしたたか地面に打ちつけ、結蘭は気を失いそうになった。だが術を破られた悔しさから立ち上がる。顔には鬼が棲んだ。唇を噛みしめ、岩壁を睨む。
「どこまでも追いかけてやるわ。あなたに安楽が訪れないようにね」
 結泉が平静を取り戻す頃、すでに雨は上がっていた。

 水とともに放り出された瞬は、地面に叩き付けられ悲鳴を上げた。すぐに上から大量の水が降ってくる。水の玉は弾丸のように痛かった。
 雨は、上がっていた。
「早く……」
 逃げなければ結蘭が追ってくる。瞬は軋む体に鞭打って立ち上がると、重い剣を引きずって歩いた。岩で頭を打ったようで、ひどく痛む。だが構っていられなかった。
「どこでもいい、どこか、遠いところへ……」
 足が縺れる。髪を伝う水滴が薄く血色に色付いた。次第に濃くなり額を伝い落ちてくる。何度も何度もたたらを踏み、顔面から地面に倒れ込んだ。額を砂に擦りつけ、息を切らす。
「お願い、僕を……どこか遠くへ……」
 刃を掴んで地面に突き立て、膝を付く。体が熱を帯びる。胸の奥から懐かしさが滲み出た。瞬、瞬、と兄に名を呼ばれた気がした。
 兄の謝罪が詰まっていた。兄の願いに溢れていた。
 生きて、生きてくれ。
 血が目に入り、視界は真っ赤に染まった。
「あぁっ……!」
 瞬は血色の涙を流しながら叫びを上げ、透けるような空を恍惚として仰いだ。
「兄貴……」
 思い出すのは兄の困ったような顔ばかりだった。
 雨を忘れ、空は晴れ渡っていく。雲は逃げるように流されていく。
「連れてって、僕を」
 瞬はゆっくりと倒れ、意識を失った。瞼の裏に、青天が焼きついた。

 草原を南へ向かっていると、草色一色の世界に異色を見つけた。凍馬は馬の首を叩き、とまった。降りて、静かに歩み寄る。近付くと、自分と年端の変わらない少年だった。凍馬(とうま)がそばにしゃがみ込んでも動かない。少年からは生の気配が感じられなかった。
「死んでるのか」
 首筋に触れてみる。少年の体は濡れて冷えていたが、体温が感じられた。脈もある。まだ生きている。
「どうするかなぁ、連れて帰ったら怒られるかなぁ」
 凍馬は、少年の薄茶色の髪を指でかきわける。思わず、少年の顔に見入った。神懸り的な美しさだった。
 迷いは吹き飛んだ。肩に担いで、馬まで歩く。
「重くなるけど、頑張ってくれ。今ならまだ間に合う。助けるぞ」
 凍馬は服を一枚脱いで、少年に被せた。
 地平線は赤く染まった。空には黄や緑が混在した。境目は透明になる。世界が今日も、残像を輝かせて暮れようとしている。
 馬の嘶きが草原に響いた。

interlude-残像・終