THE FATES

10.夢幻(1)

 空の色は目まぐるしく変わった。青から灰へ。灰から黒。そして今また透けるような青になる。それは無秩序な夢の世界そのものだった。
 ランカースの空を見上げて、弓菜(ゆみな)は感嘆のため息を洩らした。街には人影がなく、呼吸の気配もない。生命の匂いのない道端は恐ろしいほどに無機質だった。だが、だからこそ一層美しい空だった。
 大通りへ続く脇道には、靴が片方取り残されていた。大きさから見て、子供のものだった。弓菜は靴の前で立ち止まり、しゃがみ込んだ。踵の潰れた靴は孤独に泣いていた。担いでいた鞄から、大きな鏡を取り出す。
「運が良ければ、相棒見つかるかもよ」
 鏡の表面を掌で撫で、そっと地面に立てる。弓菜を映していた鏡は一度ぼやけたが、ややすると中心から波紋のように曇りは消えた。鏡には、大通りから走ってくる人々の足が見えた。その中に置き去られた靴を探す。悲鳴と爆音が聞こえて、弓菜は眉を寄せた。抱えた籠から、赤や黄の果物が落ちる。それを踏むまいと、飛び跳ねた足があった。
「あった」
 弓菜は鏡を持ち上げる。鏡には、探していた靴が映っていた。鏡を目の高さまで上げて傾けると、黒髪の少年がいた。頬には靴墨の汚れがあった。躓きかけた彼は、荷物を守って無理な体勢になった。その拍子に靴が脱げた。振り返ったが人波に逆らうことは出来ず、またすぐに駆け出した。
「この辺りの子かな」
 顔はしっかり覚えたが、行き先までは追えなかった。弓菜は鏡を指で叩き、この場所に残された記憶の映像を消した。頬杖をついて、靴を見つめる。
「取りに来るかなぁ」
 地響きがして、路地から見える細い空に、砂煙が舞った。
「一体どうなってるの、この街は」
「知りたいなら、大通りを投影してみるといいよ」
 独り言への唐突な返答に、弓菜は鏡を取り落としそうになった。大切な鏡を胸に抱えて振り返ると、分厚い外套を着込んだ男がいた。被った頭巾が邪魔をして、表情は窺えない。
「覗き見だなんて、いい趣味とは思えないわ」
「ごめんね。声かける隙がなかなかなくて」
 男はそう言って笑ったが、弓菜は少しも笑いはしなかった。彼がいつからそこにいたのか、彼女には全くわからなかった。気配が一切感じられなかったのだ。危険な男かもしれない。死角にある荷物を手探りで手繰り寄せる。それを見て、男が被っていた頭巾を取った。弓菜は男の素顔を見て、言葉を失った。彼は絹糸のように滑らかな銀色の髪と、熟れた果実のように真っ赤な瞳をしていた。
「そんなに警戒しないで。俺は君に危害を加えたりしないよ」
「夢でも見てるみたい。あなた魔族なの」
 弓菜は鞄に伸ばしていた手を引っ込めて、ゆっくりと立ち上がった。胸元を落ちる汗の粒が、大きく感じられた。男の現実離れした容貌に、眩暈に似た衝撃を覚えた。
 男は失笑した。
「君はいい投影師だ。想像に歪みがない。非常に理性的だ。聞いたことがある。優秀な投影師というのは、主観と客観、感性と理性、それらの均衡がいいと」
「あと、自分を空っぽにすることも必要よ」
「そうか。それは初耳だ。ちなみに俺は魔族ではないよ。どうぞ、鏡を戻すんだろう」
 にこやかに微笑んで、男は手で促した。弓菜は気が進まなかったが、戸惑いつつ鏡を鞄に仕舞った。
「どうしても、大通りを投影しないか」
 諦めた口振りで男は言った。
「話がしやすいと思ったんだが」
「嫌よ。どう考えても見たくないものが見えそうだもの。そんなの、好んで見なくたって。仕事でもないのに」
「大体、想像はついているんだな。彼らに鬼使が関わっていることも……」
「そうね」
 鞄を担いで、弓菜は髪を首筋に撫で付けた。
「私に何の用」
 弓菜の言葉に棘はなかったが、声は凛として、立ち姿も毅然としていた。男は嬉しそうに口元を歪めた。
「では聞こう。君の指のそれは、薬師傷じゃないのか」
 大通りから爆音があった。不自然な強風が路地を抜けた。弓菜は指先に親指で触れた。薬を調合する際に、器具と摩擦して出来る傷が、いつまでもそこにあった。
「確かにそうよ。それがどうかしたの」
「鬼使が暴走して、誰もが無傷で終わるはずがない。恐れることはないさ。仲間がたくさん周囲にいるから」
 はっきりと口にはしなかったが、男の望みは怪我人の介抱のようだった。男は俯いて、頭巾を被った。弓菜は苛ついて鞄を置き、男の外套を引っ張った。
「そんなに言うなら、あなたが行けばいいじゃない」
「色々と表に出られない事情がある」
「それで私に頼むのね。どうして私のことがわかるの。あなたも投影師なの」
 真下から覗き込んだ男の顔は、昼の陽射しなど受け付けない冷たさがあった。赤い、血のような眼差しが、弓菜の息の根を一瞬とめる。
 男は何事もなかったように、周到な微笑みでやり過ごす。
「人には見えないものが見えるだけだよ」
「変なの」
 弓菜は未練がましく外套に引っ掛けていた指を、背後に隠した。地面に置いていた鞄に手を伸ばす。男が、あっと声を出した。
「変ついでにもう一つ教えてやろう」
 大通りからの騒音はなく、世界はしんと静まり返っていた。
「探し人は、生きてるよ」
「え」
 爪の先に鞄の取っ手がこすれた。弓菜は顔を上げた。
「ちょっと、どういうことよ」
「それは自分自身が一番よくわかってることだろう」
 男は頭巾の位置を確かめて、外套の前もしっかりと合わせた。弓菜は彼をその目で捉えていながら、その存在を認識できずにいた。静かな世界に、頭の中の雑音が響く。記憶の雨音が耳の底でよみがえる。背中が濡れた。弓菜は生まれて初めて、希望という名の怖さを知った。
 空で、薄い硝子が割れるような音がした。
 我に返った弓菜は、路地の奥に消えていこうとする男を呼び止めようとして、名前を知らないことに気付いた。
「ちょ、ちょっと!」
 男は立ち止まろうとせず、肩越しに振り返る。
「あなたの名前は」
 大声を張り上げている自分が滑稽で仕方なかった。弓菜はなりふり構わず駆け出そうとしたが、膝が震えて動けなかった。
 男は頭巾をやや持ち上げた。
比古(ひこ)
 表情に笑みはなかったが、彼の声は微笑みよりも優しく温かみがあった。
 弓菜の上に、金色の砂が降った。