THE FATES

10.夢幻(2)

 手に持った羽根は、見れば見るほど滴るような黒だった。(こう)は付け根を摘まんでくるくると回し、屋敷の周りを歩いていた。
 正面の門は施錠され、裏門の木戸は釘で打ちつけられていた。紅は裏手へ回ると周囲に人の目がないのを確認し、塀を乗り越えた。
 屋敷の裏口の扉は、かすかに開いていた。紅は落ちていた長い棒を拾い、扉を開けた。
「誰かいるか」
 そう呼びかけてから、言葉が通じないことを思い出し、言い直した。それでも返事はない。紅は構うことなく中へ踏み入った。
 引き戸を開けて炊事場を通り抜けると、廊下の先に玄関広間が見えた。玄関扉の上にある明かり取りから、豊かな光が差し込んでいる。宙を漂う埃が煌いていた。紅はあらためて感じる光の多さに感じ入って、遮光眼鏡を額に押し上げた。
 光の落ちる場所へ手を差し出す。手首から先が明るく華やかに照らされた。白く浮き上がる肌の奥に、揺り起こされる生命があった。それは紅自身の生命のもがきだった。狂おしいほどの喘ぎを、紅は冷ややかな新緑の瞳でただ眺めやる。
 本当は、叫び出したいほどの憎悪と激情を持て余しているくせに。
 自らの呪われた血が、冷静を装う紅に嘲笑して言った。悟られてはいけない。この昂ぶりを。この殺意を。この空虚を。紅は強く拳を握って、足掻く生命を捻り潰した。血潮から滲む熱は失せ、全身に無がはびこった。彼の瞳に映る世界は、夢や幻との境目を失った。ため息とともに、ほとぼりの滓がこぼれる。
 首の後ろ側に、風が触れた。
「その棒を捨てて、静かにこちらを向いて下さい」
 男の声だった。紅とあまり年は変わらないように思えた。首筋には、刃から迸る冷気が、触れずとも伝わった。だがそこに、敵意や殺意はなかった。手に持ったままの黒い羽根を思い出す。紅はそれを男に見えるように翳した。
「飛べるって、どんな感じ」
「は」
 戸惑いから、隙が生まれる。紅は握った棒を回転させて背後の剣先を弾くと、体を反転させて次の剣戟から逃れた。だが玄関の段差に躓いて、体が後ろに振られた。
「やべ」
 視界の隅に、刃の輝きが見えた。とっさに棒を脇に抱え込んで、扉と床の接点に支えを求めた。嵌まった瞬間、剣が鼻先に向けられた。だが相手がそれ以上、突き進んでくることはなかった。紅が掴んだ棒の先は、男の喉元に押し付けられようとしていた。
 男の翠緑色の眼差しが、呆然と紅を、紅の新緑の瞳を見つめた。
「えっと」
 刀身に宿っていた冷気は、すっかりぬるくなった。紅は黒い羽根で剣先をつつく。
「そっちが引いてくれないと、俺からは動けないんだけど」
「あ、すみません」
 剣を引いて、鞘に収める。その一連の所作に無駄はない。だが明らかに彼は困惑していた。
『君にしか探せないと思うよ』
 そう言った凍馬(とうま)の真意が、紅にはようやく理解できた。紅は起き上がって棒を捨てると、床に落ちた眼鏡を拾った。
「この顔でそんなに驚くってことは、大体察しがついたと思っていいのかな」
「ええ。ええ、そうですね。とりあえず、あなたが大通りから俺たちを探しにきたということはわかりました。加依です」
 加依は口早に言って、手を差し出した。紅は触れるだけの握手をした。
「紅だ」
 眼鏡をかけて、世界との距離を取る。他者に全てを見せないことで得られる安心感は、何ものにも代えがたかった。
「もう一人いるんだろう」
「はい。あの部屋に」
「あ、そ」
 紅は羽根を弄びながら、指された部屋へ歩き出した。だがすぐに加依に肩を掴まれ、引き止められる。服越しに伝わる人の体温に、恐怖する。紅は激しく加依の手を払いのけた。
「何だよ」
「あの、行く必要がありますか」
「は?」
 眼鏡を外して、加依を睨みつける。だが加依は女のように涼やかな顔立ちをして、少しも動じなかった。
「休ませてあげたいんです」
「ちょっと確認するだけなんだけど」
「それでもです。あなたのその姿は、今の彼女には酷かもしれない」
 加依の言葉に誇張は感じられなかった。紅は整った顔を歪めた。
「そんな風に思わせるほど、似てるんだ。俺、見たことないからわかんないんだけど」
「まぁ、基礎の部分は」
「いいよ。そっちの言い分はわかった。でも俺にも俺なりの意地がある。いくら押し付けられた仕事でも、やるからには完璧がいい」
 紅の体の奥で、血がざわめいた。子供じみた意地だとはわかっていた。だがそれでも譲りたくなかった。一つの失敗ですら、未来の光を搾り取るほどの力を持っているように思えた。
 加依は紅の真意など気にせず、不快げに眉を顰めた。
「だったら、俺のことを見たらどうですか。そうすればすぐに確認なんて取れるでしょう。気は進みませんが、玲妥を巻き込むくらいなら」
「見るって、何を」
「あなたなら出来るんじゃないのですか。波長を合わせて相手の素性を知ることなど、容易いのでしょう」
「そんなことが出来るのか。あいつは、そんな無茶なことをしたのか」
 紅の頬は、陶器のように青褪めた。
「いいえ。彼は意図してそんなことは」
「だったら、俺もしない」
 紅は加依の言葉を遮って、押し殺すように呟いた。
「どうして、どうしてみんな、そうなんだ……」
 続けて洩れる言葉は、加依には通じなかった。ぼんやりと、紅の苦悶を見つめる。
「あの……」
 呼びかけが、紅に届いている風ではなかった。
 紅は幼い頃から味わい続けてきた孤独感に苛まれた。
「どうしてそんなことを信じられる。どうして盗み見られたと考えない。騙されたと憤らない。どうして。あんな男を、どうして」
 突き抜けた激情は、紅の心に却って静寂を呼んだ。紅の声は体温を知らない機械のようだった。
「どこに信じられる根拠があると」
「会えば、わかりますよ」
 加依は微笑んだ。優しさや思いやりとはかけ離れた、勝ち誇った笑みだった。
「彼の持つ哀しみに、彼の真実が見えることでしょう」
「くだらねぇ」
 紅は持っていた黒い羽根を指で弾いて見上げた。付け根の重みに引きずられて墜落する羽根は、紅の目に愚かに映った。飛べるはずなのに、一片では何も出来ない無力。群れなければ存在意義すら失ってしまう羽根に、紅は自らの孤独を重ね見た。
「残念だけど、俺にはそんな魔法みたいなこと出来ないんだよ」
 力尽きた羽根は、光の射さない床に落ちた。音もなく、影を持つこともなく。
「出来たなら、すでに見られてると思っていいよ」
 もし全ての連なりが夢だったとしても、紅の抱いた感情は全て現実味のある痛みを伴っていた。
 諦めが、彼の微笑みを引き出した。

 加依の目に優しさと映った紅の微笑みは、一瞬で砕けて剥がれ落ちた。奥からは紅の無音の叫びが聞こえた。加依は彼に自分と同じ匂いを嗅ぎ取った。
 背後の扉が、音を立てて開いた。隙間から玲妥が顔を覗かせていた。
「玲妥」
 加依は彼女へ歩み寄って、彼女から紅の姿を隠そうとする。玲妥は怪訝に加依を見上げた。
「ねぇ、誰。喧嘩してたの」
「心配しなくていいですよ」
 向こうを覗きたがる玲妥の肩を押して、部屋に返そうとする。
「そうだよ。喧嘩してたんだよ」
 声に驚いて振り返ると、すぐ後ろに紅がいた。眼鏡が彼の新緑の瞳を隠している。加依はひとまず安堵した。
「冗談を。玲妥は何も気にしなくていいですから、休んでいてくださいね」
「どこから来た人。聞いたことのない訛りね」
「訛り?」
 加依は無能にも繰り返し、紅を振り向いた。紅は薄い唇を歪めた。笑っている。
「鋭いね。だからあの場から引き離されたんだ。そんで加依は、更に俺からも遠ざけようとするんだ」
 紅は加依の体を押しのけて、玲妥を見下ろした。
「そんな風に守ってもらえるなんて、君は幸せだね」
 腰をかがめて、玲妥と視線の高さを合わせる。玲妥は真っ直ぐ、彼の眼鏡の奥を見つめた。
「そうなのかな。私は守ってもらわなくてもいいように、もっともっと大人になりたいって強く思うよ。足手まといになりたくないもの。だから今が歯痒い」
「玲妥……」
「羨ましいなぁ。俺も、そんなこと言ってみたいよ」
 力なく言い捨てて、紅は眼鏡を外した。玲妥は眉一つ動かさなかった。
「お前たちには想像つかないだろう。守ってもらえる期待すら出来ない、この顔に生まれついただけで背負わされた宿命なんて」
 静かに語る紅に、誇張は感じられなかった。加依は慰めの言葉を探したが、思いつかずに機を逃した。
 玲妥は紅の頬に手を差し伸べた。
「いいじゃない。私こそ羨ましいよ。こんなにきれいな顔に生んでもらえたら、毎日鏡を見るのが楽しそうだもん」
「はぁ?」
「この髪の色もいいね。瞳の色とよく合う」
「ちょ、ちょっとお嬢ちゃん。この顔見て、何とも思わないわけ。怖いとか、似すぎて気持ち悪いとか」
「別に」
「なんで」
「だって、どんなに造作が似てようが、人は自分でしかありえないもん。誰の代わりもできないし、誰のせいにも出来ないんだよ」
 玲妥は満面に笑みを浮かべて、紅の頭を撫でた。
 紅は泣くようにして笑った。
「なぁ、加依。お前の危惧も俺の意地も、この子には関係ないみたいだぜ」
「ええ。そのようですね」
「な、何の話よ」
「内緒」
 紅は眼鏡を服の胸元に引っ掛け、玲妥に手を差し出した。玲妥は頬を膨らませながらも、彼の手を取った。
「紅、貴宮(あつみや)紅だよ。よろしくね」
 彼女の手は、思わず守りたくなるほど小さくやわらかかった。