THE FATES

10.夢幻(4)

 剥き出しになった瞬の背中に、赤い文字が絵画のように描かれた。それは羅依には判読できない文字だったが、彼の白い肌には血色がひどく映えた。古傷の引き攣れた部分すら、艶めき美しかった。
 指に、触れるものがあった。辿ると由稀の手だった。彼は薄く目を開けて、笑った。唇から覗く歯は、赤く塗られていた。
「良かった、お前が無事で」
「お前の方が死にかけじゃねぇか。ばか」
「そっか。そうだな」
 乾いた声で笑い、由稀はまた眠った。羅依は彼の手を握り締めた。
「由稀……」
 羅依は何度も見たことのある由稀の寝顔を覗き込む。頬や唇が引き締まり、まるで違う男のようだった。持っていた清潔な布を水で濡らし、顔の汚れを拭いてやる。
「ごめんな。お前一人をこんな傷だらけに」
 囁きに、由稀は瞳を閉じたまま微笑む。羅依は握っていた彼の手を胸に抱きこんだ。思えば、この手も大きい。背の高さも追い越されたかもしれない。悔しさがないでもなかった。だが、彼がいなくなってしまうことに比べれば、なんと些細なことだろうか。
 幼い頃から、友達に憧れていた。村から離れた森の奥で、隠れるように暮らしていた羅依には、友達がいなかった。母を喪い賞金稼ぎになってからも、周りにいるのは全て敵ばかりだった。信用や、信頼や、友情や、親愛や。そういう関係は、一生望めないと思っていた。
 利害でなく、血縁でもなく、出会いが生み出す関係に、羅依は純粋なる愛情を見ていた。
 繋がった手を介して、由稀の生が染み込んでくる。あたたかい手だった。彼の無防備な寝顔に、羅依は彼からの信頼を嗅ぎ取った。
 耳に、凍馬の謡が聞こえた。瞬の背中に手を翳し、低い声で文言を連ねている。抑揚に合わせて、血の文字が躍った。強い風が瞬の薄茶色の髪を、好き勝手に乱していく。
 肩越しに瞬が振り返った。目が合う。逸らせない。羅依はその深緑の瞳に、息も瞬きも思考も理性も意地も過去も、全てを優しく奪われた。抱いたことのない感覚に怯え、羅依は縋るように由稀の手を強く握った。
 凍馬が両手で印を結んだ。背中の血文字が動きをとめ、瞬の背中に溶け込んでいく。痛むのか、瞬は顔を歪めた。
「いい夢を」
 そう言って凍馬が印を解くと、風はやみ、瞬は意識を失って倒れた。
 道の向こうから、亜須久が迎えに行った馬車が到着した。

 路地から大通りを窺う。だが、一歩を踏み出す勇気が出なかった。弓菜はその場で竦んでしまった。ここに満ちた《気波動》は、その残骸に触れるだけでも肌が切れそうだった。真正面から対峙すれば、気が触れてしまう。結界がなくなったとはいえ、どちらにしろ弓菜には立ち入れない世界だった。
「どうやってここで役に立てっていうのよ」
 弓菜は先ほど出会った比古のことを思い返して呟いた。舗装のめくれた地面には、比古の瞳と同じ血色の染みが散っていた。遠目には、ばら撒かれた花びらのようだった。
「どうしよ」
「あれ、弓菜やないか」
 聞き覚えのある声と訛りに振り返ると、不破(ふわ)がいた。握り締めていた掌から、自然と力が抜けた。
「どうしてこんなところにいるのよ。宮殿まで行ったんじゃなかったの」
「あ、行ったで。のんびりしてたんやけど、事件やゆうからついてきてん」
「悠長ね」
「なんや。自分、びびっとるんか」
 不破はにやりと笑った。弓菜は整った眉を歪め、半ば睨みつけるように不破を見た。
「なによ。平気なの」
 大通り沿いの建物には、跡形なく崩れているものも少なくなかった。整備されていたはずの舗装も、無残に掘り返され、結界の中にあった場所だけが明らかに廃墟と化していた。
「あー」
 不破は周囲を見渡して、間抜けな声を出した。
「なんていうか、慣れてしもたわ」
「は。慣れるものかな」
 呆れた弓菜はその場に鞄を下ろした。
「ある人にね、大通りで出る怪我人を介抱してやってくれって言われたのよ。でもとてもじゃないけど、こんなに濃い《気波動》の中に飛び込むのは躊躇われるし、そもそも、あんまり私の出番でもなさそうだしね」
「ある人って」
 問うたものの、不破は耳をそばだたせて、大通りの道果てを見遣った。
「なによ、どうしたのよ」
「馬車や」
「まだ見えないけど」
「もう少ししたら来るわ。ほんで、ある人って」
「わかんない。比古って名乗ったけど、本当かどうかわかんないし。銀色の髪に真っ赤な瞳だったから、魔族かと思ったんだけど違うみたいだったし」
 間近に見た比古の瞳は、弓菜の脳裏に未だはっきりと思い出された。彼が泣いたら、血の涙が出るかもしれない。そんな狂気染みた想像がよぎった。
「頭大丈夫か。それで魔族ちゃうかったら、何やねん。なんか幻でも見たんちゃうんか」
「馬鹿にしないでよ。本当に会ったんだから。私があんなにいい男を、幻と見間違えるはずないんだから」
 弓菜の言い分は、不破には理解できなかった。
 弓菜は爪で指先をこすった。そこには小さな傷があった。
「大体、これに気付く人なんて、そんなにいないのに」
「なんの話や」
「ううん。なんでもない」
 大通りに馬蹄と車輪の響きがあった。覗くと、馬車が見えた。大通りから溢れていた《気波動》も先より落ち着いていた。弓菜と不破は馬車へ向かった。怪我人を運び込むのを手伝い、自分らも乗り込む。三台に分乗し、車の中には二人だけだった。窓から外を覗くと、軍服の女が一人立っていた。
「あ、葉利(はり)
「残って後処理に回ってくれるみたいやで」
「そっか」
 弓菜は葉利に手を振ったが、彼女は気付かない。馬車が動き出し、あっという間に窓から葉利の姿は消えた。弓菜は足元に置いた鞄から鏡を取り出し、前髪の乱れを整える。
「出た。まな板」
「うるさいわね」
「投影師の鏡って、もっと神聖なもんちゃうんか」
「神聖だからこそ、こうやって私を映すの」
 弓菜は得意げに顎を逸らした。
「はぁ。あかん、ついていかれへん」
 不破は力ない手を振って、天を仰ぐ。弓菜は構わず化粧を直した。
 唇に色を差し、普段の呼吸を取り戻す。小指に残った紅を見て、昔見た夕焼けを思い出した。記憶の景色は、思い返すたびにその色合いを変えた。その変化に恐れたこともあった。全てを失う気がして、変化の原因や変遷を飽きるほど自問した。だが今では、変化を恐れるどころか、そもそも変化に気付かない。違いを探そうという目がない。あの頃に比べて、謎やわだかまりに対して淡白な自分がいた。
『君と仕事をしていると、世界の全てを知った気分になるよ』
 そう言って優しく微笑んだ男は、さらにこう続けた。
『でも同時に、何も知らないことを知ってしまうんだ。おかしな話だね』
 掻き乱されている。
『探し人は、生きてるよ』
 比古の言葉が、夕焼けを過去の有り様に近づけていた。差異を埋めるのは、自分の勇気のみだった。
 横目で、不破を盗み見る。無性に彼の夕焼けが知りたくなった。
「ねぇ、不破はどうしてこの話に参加したの」
「なんやねん、突然」
「私は投影師の募集で神殿まで行って、青竜(せいりゅう)に声かけられたんだけど。みんなはどんなきっかけがあったのかなと思って」
「ほな、他のみんなに聞けや」
「まぁ紫月(しづき)がいるけどさ。他は葉利も世維(せい)も軍人でしょ。最初から接点があるじゃない。でも不破は情報屋だったんでしょ。想像できないのよね、始まりが。なんかせこい情報を売りに行って、その怪しさから拘束されたとか」
「あほか。人を馬鹿にすんのも大概にせえよ」
 そう言うと不破は荒々しく足を組み、頬杖をついて景色を眺めた。弓菜は一瞬怯んだ。
「怒った」
「いいや」
 馬車の小さな窓から不破は空を見上げる。弓菜は精悍な彼の顎に、思わず目を奪われた。すぐに我に返り、非日常が見せる幻想の強引さに驚く。
 不破は空から目を逸らし、短く切った髪を撫でた。
「俺はな、捕まりに行ってん。ネリオズ宮殿に」
「は」
 思いも寄らない話の展開に、弓菜は口をぽかんと開けた。不破は横目に弓菜を見る。
「そんなあほみたいな顔しなや。美人が台無しやで」
「捕まりに行ったって、どういうことよ。潜入したってこと? それも潜まずに」
「まぁ、そうやな」
「なんでそんなこと」
「俺な、帯都(たいと)帝に会いたかってん」
「アシリカ皇帝に?」
「そう」
 不破は尖った八重歯を見せて笑った。
「ヒクスで情報屋の仕事してたとき、初めて帯都帝を見た。震えたで。あれが男惚れってやつやと思うわ。俺、この人がおる近くで働こう思てん」
「そう、なんだ」
 熱情の篭った不破の口振りに、弓菜は戸惑いを隠しきれなかった。
 一度だけ謁見の機会を得て目にした帯都帝は、弓菜にとってそれほど印象深い人物ではなかった。顔立ちも、振る舞いも、滲む雰囲気も、全てが凡庸に思えた。世間で噂される政治手腕とは、到底結びつかない人物だった。
 弓菜から見た不破は、口が悪くうるさいが、心根は優しく気の利く男だ。また情報屋をしていたことで洞察力があり、内に秘めた野心のようなものも感じられた。
 まさかそんな不破が帯都帝を見て惹かれるとは思えなかった。むしろ彼が嫌う部類の男だ。
「それで、帯都帝には会えたの」
「そん時は無理やったけど、青竜から伝説の話持ちかけられて参加してからは、何回かおうたで。報告絡みやからほんのちょっとやけどな」
「だったら、良かったじゃない」
「ああ。幸せだよ、俺は」
 そう呟くと、不破は口元だけで笑った。弓菜にはそれがひどく場違いな表情に感じられた。逃げるように、持ったままだった鏡を鞄に戻す。馬車がとまるまで、二人の間に再び会話が交わされることはなかった。