THE FATES

10.夢幻(5)

 馬車から降りて見上げた空は、日常を取り戻していた。大通りからさほど離れた場所でもないというのに、平穏が世界を占めていた。
 平和など、戦争と紙一重だった。
 羅依はそれまで膝にあった由稀の頭の温もりを思い返す。目に映る穏やかな世界は信用できなくとも、確かにあった体温は信じられた。羅依は、由稀を抱えて前を歩く亜須久の背を見つめて、全身を襲う倦怠感と、かき切った汗に気付く。張り詰めていた心が、ようやく途切れた。
「羅依」
 加依の声がして、頭を撫でられた。
「大変でしたね」
「あたしなんか。みんなの方が、もっと。そだ、兄貴。玲妥は」
「大丈夫。羅依より落ち着いていますよ」
「そっか」
 羅依は兄の笑顔を見て安心した。
 加依の誘導で馬車が連れられたのは、周りの民家より際立って大きな屋敷だった。門の奥には前庭があり、今はそこに馬車が三台とまっている。芝生は荒れ、人が住んでいる様相ではない。屋敷の屋根は、やや濁った青灰色をしていた。
 加依のあとについて、屋敷に入る。玄関広間は明かり取りからの光に溢れて、正面には二階へ続く階段があった。絨毯は所々にほつれがあったが、色はきれいな青灰色だった。
「誰もいないのか」
「みたいですよ」
「庭に比べて中はきれいだな」
「最近まで誰かいたのかもしれません」
「うん」
 階段の手すりを撫でて、羅依は小さく頷いた。複雑な細工が施された手すりは、目立った汚れもなく艶やかだった。掌に当たる凹凸が心地よかった。
 初めて鬼使と会った夜が思い起こされた。足の踏み場もないほど、人が物のように転がっていた。立ち込める血と死の臭いに、理性が現実を拒絶した。足元は流れる血でぬかるみ、肉が行く先を阻み、服の裾は飢えた獣のように血を啜った。だが、ただ一点、鬼使の周りにだけは清浄が満ちていた。
 今、その記憶が歪められていく。人形のように白い鬼使の肌に、血の雨が落ちる。真っ白な服は赤く染まり、彼の足元は血溜まりが出来た。腹には大きな太刀が突き刺さり、秀麗な顔が痛みにひずむ。薄い唇が助けを求める。羅依は躊躇わない。差し伸ばされた手を、幻想の中で掴み取る。触れ合った彼の手は艶やかで、滑らかな凹凸があった。そして、冷たい。
「二階、行きますか」
「え」
 羅依は知らない間に俯いていた顔を上げた。加依がやわらかい笑みを見せる。
「顔に、気になるって書いてますよ」
 幻想はすぐに立ち消えた。だが情感は粘つきながら残った。羅依は火照る頬を拭って、顔を逸らした。
「だ、誰のことが気になるってんだよ」
「さぁ。俺にはわかりませんが」
「だったら変なこと言うなよ。それに、あたしなんかが行ったって何にも出来ないから、いいんだ」
 言って、また俯く。加依は羅依の肩に手を置いた。羅依は掌をこすり合わせて、手すりの木の感触を追い出す。
「なぁ兄貴。あたし、どう足掻いても瞬には勝てないのかな」
 羅依は声を震わせて苦笑いを浮かべた。
「あいつを倒すことだけ考えて過ごしてきたのに、どうしてだろう、今は違うんだ。あいつのこと考えてても、今日は元気ないなとか、あいつの煙草の香り好きだなとか、見た目より力あるんだなとか……」
 そこまで言って羅依は、耳まで真っ赤にした。
「あ、あの、やっぱり今の無し! 無しだから!」
 加依の服を掴んで、前後に激しく揺らす。
「わ、わかりました。聞かなかったことにしますよ」
 加依は揺れに酔いかけて承諾した。羅依は頬を染めて唇を噛む。羅依自身、自分の口から出た言葉に驚いていた。
『現実より怖い夢は、見ないよ』
 彼の眼差しが、あまりに寂しげなのがいけない。鬼使の首を奪おうとする自分が、まるで罪人のように思われてしまう。
 冷たくて優しい。強くて弱い。彼は美しい顔の下に、相反する力を秘めていた。瞬のことを、もっと知りたい。そう思い、探るほどに、羅依の足はぬかるみに取られた。
 憎しみだけで繋がる、そんな関係でよかったのに。
「ねぇ羅依、許すというのは素敵なことなんですよ」
「許す……?」
 淡紫色の瞳は虚ろに沈んだ。胸の奥で二つの思いがせめぎ合う。憎悪と、それとは正反対の何か。羅依は躊躇いがちに口を開いた。
「瞬の体から流れる血が怖かった。死んじゃうんじゃないかと思って」
「さっき少し見ました。あんなに血の気のない顔を見れば、誰だって心配になります」
「目の前に鬼使が現れたときより、ずっと、気が触れそうだった」
「それでいいんですよ」
 加依は羅依の髪についた汚れを払って落とす。その眼差しに、羅依は兄の優しさを感じ取った。
「憎しみ続けることで生まれるのは、空虚な世界です。激しさが行き過ぎて、飽和状態になるような。そしていつか自分もその世界に飲み込まれていってしまう。外側にあった、空虚に見えていた世界が、自分の内側にも広がっていくんです。だったら憎悪なんて捨てればいいのに、手放せば自分の全てが空っぽの世界に取り込まれるような妄想に襲われる。悪循環どころじゃない。何か絶対的な存在による悪意ですよ」
 変わらぬ優しい視線に、羅依は掴み所のない恐怖を覚えた。加依の言葉と表情には、明らかな齟齬があった。
「兄貴には、そういう経験があるのか」
 怯えながらの問いに、加依は破顔した。
「嫌だな。一般論ですよ」
 加依の笑顔は、自分と双子とは思えないほど羅依の目にきれいに映った。だがそれは、立ち入ることを拒むような、無機質で、不自然で、型に嵌まった、作られたきれいさだった。笑顔の裏を想像させないための、笑顔の幻だった。羅依は兄の憎悪を想像して、実は彼のことを何も知らないことに気付いた。
「あのさ、兄――」
 羅依の言葉を遮るように、真横の部屋から物が倒れるような音がした。二人は顔を見合わせる。
「もしかして、ここに住んでる人かな」
「まさか、そんなはずは」
 そこまで言って、加依はあっと声を上げた。
「忘れてました。紹介するのを」
「え」
 羅依は加依に強く腕を引かれた。
「彼を見たら、きっと驚きますよ」
 振り返った兄の顔には、生身の笑顔があった。何を見せられるのか怖い反面、羅依は深く安堵した。
 加依が扉を開けると、中から清涼感のある煙が染み出てきた。壁一面の大きな窓から光が忍び、天井を這う煙は青く照らし出された。低い卓上の灰皿には、火のついた煙草が寄りかかっている。
 卓と長椅子の間には、人影があった。頭を押さえてうずくまっている。
「何してるんですか、紅」
 加依の問いかけに、呻きを返す。
「見りゃわかるだろ。落ちたんだよ」
「どこから」
「椅子から」
「寝ていたんですか」
「悪いか」
「寝煙草はよくないですね」
「何の説教だよ」
 紅は頭を押さえて起き上がる。卓や椅子の陰から、派手やかな橙色の髪が見えた。
「騒がしくなって、玲妥ちゃん飛び出して行ったけど、一段落ついたわけ」
「さぁ、上に行ってしまいましたから。詳しいことは」
「あ、そ」
 そっけなく呟いて、紅は火がついたままの煙草を持って立ち上がった。形のいい薄い唇に咥えて、欠伸を噛み殺す。年頃は羅依と変わらないようだったが、伏し目がちの横顔はやや大人びて見えた。
 紅が羅依の存在に気付いた。
「あれ、加依と同じ顔がいる」
 眼差しが羅依を捉える。煙の向こう側にある、新緑の瞳が羅依の心を強引に引き止める。羅依は加依の腕を振り払い、数歩下がった。紅は片目を眇めて羅依を見つめる。
「いくらなんでも、そこまで逃げなくてもいいんじゃねぇの」
「羅依、大丈夫ですか」
 肩に触れる加依の手を、鋭く弾く。羅依は現実に戸惑い、小さく首を振った。
「瞬……」
 掠れた羅依の呟きに、加依は息を呑んだ。彼女の感性を甘く見ていた。
「何言ってるんですか。瞬はさっき上に運ばれていったじゃないですか」
「そう、だけど」
 目を逸らしたいと思っても、羅依は紅の顔立ちに釘付けになった。余計な肉のない頬、薄い唇、通った鼻筋、髪の一本一本まで、瞬とよく似ていた。何より彼の緑の瞳は、光を遮り深く揺れるさまがそのものだった。
 紅は踵の潰れた靴を床に擦り付けながら、羅依の前まで近付いた。背の高さは羅依とさほど変わらず、目の高さも同じくらいだった。
「なに。わけあり」
 声は瞬より高かった。羅依は心の中で首を振り、幻想を打ち消す。
「別に。関係ないし」
「ほんとかな。だったら、この顔見てそんなに驚かないだろ」
 にやりと笑う本質に、羅依は瞬との決定的な違いを見抜いた。いくら顔の造作が似ていようとも、ただそれだけに過ぎなかった。さらに、溢れる光の中で見る紅の瞳は、瞬よりも色が浅く、恐れを感じるほどの奥行きはなかった。
「型枠があんまり似てたから」
「なんだよ、型枠って」
「単なる顔の造作だよ」
「へぇ。驚いてたわりには、ちゃんと細かいところ見てるんだ。なに、あいつの女?」
 羅依は衝動的に紅の胸倉を掴みあげた。怒りと羞恥が、噛み締めた歯の隙間からこぼれる。
「そんなにむきになるなよ」
 睨み付けても、紅は平然と視線を逸らした。
 短くなった煙草の煙が、目に沁みた。紅は眉を歪めて、煙草を手に持った。
「羅依」
 加依に促されて、羅依は紅から手を離した。紅は何事もなかったように部屋に戻り、灰皿で煙草を消した。
「別に、あいつの女だろうと何だろうと、俺には関係ないんだけどさ。とりあえず、あいつとは似てないから、俺」
 紅は肩越しに振り返った。
「あんな無責任な男と一緒にされたくないし」
「無責任……?」
「茜を一人にした、無責任な男だよ、あいつは。世界で一番最低なやつだ」
 生き写しのような整った顔に、初めて彼固有の感情が乗り移った。羅依の中にかすかにあった瞬の幻影は、一瞬で吹き飛んだ。
「お前こそ、瞬の何なんだよ」
 羅依は紅を追い、彼の腕を後ろから掴んだ。紅の腕の筋肉が震える。
「ついにその質問か」
 やんわりと羅依の手を振りほどき、紅は口の端を歪めるようにして上げた。
「あいつは、俺の父親だよ」
 自虐的な新緑の瞳が羅依を見た。
 煙草の残り香は、切れ味が鋭い刀のようだった。羅依は喉が痺れていることに、少しして気付いた。

10章:夢幻・終