THE FATES

11.孵化(2)

 廊下に出た亜須久は深いため息をついて壁に凭れた。緊張から解放され、鼓動が大きくなる。一気に汗が吹き出た。目を閉じると、瞼の裏に無残な街の光景が迫った。
 幼い頃から、自分がいかに無力であるかを散々味わってきた。それはいつも手が届きそうで届かない、もどかしさを伴っていた。だからこそ悔しさに濡れ、乗り越えられる強さと冷たさを求めた。
 だが今回は違った。鬼使の強さに絶望的な格差を感じた。その場にいることも許されず、結界の外に弾き出された。無力どころではない。存在の否定だった。亜須久は口元に歪んだ笑みを浮かべた。
 鬼使になら、世界を握り潰すことも可能に思えた。意志も、夢も、嘆きも、人が抱く様々な情感や未来を無視して、あの整った微笑みで人々の営みを消し去るのだろう。そしてそれこそが、亜須久の中にある鬼使の偶像とぴったり嵌まった。
 森の中で初めて瞬を見たときに感じた違和感が、今ようやく溶解した。彼は確かに鬼使だった。だが鬼使とは、瞬を守るための固い殻の名前だったのだ。本当の彼は殻に守られた、愁いを帯びた一人の男だ。
『何が大切かはよく考えろ。欲張れば』
 橙亜で瞬が言い淀んだ言葉の先に、亜須久は自信を持つ。直観は間違っていなかった。瞬は優しすぎるがゆえに、鬼使を生んだ。
 廊下の突き当たりを見つめる。瞬が運ばれた部屋がある。前まで近付き、逡巡する。
 彼に聞いてみたい。おまえは大切なものを守れたのか、と。人を遠ざけようとする瞬の孤独は、却って人を惹きつけた。
 見つめていると、扉が中から開いた。黒髪の女が出てくる。すぐそこに立つ亜須久を見上げて、首を傾げた。
「入るところだった?」
「あ、いえ」
 亜須久は小さく首を振って、部屋から出てきた彼女に道を譲った。扉を静かに閉めて、亜須久に微笑みかける。
「尋宮茜です」
「夜上亜須久です」
 差し出された手を取り、軽い握手をする。すぐ近くで見る茜は、亜須久とさほど年が変わらないように見えた。だが彼女から滲み出る雰囲気は、見た目にそぐわず大人びていた。
「青い髪の子は」
 茜は扉を見つめて言った。
「由稀ですか。今、治療中です」
「そう。大事にならなければいいけど」
「きっと大丈夫です。それより瞬は」
「あのくらいで死ぬ人じゃないわ」
 振り返る髪の揺れ方が、愛した人によく似ていた。亜須久は彼女がよみがえったように思えて、つい目で追う。茜はそれを亜須久の小さな怒りと勘違いした。
「ごめんなさい。こんなことになってしまって。巻き込んでしまって」
 祈るように手を組み、悲しい微笑みを浮かべる。
 亜須久には返す言葉が見つからなかった。許すにしても責めるにしても、知らないことが多すぎた。
「きっと瞬は、皆さんに何も話していないのでしょうね」
「そう、ですね」
 そう言って、亜須久はすぐに後悔した。彼女が言うよう、確かに瞬は自分のことを何も話さなかったが、最近では無理に聞き出そうとする者もいなかった。必要があれば話してくれると、だれもが瞬を信じていた。そもそも知らないことの弊害をあまり感じられなかった。
「彼、ここへ来てから、どうでした」
「そうですね」
 亜須久は瞬と初めて会った日から今日までを思い返す。
「常に何かに追い詰められているようでした。それが何かはわかりませんが、すぐに排除できるような生易しいものでないことくらいは、想像できました。体調もあまり芳しくないようで、何度か血を吐くのを見ました」
「見られて、瞬は嫌がったでしょう」
「そうなると思って、何も言いませんでした。子供じゃないですし、何かあれば彼から言うだろう、と」
 茜は声を潜めて笑っていた。彼女の濃紺の眼差しは真っ直ぐで、人を寄せ付けない気高さがあった。
「まるで子供よ。彼は」
 澄んだ声には、冷徹と愛情が綯い交ぜになっていた。
 子供の頃、母が仕事で疲れて帰ってきた日は、決まって遅くまで酒の相手をした。母は酔うと、父のよれた上着を見つめて幸せそうに微笑んだ。亜須久は茜の横顔を見て、急にそんなことを思い出した。
「あなたは、どうして瞬から離れたんですか」
 言ってから、亜須久は息を飲み込んだ。
「すみません。突然失礼なことを」
 慌てて頭を下げる。
「ううん。いいよ。そうだよね、そう思うよね。私も、そう思う」
 俯くと、肩の後ろから胸へ黒く艶やかな髪が流れ落ちた。
「私、天水王家の人間なんです。天水王でした」
「え」
 亜須久は天水の事情に詳しいわけではなかったが、天水王家と龍羅飛が仇敵同士であることは理解していた。
「先王である父が亡くなり、私が天水を治めることになったとき、瞬は天水を出て行きました。引き止めたかったし、引き止めればよかったと後悔しています。でも私には今でも、瞬と国を両立させる自信はありません」
 茜の瞳は強かった。彼女の強さで満ちていた。それを見てしまっては、亜須久は彼女の自信のなさを、弱さだと責めることは出来なかった。天水や龍羅飛を知らない亜須久には計り知れない、周囲の圧力や、覆せない歴史があるのだとしたら、安易な返事はできなかった。
「私には選択肢がなかった。いいえ、選択肢がないと思い込んだ」
「瞬が、そうしたんですね」
「よくわかるのね」
「なんとなく、ですが」
「相変わらず、卑怯な人なのね、彼は」
 茜の視線が、動くものを追って横に逸れた。亜須久も追って振り返ると、扉の隙間から玲妥がこちらを窺っていた。
「おいで」
 呼ぶと玲妥は部屋から素早く出てきて、亜須久の体にしがみついた。
「なんかちょっと怖い治療が始まったの。見てられないから出てきちゃった」
 言いながら、玲妥は亜須久の服を引っ張り、目顔で茜の紹介を求めた。亜須久は玲妥を茜の前に出し、頭の上に手を置いた。
「玲妥、挨拶」
「うん。あの、玲妥です。この扉の向こうにいる由稀とは、兄妹になります」
「茜です。天水から来ました。玲妥ちゃん。優しい名前だね」
 茜は玲妥の高さに合わせて腰をかがめ、握手を交わす。
「本当にごめんなさい。お兄さん、ひどいことになってしまって」
 繋いだ手にもう一方の手も重ねる。玲妥は首を一振りして、茜を見上げた。
「相手が由稀でよかった。そうじゃなかったら、きっと……」
 玲妥は言葉の続きを濁して、茜から手を離した。手探りで、背後の亜須久の服を掴む。
「起こってしまったことは、もう消せないから、茜さん、せめて一つだけお願い聞いてくれる?」
「うん」
 慈悲深い濃紺の瞳が微笑む。その表情は一人の女性である前に、王という肩書きのものだった。
 玲妥は亜須久の服を強く掴んだ。
「彼を一人にしないであげて」
 茜の頬が凍った。玲妥はそれに気付きながら続ける。
「きれいなのに、きれいだから余計にすごく痛々しいの。瞬と一緒にいると、時々とっても悲しくなるわ。私たちには何にもできないから、もどかしい。つらいよ。瞬だって幸せになりたいはずだもん。知ってるよ、瞬がとても優しいこと。あんなに優しい瞬が寂しくて死にそうになるなんて、そんな世界、おかしいよ」
 服を握る手が、白くなる。亜須久は玲妥の怒りの発露を初めて見た。茜は膝を折って、玲妥を抱き締めた。
「うん、わかった。約束するよ」
 亜須久は茜が泣き出しそうになったのを、じっと見ていた。