THE FATES

2.偽装(3)

 宿の広間は沈む陽光に赤く染まっていた。白い壁が自ら輝いているように見えた。亜須久は宿の受付で手配を済ませて食事をとると、広場の長椅子でずっと雑誌に目を通していた。腕に寄りかかる重みに複雑な笑みを洩らす。規則的に繰り返される幼い寝息は、神聖な世界の時計のように夕景を支配した。亜須久に踏み込む余地はなかった。
 大人ばかりの環境で育った亜須久にとって、玲妥の存在は新鮮だった。自分と同じものを求めると及ばず、かといって子ども扱いすれば腹立てる。旅のはじめは戸惑いが多かったが、由稀とのやり取りを見ていると問題の全ては彼女にあるのではなく、接する自分の方にあるのだとわかった。相手が賢明な玲妥であれば、尚更だった。特別に扱うことはしない。それでも彼女が求めた時に支えてやれる存在であればいい。それが子供に対する大人の役割だと亜須久は感じた。
 羨望が赤い壁に溶けていく。捨ててきた故郷では味わえない温もりがすぐそばにあった。亜須久は玲妥を起こさないよう、何度も読んだ記事に目を落とした。
 広間を往来する旅人が増え始めた。食堂から夕餉のかおりが漂ってくる。外からかすかに夕刻の鐘が響いた。
「ただいま」
 歯切れのいい声に顔をあげると、由稀が向かいの長椅子に腰かけたところだった。身を乗り出して玲妥の顔を覗き込んでいる。
「寝てるのか」
「みたいだ」
「おい、玲妥。起きろ」
「まだいいだろう。羅依も帰ってきていない」
 亜須久は玲妥に気付かれないよう雑誌を閉じて横に置いた。
「ふうん」
 そう言ったきり、由稀は背もたれに腕をかけて窓を眺めていた。
「何か、あったか」
「いや、別に」
 口の中でくぐもる声音に、亜須久は勘を働かせる。
「羅依にも悪気があったわけじゃないだろう」
「だから、別になんでもないよ」
 由稀の強情な態度に、亜須久は大きく息を吐いた。
「由稀」
「いいじゃないですか」
「え」
 亜須久は驚いて顔を上げた。由稀も騒々しく立ち上がる。
「あんた、昼間の」
「また会いましたね。というかまぁ、つけてきたんですけど」
「どういうことだよ。ちょっと待てよ。ていうか、昼間と違うんだけど」
 由稀は目の前にいる羅依とよく似た人物を、上から下まで何度も見回す。やわらかい笑顔や穏やかな物腰は変わらない。しかし決定的に違うものがあった。
「男かよ、あんた」
「当たりです」
 男は笑みを湛えて、機嫌よく手を振った。
「まさか加依(かい)、まだあれをやってるのか」
 亜須久は呆れかえって頭を押さえた。
「当たり前じゃないですか。だからこそこうやって亜須久にまで辿り着いたんですよ。どこに行ってたんですか。随分探したんですよ」
「お前が辿り着けたのは、俺じゃなく羅依だろう」
 亜須久の言葉に棘を感じ、加依は大きく笑い声を上げた。
「妬いてるんですか」
「まさか」
「俺だって驚きましたよ。まさか亜須久に会えるとは思っていませんでしたから」
「すまない。わざと言わなかったわけじゃない」
「わかってます。事情があったんでしょう。別に根に持ってませんよ」
 加依は力なく微笑むと、目を細めて窓を見遣った。
「亜須久、羅依は」
「まだだ」
「そうですか」
 壁を赤く濡らした光は、すぐにも消えようとしていた。じきに夜が満ちる。
 由稀は亜須久と加依を交互に見遣って、首を捻った。
「知り合い、なんだよな」
「そうですよ」
「俺がまだ橙亜にいた頃知り合った。どうかしたのか」
 玲妥が身じろぎをして起き上がった。なかなか開かない目をこすりながら、亜須久の袖を握っている。
 由稀は賢明に頭を動かして、意味のない言葉を呟き続けた。
「えーっとさ、だからさ、なんつーか、羅依待ちかなんか知らないけど、まぁとりあえず俺にはよくわからないんだけど、今日はここに泊まるのか」
「ああ」
 言われて初めて、亜須久と加依は思い至った。お互いに顔を見合わせる。
「それもそうだな。手続きしよう」
 亜須久がそう言って立ち上がろうとしたが、寝ぼけたままの玲妥が亜須久を離さなかった。亜須久は中腰のまま加依を見上げた。
「そのくらい自分でやってきますよ。許可証持ってるんでしょう。貸してください」
 加依は手を差し出し、亜須久から一枚の紙切れを受け取った。正規の宿に泊まるためには、各役所が発行する許可証を携帯していなければならなかった。
「由稀」
 受付へと向かう加依の背中を見つめて、亜須久は由稀を呼んだ。由稀は椅子の上に座り込んで、膝に頬杖をついていた。
「これから起こることを、ちゃんと受け止めてやってくれ」
「どういうことだよ」
 由稀の追及に、亜須久は困ったように微笑んだ。
「すぐにわかる」
 そう言われては、由稀は何も返せなかった。
 足元に夜気が触れる。特徴的な靴音が広間に響く。宿の扉が開いていた。
「羅依……」
 加依の呟きが、羅依の動きをとめた。

 羅依は視線の先に立つ男から、目が離せなかった。知っている男ではない。だが自分には制御できない意識の奥地が、男の方へと手を伸ばしていた。
 まるで鏡を見ているかのようだった。髪や目の色が違うだけで、顔の造作などは寸分も違わない。羅依は玲妥のために買ってきた菓子の袋を知らず手放した。
 後ろから客が入ってくる。羅依は前へと押し出され、すぐそこに男が迫った。声を出そうにも、どうにもできなかった。ただ男を見つめるしかできなかった。
「羅依、探しましたよ」
 加依の表情に、さきほどまでの笑顔はない。
「誰だ」
 睨み上げようとしたそばから、羅依は加依に抱きすくめられた。
「何をする」
 羅依は加依を引き剥がそうと必死になるが、羅依の力ではどうにもならなかった。けれど痛みを感じることはなかった。彼の腕は強く優しかった。
「もう、いいんですよ。何も偽らなくても大丈夫ですよ。そんなに無理をして低い声を出さなくとも、自分を大きく見せるために高い靴を履かなくとも。いいんですよ。俺が来たからには、全てを元に戻してあげます」
「そんな」
 人の温もりが、羅依の心を揺り動かす。
「この顔を他人の空似だなんて言わせません。母上からは、一度も聞いたことがありませんか」
「知らない」
「嘘。それはあなたが忘れているだけ。いえ、思い出したくないだけです。あなたには」
「やめろ……」
 羅依は加依の手を振り解き、頭を抱えて体を折った。
「あなたには同じ顔の兄がいると」
 無情なほどに落ち着いた加依の声が、羅依の体を大きく震わせた。羅依は自分で自分を抱きしめた。力が篭もり、指先は白くなった。
「今になって、なんだよ」
「俺もすぐに駆けつけたかった」
「元に戻すなんてできない!」
 羅依は加依に掴みかかった。胸倉をかきむしるように羅依は何度も加依を叩いた。激情は羅依の殻を破りつつあった。
 奔流に乗って記憶が過去へと流される。羅依の意識は幼い日に還っていた。
「だって、あたしが殺したんだ」
 羅依の目の前に血だまりが広がる。泣きながら見た自分の手は、真っ赤に染まっていた。
『泣かないで、羅依』
 聞こえた声は雑音だらけで、背筋が震えるほどに気味が悪かった。
「あたしが母さんを殺した!」
 羅依は涙をこぼし、その場に崩れ落ちた。