THE FATES

11.孵化(4)

 寝台は真っ赤に染まっていた。瞬は眠りながら、呼吸を乱す。時折、呻きがもれた。弓菜は救いを求めるように凍馬を見た。
「凍馬さん」
 由稀の治療をしたときには見せなかったような、心細げな表情だった。凍馬は出来る限り優しく微笑んで、弓菜の恐怖を取り除く。
「大丈夫だよ、このくらいでは死なないから」
 凍馬が近付くと、茜が場所をあけた。押さえていた布を取り、血で濡れた服をめくる。太刀で貫いただけあって、目を背けたくなるような傷だった。
「さっき瞬が倒れるところは見てたかな」
「えぇ。一応」
 弓菜は震える声を必死で堪えて言った。凍馬は瞬の傷口に手を突っ込んだ。弓菜は悲鳴を呑み込んだ。
「あれはね、瞬の持つ《気波動》を封印するための術なんだ。全てではないけど、そうすることで瞬の中にある鬼使の人格も、同時に封じることができるから」
 傷口からささやかな光が滲む。凍馬はもう片方の手を寝台についた。首にかかる髪が、汗で濡れた。
「今こんなにも血が出るのは、鬼使が術に抵抗してるからさ。また暗闇に押し込められるのを、怖がってる」
「何度もこんなことをしているの」
 弓菜は絶えず流れる血を、布で拭いた。
「そう。これで三度目くらいになるのかな」
「だったら、今回こそ三度目の正直ね」
 弓菜は強気に笑って言った。凍馬は彼女の逞しさに敬服した。
 ゆっくりと手を引き抜く。血が溢れることはもうなかった。凍馬の指先が傷口をなぞると、消えそうな光を伴って、傷は塞がっていった。
「すごい治癒法。あなたがいたら、誰も病気で苦しまなくて済むのに」
「万能じゃないよ」
 苦笑交じりに首を振るが、弓菜は更に息巻いた。
「あなたがいてくれないと、私、何の役にも立てなかった」
「こちらこそ手伝ってくれて助かったよ。ありがとう、弓菜さん」
 凍馬が差し出した手は、血で濡れていた。慌てて逆の手を出そうとしたが、弓菜は構わずに汚れた手を取った。彼女は重くなった布を集めて、部屋を出て行った。
 瞬は規則的な寝息を立てていた。服についた血は、すでに乾き始めていた。
「怖いやり方ね」
 隣に茜がいた。水に濡らした布で、瞬の肌についた血を拭き取る。凍馬は近くにあった椅子に座った。疲れが全身を巡った。
「こいつが無茶をするからですよ。彼女の手前ああ言いましたが、今回はさすがにやり過ぎです」
「ありがとう。あなたがいてくれなかったら、私は喪うところだった」
「礼なんて。もし俺が逆の立場だったら、瞬には助けられたくないですけどね。こいつにだけは絶対に」
 茜の手が、腹の傷で止まった。
「消さないのね」
「傷は塞ぎますが、傷跡は消しません。俺の苦労を忘れられると困りますから」
「そうね、それでいいと思う」
 瞬の髪を指で梳いて、茜は寝台に腰かけた。静かに眠る瞬の顔は、血の臭いも凄惨さも感じさせない。それが凍馬には腹立たしく、また嬉しくもあった。どんなに汚れても、霞むことのない瞬の魂が好きだった。
「相変わらず、きれいな顔をして」
「人形みたいね」
 瞬の額を撫でて、茜は目を細めた。彼女の眼差しは優しさに溢れ、瞬を我が子のように慈しんでいた。凍馬はそれを眺めて、自らの胸のつかえに気付いた。
「ねぇ、茜さん」
 やや掠れた凍馬の呼びかけに、茜は手をとめた。
「どうして瞬を一人きりにしたんです」
 いつもは朗らかな凍馬の顔に、笑みはなかった。
「瞬と紅君と、三人で天水を去ることもできたでしょう」
 自分の中に詰まった思いは、これだけではなかった。だが思いはどれも強引で、言葉になるには幼かった。
 茜はうな垂れて、小さく笑った。
「誰だって、そう思うよね。私も本当はそうしたかった」
「だったら、どうして」
「瞬がそれを望んだから。私が王になることを喜んでくれたから」
 瞬の体にある無数の傷に、茜は指先を滑らせた。きれいに整えられた爪が、傷の窪みに刺さったようにも見える。
「私、瞬の喜ぶ顔が好き。控えめに、わからないように喜ぶの。きっと恥ずかしいんだろうと思う。なのに私が王を継ぐと正式決定したあと、瞬はまるで子供みたいにはしゃいだのよ」
「この瞬が、ですか」
「そうよ。羨ましいでしょ」
「ええ。相当」
 茜は笑って瞬の手を握った。頬を染める彼女を見て、凍馬は首の後ろに鋭い痛みを覚えた。友人という立場では踏み込めない領域に、嫉妬した。
「だから私は王であることを優先したの」
「それが、瞬を殺すことになってもですか」
「うん。逃げたく、なかったしね」
 茜の声は震えを隠し切れなかった。
「わかってるのに……、私もそれを受け入れたいのに、どうしてこんなに辛くなるのかな。瞬が愛した天水と紅を守って、何が不満なんだろう」
 強く瞬の手を握る。激しさにあてられて、瞬の指が小さく痙攣した。
「それは、瞬がいなかったからですよ」
「瞬から聞いたの。逃げ続けることの苦しみを。私、瞬とならどんなに辛いことだって乗り越えられると思った。逃げることも、囚われることも、何も怖くなかった。でも、紅を巻き込むことはできなかった」
「彼は生まれついたときから、すでに巻き込まれているでしょう」
「それでも、少しでも」
 今にも泣き出しそうな声になるが、茜は決して涙を流しはしなかった。凍馬は王という生き物の頑丈さに驚く。
「私も彼を一人きりになんてしたくなかった。心配でたまらないから。でも、約束してくれたの。死なないって。生きていてくれるって。心配しないで、って。だからね、夢見たのよ。いつかまた一緒にいられるようになるかもしれないって。……少しね、琉霞(るか)さんの気持ちがわかった気がした」
「姉さんの、ですか」
 茜は頷いた。
「どんな風になっても、たとえ世界の仕組みに逆らってでも、そばにいて欲しい気持ち」
「まぁ確かに、俺の存在は自然に反していますよね。一度、死んだわけですから」
 凍馬は胸に手を当てた。伝わるはずの鼓動はない。鼓動を打つための臓器もない。ここにあるのは張りぼての人形だ。本当の肉体は、焼けてなくなっていた。人形は凍馬が自身の《気波動》で作り出していた。魂や記憶は、琉霞が世界に繋ぎとめた。時折感じる痛みは生きていたときのもので、全て錯覚だった。
 凍馬は血で染まった手を見つめた。自然に消えるはずの錯覚が、いつまでも消えない。張りぼてを維持できなくなるほど、凍馬の消耗は激しかった。
「生きていても死んでいても差がない存在なんて、本当はあってはいけないんですけどね」
 清々しいほどはっきり告げるが、茜は納得できずに沈んだ目をした。
 凍馬は眠る瞬を見つめて、初めて会った日のことを思い出していた。草原に埋もれて死んだように眠っていた瞬は、この世のものとは思えない美しさだった。
 閉ざされた瞼の奥の、滴るような深緑の瞳に思いを馳せる。多くの業を背負い、会うたびに眼差しは影を帯びた。まるで世界の闇と罪を全て見てきたような顔をした。だがそうするほどに、その色めきは一層映えた。
 茜に会って、彼は変わった。体に刻み込んだ憎悪を一片ずつ引き剥がし、瞬はひどく穏やかな目をするようになった。そして同時に弱さも露呈した。
 長い生命の中の、ひと時の穏やかさでは、彼のその後を支えるには不足だった。凍馬は瞬の痩せた頬を見つめて、痛感した。
「どうして、今だったんですか。もっと早くに来ることもできたでしょう」
 凍馬の問いに、茜の視線がふらついた。
「茜さん」
 青褪めた彼女の肌に、凍馬は彼女の魂のひずみを見抜く。
「失礼」
 一言断って、彼女の背中に手を差し入れる。ひどく熱を持っていた。掌にはわずかに鬼使の《気波動》が感じられた。悪夢が脳裏をよぎった。
「これは、どういうことですか」
「あなたが思っているとおりのことよ」
 茜は小さく微笑んだ。凍馬の心の底で、ちりちりと何かが燃える音がした。
「なぜ黙っていたんですか。あなたの体のことがわかっていれば、ここへ連れてきたりはしなかった」
 拳で壁を殴りつける。怒りが行き過ぎて、虚しさが全身に広がる。
染芙(せんふ)がやったことを、彼女の犠牲を無駄にするつもりですか」
「彼女のおかげで、紅は助かったわ」
「あなたが残らなければ、意味がない!」
 激しく声を上げて、凍馬は茜の肩を掴んだ。目の前にある濃紺の瞳に、もう一人の女の眼差しが重なる。
『お願い。瞬からこれ以上、何も取り上げたくないの』
 血に染まる茜を抱え、染芙は泣きながら言った。茜は並みの治癒法で助かるような状態ではなかった。その残酷な姿は、死の装いだった。
『どんな方法でも、禁忌だとしてもいい。彼女を助けて。私の命が必要だというなら、それでも構わない』
 染芙は瞬のために自らの身を捨て、茜を助けたのだった。
 気高く、怖れを知らない眼差しは、同時に敗北を許せない不幸も背負っていた。茜が見つめる先に、凍馬は未来を見いだせない。
「なんてことを……」
 凍馬は大きくうな垂れた。床板の木目が目眩を誘う。
 術は完璧だった。染芙の持つ力も申し分なかった。茜は生きることを望んでいた。だが彼女らの希望を、夢を、あっけなく打ち砕くほど鬼使の《気波動》は強力で、凍馬が想像していたよりも危険なものだった。
「あなたは、なんて人だ。どうせ瞬には何も言わないつもりなんでしょう。そんな汚いやり方で、瞬を慰めるなんて」
「これ以上、彼を苦しめるわけにはいかないもの」
「それを、あなたがやろうとしているんですよ。本当に瞬を思うなら、ここへ来るべきではなかった!」
 声を荒げると、額から汗が吹き出した。響かない鼓動が早く打つ。凍馬は浮かせた腰を椅子に戻した。ゆっくりと息を吸う。
「できるなら、瞬が目覚める前にあなたを天水へ連れて帰りたいくらいだ。こんな形、誰も求めていません。染芙だって――」
「ねぇ、凍馬くん」
 疲れをまとった茜の声は老いていた。凍馬は視線を上げる。
「これは私の想像なんだけど、瞬には二度目の記憶がないかもしれない。あの時起こったことも、全て、含めて」
「まさか、そんなふざけた話が」
 言いながら、凍馬は瞬にならあり得ることかもしれないと思った。鬼使を生み出した彼の精神は、彼に都合のいいように出来ている。記憶の欠落など、不思議ではない。凍馬は怒りを通り越して、呆れ果てた。
 茜は諦めに満ちた瞳を伏せた。
「この人は、これ以上の苦しみと対峙するだけの余裕が、もうないのよ」
「そんなの、瞬が弱いせいですよ。正当化されるべきじゃない。染芙の死まで曖昧にして。そんなこと、許されてはいけない」
「全て、後の祭りよ」
「わからないな。何ですか、その矛盾は。あなたはそこまで瞬のことがわかっていながら、どうしてここへ来たんですか。その体で! 瞬を思うなら、どうして私心を飲み込むことが出来なかったんですか」
「私はそんなに強くなれないの!」
 茜は激しく首を振った。長い髪が乱れる。
「染芙さんのようにはなれない」
「そうかな。あなたは瞬を愛している。でもだからこそ、染芙にだけは助けられたくなかったんじゃないですか。瞬に助けを求めない俺のように」
 茜は耳を塞いで、小さく首を振り続けた。小さな声で、やめてと乞う。だが、凍馬は構わなかった。
「瞬には余裕がないと言ったあなたが、結局は傷つけるんです。あなたにそれが、わからないはずがない。だったら、わかった上での行動ですか。まさか復讐ですか。心の奥に、ずっと染芙の面影を持ち続けたことへの、報復ですか」
「もうやめて!」
 張り詰めた声で茜は叫んだ。凍馬は詫びようとはしなかった。
「紅君は、知っているんですか」
 茜は首を振った。
「遺伝的な病気と話したわ。本当のことは知らない方がいいと思って。だってあの子は、それでなくても瞬を恨んでいるから」
 乱れた髪を整えて、茜は深呼吸をした。
「でも、私にはあなたの口止めまでする権利はないと思ってる」
 繕うように茜は凍馬に向かって微笑んだ。そこに彼女の迷いを見抜く。凍馬は言い過ぎたことを後悔した。
 かつては一人の女であった。だが母になり、王になった。彼女は肩書きを背負いすぎたのかもしれなかった。もう、どの立場に立つことも出来なくなっていた。
 瞬への純粋な愛情だけでここまで来たのであれば、女を貫こうとする彼女の姿は美しいものだったろうに。凍馬はあえて目を背けた。
「こいつの恨みを買うなんて、俺は真っ平ごめんですよ」