THE FATES

11.孵化(5)

 天水の空はいつも同じ表情だった。薄い雲が一面にはびこり、多くの光は地上に届かず息絶えた。地面に落ちる影の輪郭は曖昧で、狭い路地は昼間でも闇になった。
「あ」
 学校沿いの坂道を下っていると、住宅の脇から子供が飛び出してきた。紅は乗っていた愛機をゆるゆると停めて、少年を待つ。少年は息を弾ませて駆け寄ってきた。
「研究室はいいのか」
「もう終わった。帰るんだよ」
「珍しいな。紅が家に帰るなんて」
「あ、いや。まぁいいだろ」
 紅は周囲に人がいないのを確認すると、かけていた眼鏡を外した。少年は上機嫌になった。
「いいなぁ。相変わらずきれいな色だなぁ」
「そんなことを言うのは、清路だけだよ」
 眼鏡に遮られ色を失っていた世界が、微細な彩りを取り戻す。だが、光のない天水は華やかさとは程遠い。
清路(せいじ)は今からどこに」
桟楽(さんらく)。用事、頼まれてさ」
 拳大の紙包みを掲げて見せる。紅にその中身はわからなかったが、子供が持たされるようなものでないことは明白だった。しかし紅はそれを清路から取り上げることはしない。孤児の少年が天水で生き抜くには、他に方法がなかった。仕事がこなせるだけ、清路は闇の街を仕切る大人たちに可愛がられていた。清路には幸せなことだった。
「あのさ、清路。俺、少しの間ここを離れるかもしれない」
「え、なんで」
「親の仕事の関係で、ちょっとな」
「そっか。残念だな。でもまた会えるんだよな」
「あ、ああ」
 曖昧な笑顔を浮かべて、紅は眼鏡をかけた。子供らしく赤い清路の頬も、白と黒に塗り分けられる。次に会える確信など、天水にいても定かでない。清路もそれを知っている。それでもなお求めるのは、清路の哀しみゆえだった。

 部屋の空気は、煙で澱んでいた。紅は窓へ寄って、細く開けた。風は暖かかった。
 腰に下げた小さな鞄から、銀色の煙草入れを取り出す。表面は細かな傷で輝きを失っていたが、蓋を開けると紅の新緑の瞳が映るほど光沢が残っていた。
 忌々しい瞳だった。出来るなら抉り出して他のものと付け替えたかった。
 冷たい銀色の揺らめきに、抱きしめた女の肩を思い出す。
『あなたの瞳は、初々しい新緑ね。誰も見たことのない、生きようとして漣の空を求める色よ』
 天水にはかつて、漣の空と謳われた美しい青空が広がっていた。光を享けて、緑も茂った。今しか知らない紅には、どちらもお伽話に聞こえた。
 紅は煙草に火をつけた。冷たさが口に広がる。彼女と清路だけが、紅の瞳を見ても遠ざかることなく、むしろ褒めてくれた。二人の好意を疑うわけではない。だが紅には、それでも御しきれない憎悪が胸のうちにあった。それは全てこの新緑に象徴されていた。
 窓に、部屋の奥にいる加依と羅依の姿が映っていた。二人の顔は、硝子越しの空色に塗り潰されていた。
「最悪だよ。世界で一番最低な男が父親なんて」
 手の中にある煙草入れを見つめる。蓋を閉じて握り締めた。
「あいつは俺が二歳のときに天水を出た。だから俺には記憶がない。ただ年を重ねるごとに、あいつを知る大人たちはみんな俺の顔を見てびびりやがる。口々にそっくりだ、生き写しだと言う。やつらに、俺は見えていなかった」
 冷たく固い金属の感触は、紅の強い憧れだった。何ものにも動じない冷静さと、打ち勝つ力強さ。だが、萎えた心がそれを笑っていた。憧憬と諦念と、期待と絶望と。紅の中でせめぎあう感情は、それぞれが生き残ろうと必死に主張を繰り返した。
 紅は羅依を振り返った。躊躇して唇を舐める。ほんの一瞬、未来に光が差した。それは銀色の煙草入れに反射した、空の光だった。
「この世界のお前らに、俺は見えるか」
 小さな期待の芽は、何度も捻り潰され、今や末期であった。だがそれは確かに紅の中で息づいていた。苦々しく思いながら、その存在に縋る自分がいた。
「見えるよ」
 羅依の高すぎない声が、紅の芽を優しく掬い上げた。
「確かにお前は、ここにいる誰よりも瞬に似ているかもしれない。でもそれは血縁なら当然のことだ。あたしは同じ顔の兄貴がいて、すごく嬉しい。たとえ目に映る何もかもが信じられなくなったとしても、きっと兄貴の存在は本能的に受け入れられると思うんだ。離れ離れになったとしても、きっと」
 羅依の優しさはあまりにも不器用な形をしていた。だからこそ、紅は彼女の言葉に耳を傾けた。
「似てることは、同じじゃない。それは自分の存在を打ち消すような孤独な関係じゃない。むしろ世界との絆を確認しあえる存在だ」
 紅は、体の震えをとめられずにいた。怒りではないとわかったが、何ものかを判断することは出来なかった。
「それに、お前は瞬には似ていないよ」
「まさか」
 乾いた檻の中に閉じ込められていた期待は、解放を目の前にして激しく脈打っていた。紅は、期待が行き過ぎて内側から破裂するのを恐れた。
「誰もが言った。俺はあいつの生き写しだと」
 紅は声を大きくした。にわかに不安が沸き立った。似ていることを忌みながら、それをもって自己の存在を確かめていたと知った。
「何が違う。俺の何があいつと違うんだ」
 羅依は素肌の唇を引き結んだ。
「その、緑眼だよ」
「え」
 思いもしなかった答えに、紅は言葉を失った。煙草の苦味が舌の上に落ちた。
「適当なこと言うなよ」
「瞬の目は、もっと毒々しい。紅、お前は随分と爽やかだよ」
「嘘だ!」
 どの部分よりも似ていると思っていた。騙されるな、開くなと、感傷が警鐘を鳴らす。だが、紅は羅依の目に嘘を見い出せなかった。極度の不安は、怒りにすりかわる。紅は羅依の前に歩み寄って、彼女の両肩を強く掴んだ。
「ちゃんと、よく見ろよ! それでも違うって言うのか」
「ああ、違うね。あたしはこんなに闇のない男の首を、捕らえ損ねたりはしない」
「捕らえる……?」
「そうだよ。瞬はこっちで賞金首なんだ。あたしは賞金稼ぎをしてた」
 羅依は肩に乗る紅の手を払って、両手で彼の服を掴んだ。
「自分の腕に自信があった。これで生きていこうって覚悟もしてた。だけど一瞬でその全てを奪われた。相当悔しかったよ。自分に腹が立った。それでもまた前を向けたのは、あいつが半端なく闇を背負って、半端なく強かったからだ。お前のような泣き言を感じさせないからだ!」
 足元で割れるような音がして、羅依は下を向いた。羅依の靴の下で、紅の眼鏡が砕けていた。紅が声を上げた。
「ありえないし」
 紅は羅依の手を振り払って、しゃがみ込んだ。破片を拾い上げるが、修理できるような状態ではなかった。
「つか、何だよ、その厚底の靴。そんなの履いてるから踏んだだけで粉々になるんだよ」
「あ、ご……ごめん」
 羅依はそっと足を上げる。眼鏡の縁はひしゃげて折れていた。背後から加依が覗き込む。
「それはもう、無理ですね」
「兄貴、そんなはっきり言わないでよ。一応あたしにも罪悪感が」
「もういいよ。どうせこの世界ではいらないみたいだし」
 紅は摘まんでいた破片を投げ捨て、長椅子に寝転がった。

 亜須久は血で汚れた布を屋敷裏にあった大きな缶で燃やし、玄関広間に戻った。扉が開き、不破が顔を出した。
「ただいま」
「今までどこへ」
「いやほら、周囲に不審なことないか調べに行っててん」
「そうか。手間をかけてすまなかった」
「何言うてんねん。お前らの方が大変やったやろうに。あ、せや。大通りはもう軍隊が閉鎖しとるで。出るときは迂回せなあかんわ」
「御者に伝えておく」
「おう。よろしく。ほんで、具合はどうやねん」
「もうすっかり落ち着いた。そろそろ起きてくるかと思うが」
「ほな、良かったなぁ。人心地やなぁ」
 不破は手で肩を揉み、眉を下げて笑った。視線が亜須久の背後を捉える。
「お。弓菜」
 その声に、亜須久も振り返る。階段の上に、汚れた服を着替え終えた弓菜がいた。
「ちょっと不破、どこ行ってたのよ。肝心なときにいないんだから」
「俺は俺で俺なりの仕事してたんや」
「あ、そ。ねぇ、亜須久さん、汚れ物は」
「燃やしておいた」
「そか。ありがとう」
 弓菜は指を撫でて言った。そこには遠目にはわからない、小さな傷跡があった。亜須久はそれで、彼女の手際のよさに合点がいった。
 微かに、煙草の燃える臭いがする。部屋の扉がうっすら開いていた。亜須久は扉を開いた。すぐに加依が気付く。
「亜須久」
 加依は足元の破片を拾い集め、卓の上に並べていた。長椅子には見知らぬ少年が寝転がり、対の椅子には羅依が座っていた。
「なんや、やりにくい空気やな」
 隙間から覗いていた不破が呟いた。後ろがつかえているのに気付き、亜須久は部屋の中に入る。煙草は、橙色の髪の少年が吸っていた。ふと見た少年の顔立ちに、亜須久は思わず息を呑む。悟った加依が立ち上がった。
「貴宮紅さんです」
 加依の言葉に、紅の目が亜須久を捉えた。成り行きで、亜須久は平静を装う。
「あ、夜上亜須久だ」
「よろしく」
 紅は煙草を口に咥え、不明瞭に言った。声や雰囲気の違いが、亜須久を落ち着かせる。だが、次々と疑問が沸いた。
「あ、さっきの兄ちゃんやないか」
 不破が椅子の背中側から身を乗り出して、紅を見下ろしていた。にやにやと笑いを浮かべる。
「聞いたで。自分、鬼使の子供なんやて」
「……はぁ。鬼使って誰だよ」
「え」
 不破は拍子抜けした顔をして、言葉に詰まった。俯いていた羅依も、顔を上げた。
「なんや、知らんのか」
「誰のことだよ。そんな奴は知らない」
「冗談ちゃうわな」
「ていうか、訛り聞き取りづらいんだけど」
 紅は腹の上に乗せた灰皿に、灰を落とした。
 亜須久は卓の上に置かれた破片を眺めた。几帳面に並べられた破片が、しばらくして眼鏡であったことに気付く。窓からの光を受けて、紅の瞳は鮮やかに揺らいでいた。