THE FATES

11.孵化(6)

 部屋の扉を閉めて、玲妥は踊りだしそうな震えを感じていた。背中に当たる扉の感触に支えられて、弾けるように走り出す。
 運ばれてきた由稀を見たとき、色々な結果を予想して、覚悟をした。由稀には人より優れた再生能力があることは知っている。だが今回はその能力の範囲を超えているように直観したのだった。発狂しそうな恐怖に苛まれた。
 だが、玲妥が叫びを上げる前に、凍馬が見る見るうちに由稀の怪我を治していった。その姿はまるで神のようだった。玲妥は、正気を繋いだ。
 弓菜から瞬の容態も聞いた。どちらの傷も相当だったことがわかり、玲妥は二人の戦いが自分の想像を超えるものだったことに驚いた。由稀は《気波動》を知らない。その彼がどうして覚醒した鬼使と互角に準ずる戦いをこなしたのか、理解できなかった。
 由稀の姿を思い浮かべる。昨日までの由稀は、既に面影となってしまっていた。それでも彼が兄であることは変わらぬ事実だった。
 やや湾曲した階段を駆け下りる。幅の広い一段がもどかしかった。玲妥は一階の部屋へ飛び込んだ。
「由稀、起きたよ!」
 部屋には嗅ぎ慣れない煙草の匂いがした。
「羅依、由稀が呼んでるから、行ってあげて」
「あたしが」
「うん。話がしたいんだって」
 玲妥は亜須久の横をすり抜け、紅の横に立った。口元から煙草を取り上げ、灰皿に押し付ける。
「なにすんだよ」
「ねぇ、紅くん。裏で井戸見たって言ってたよね」
「うん、見たよ」
「汲みに行ってくる」
「あ、おい」
 行きかけた玲妥の腕を掴み、紅が起き上がった。
「俺も行くよ。井戸が生きてるかもわかんないし」
「ありがとう」
 玲妥は紅を引っ張り上げて、手を繋いだ。部屋から出ると、光の多さに目が眩む。玄関上にある窓を見上げて、玲妥は世界への感謝に溢れた。
「由稀って、空色の髪の」
「そうだよ。私のお兄ちゃんなの。血は繋がってないんだけどね」
 紅は玲妥の歩く速さにあわせていた。
「どんな兄貴」
「優しいよ。ちょっと過保護すぎるところはあるけど、でも一緒にいるとすごく安心する」
 厨房へ続く廊下に入ると、途端に光はなくなった。目が慣れず、瞼の裏がちかちかと光った。紅の手を強く握る。紅の手は、顔や体形に似合わず骨ばっていた。
「じゃあ、自慢の兄なわけだ」
「どうかなぁ。結構いい加減なところもあるしなぁ」
「でも、血が繋がってないのに、なんで兄妹。再婚とか」
 戸を開いて、厨房に踏み入る。靴裏に響く感触は固くなり、音はよく響いた。
「同じ人に育てられたから。由稀はマスターとママが人から預けられたらしくて、私は拾われたんだって」
「え。あ、ごめん。俺、嫌なこと聞いた」
 紅はきちんと玲妥を見て謝った。玲妥は素直な紅をさらに好きになる。
「いいよ、平気。本当の両親のことは何も知らないんだけど、私も由稀も、マスターとママがいてくれたから、ぜんぜん寂しくなかったよ」
「そんなものか」
「ねぇ、紅くんは」
「兄弟か。俺は一人っ子」
 流し台や竈を、紅は物珍しそうに見つめていた。立ち止まって甕の中を覗き込むが、何も入っていなかった。
「紅くんのお母さんは、茜さんなの」
「そうだよ。上で会ったのか」
「若い、お母さんだよね」
「天水王家では王位を継ぐときに、術で外見の時間をとめてしまうんだ」
「どうして」
「さぁな。儀式って、最初は意味があるかもしれないけど、いつの間にか形式だけが残るだろ」
「そっか」
 壁を曲がり、引き戸を引く。短い廊下の向こうに裏口が見えた。
 隙間から細い光が差し込んでいる。取っ手に手をかけて、目を光に慣らしながら開ける。蝶番が軋んで、壊れた弦楽器のような音がする。
 白む光の中で、何かが横切った。
 紅の手から玲妥が離れていった。
比古(ひこ)!」
 玲妥は声を上げて飛び出した。だが人影どころか、動くものの姿は何もなかった。
「玲妥ちゃん」
 後ろから肩を叩かれ、玲妥は悲しげに紅を振り返った。
「いない」
「何だったんだよ」
「多分ね、絶対に比古だったの。だってこんなに暖かい土地で、比古みたいな暑苦しい服着てる人、他にいないもん」
 紅は玲妥の小さな背中を押して、井戸の方へ歩く。
「知り合いか」
 玲妥は力なく頷いた。
「私と由稀が住んでた国は、あんまり裕福じゃなくて、学校は一部のお金持ちしか通えなかったの。だけど由稀はどうしても文字を読めるようになりたくて、独学してた。時間があるときはマスターが見たりしてたんだけど、仕入れとかで忙しいときは、比古が見てくれたの。比古はマスターとママの古くからの友達で、よく来てくれたから」
「その比古ってのがいたのか」
「うん。比古はすごく肌が弱くて、光が当たるといけないから、いつも分厚い外套を着てたの」
 話が出来なかったのが悲しいのではなかった。大声で名前を呼んだにも拘らず、気付かぬ振りをして立ち去られたのが辛かった。視界が涙で歪んだ。永遠の別れでもないのだ。泣きたくはなかった。玲妥は袖で涙を拭いた。
 体が、一瞬宙に浮いた。
「わ!」
 叫んだときには、地面はもう鼻先にまで迫っていた。顔だけは守ろうとして体を捻ると、膝を砂で強く擦った。血が滲んだ。
「おい、大丈夫か。派手に転んだな」
「痛い」
 堪えたはずの涙が零れた。辛さより、痛みより、情けなかった。
「ほら」
 紅が玲妥の前に背中を向けてしゃがんだ。
「おぶってやるよ。水は俺が届けてやるから」
「ごめんね、紅くん」
 玲妥は紅の背中に抱きついた。首にしがみつくと、急に由稀が恋しくなった。