THE FATES

11.孵化(7)

 扉の前で立ち止まり、羅依は躊躇った。どんな言葉をかければいいのか、どんな顔で会えばいいのか、わからなくなっていた。今朝ですら遠い過去に感じられる。
 目を閉じて、息を止めて、扉を叩く。返事を待たずに開けた。
「お前さ、俺が何も言わないうちから開けるかよ」
 暢気な声に、羅依は怖々由稀を見た。由稀は寝台の上に座り、体中に巻かれた包帯を取り払っていた。
「よぉ」
 片手を上げて由稀は機嫌よく笑った。
「お。おう」
 羅依は視線を逸らして手を上げるのが精一杯だった。
「何だよ、調子悪いんじゃねぇの」
 包帯の下から、由稀の素肌が露わになる。羅依は思わず目を逸らした。
「なぁ羅依、怒ってるのか」
「な、どうして」
「だって、やたら機嫌悪そうだし。もしかして、今朝のことまだ気にしてるのか」
 羅依は首を傾げた。
「ほら、二年前のこと」
「ああ……」
 言われて初めて、あれが今朝のことだったと気付いた。頭の中では理解できていても、感覚がそれを認識できていない。
「平気だよ」
「だったら」
「多分、相当嬉しいんだと思う。由稀が由稀のままで」
「何言ってるんだよ」
 由稀は声を出して笑った。
「当たり前だろ。じゃなかったら、俺は誰になればいいんだよ」
「そうだよな。うん」
 羅依は恥ずかしさを堪えて前髪を撫でた。由稀は飛び跳ねるようにして寝台から下りて、羅依の真正面に立つ。羅依は由稀を見上げて、口を歪めた。
「なに。その勝ち誇った顔は」
「へへ。羅依が俺より小さい」
 朝までは差のなかった二人の身長も、今は一目でわかるほど由稀が抜けていた。
「腹立つ」
「靴脱げよ。差が歴然だぜ」
「絶対に嫌だね!」
「残念。楽しめるかと思ったのに」
「すました顔しやがって」
 羅依は手を伸ばして由稀の頬をつねった。由稀がどんなに痛いと言っても、羅依は手加減しなかった。じゃれ合って、笑い合う。もう一度この時間が過ごせることを、羅依は見たことも信じたこともない神に感謝した。
 羅依は両腕を掴まれたので力任せに由稀の体を押した。二人して寝台に倒れこむ。羅依は慌てて起き上がろうとしたが、手を引っ張られた。すぐ真下に由稀の顔があった。
「離せよ、由稀」
「実はさ、死んでもいいかなって思ったんだ。俺」
「え」
 間近に由稀を見つめる。穏やかな目をして、まさか冗談を言っている風ではなかった。
「何てこと言うんだよ」
「だって、思ったんだからしょうがないじゃん。でもさ、それを引き止めてくれた気持ちがあったんだ」
 由稀は手を離して、頬に落ちる羅依の髪に触れた。
「羅依と一緒にいたいと思った」
 爽やかな風のように由稀は微笑んだ。羅依は返す言葉を見失い、顔を真っ赤にした。
「ば、馬鹿か」
 由稀の手を振り払って立ち上がる。羅依は由稀の正面切った愛情を持て余した。
「ちゃんと治療してもらったのかよ。頭の中とか、やばいんじゃないのか」
「嘘じゃねぇよ」
「誰も嘘なんて言ってないだろ」
「羅依」
 由稀は寝台に座り、俯く羅依の顔を下から見つめた。羅依は額を押さえて立ち尽くす。愛すべき日常が、却って悪夢のようだった非日常を思い起こさせた。
「あたし、由稀が死んじゃうかと思った」
 涙はなかったが、声は震えていた。
「何も出来ない自分がもどかしくて、情けなかった。由稀はぼろぼろになってるのに、ただ見てるだけなんて」
「そんなことないよ」
 由稀は羅依の手を優しく握った。
「俺を助けるために、頑張ってくれた。見てたよ、ちゃんと」
「だけどあんなの、他のみんながいてくれたから」
「責めないでいいよ、羅依」
 包み込んでくる由稀の手はあたたかく、羅依の追い込まれた心を解放していく。
「あのさ、由稀。二年前の話のことなんだけど」
「無理すんなよ。何の因果か、鬼使に会うことができたし、もういいんだ」
「違うんだ。そうじゃなくて、あたし、二年前のことが思い出せなくて……」
「え」
「鬼使は恐怖の対象として記憶されてはいるけど、情景も言葉も音も匂いも、何も思い出せない。まるで何もなかったように、跡も残らないように切り取られてる」
「羅依……」
 曖昧な気休めは逆に彼女を傷つけるだけだと思った。由稀はそれ以上を口にはしなかった。羅依にはそれが痛いほどわかり、口元に笑みを浮かべたが、涙が出そうになったのでやめた。強引にならないよう、手を離す。
「あたしは、自分の弱さが嫌になる。自分が女であることが嫌になる。強い男に生まれたかった」
「羅依は充分強いよ。その辺の男なんかより、ずっと」
 由稀は羅依の指を握り、腕を揺らした。
「自信持てよ。お前はあの鬼使と遣り合って生き残ったんだ。そんな名誉なことはないだろう」
「うん」
 羅依は由稀の指を握り返した。男や女にこだわりたくないと思っていた自分が、誰よりも囚われていた。そのことが悔しかった。
 手を離して、由稀の腕を目で追う。それが胸元で止まる。
「由稀、傷残ってる」
「え。どこに」
「左胸のところ。ほら。ここ」
 羅依が指差したところを、由稀が俯いて見た。そこには硬貨大の青い痣があった。
「凍馬さんに言った方がいいんじゃないか」
「いや、痛みもないし、きっと大したことないよ。そう判断して放っておいたのかもしれないし」
 由稀は痣を軽く叩いて快活に笑った。
「そっか。そうだよな」
 羅依は涼やかな目で微笑み返す。確信はなくとも信じられた。由稀に強さの片鱗を垣間見て、それはずっと前から由稀が持っていた優しさだと気付く。自分が何も見ようとしなかっただけだ。
 空色の瞳は、いつも空を映すから輝くのだ。
 ただ、闇雲に前を向いていたいだけだとしても、俯かず振り向かずにいられるのは、強いものの証拠だった。逃げ延びるときだって、涙が出るときだって、できれば真上の空を見ていたい。
「下で待ってる」
「ああ、ありがとう」
 手を振って、背を向ける。
 扉を閉めて心に残ったのは、由稀の笑顔ではなく、血に濡れた瞬の姿だった。
 彼が見る空は、何色をしているのだろう。
 瞳の奥に、彼の眼鏡越しに見た空が広がった。