THE FATES

11.孵化(8)

 羅依の背中を見送って、由稀は小さくため息をこぼした。掌を見つめて、またため息をつく。目に映る自分の体は、全く見慣れないものだった。腕も、胸も、腹も、脚も、どれもが自分の感覚より大きかった。
 手首をさする。そこにあったはずの腕輪は、もうなかった。鬼使に殺意を抱いた瞬間、砕けて散った。由稀の意識もそこで一度途切れた。次に世界を感じたとき、体中が痛み、指先すら動かすことが出来なかった。
 何があったのかを思い出そうとすると、夢を思い出すような不安定さがあった。記憶は流動的で一つに確定することが出来ず、輪郭はぶれ、声は反響し、感触は手袋越しの雪のようだった。
 自分の代わりに、誰かがいた。その誰かが鬼使と殺しあっていた。
 胸の奥がざわつく。由稀はそばの窓から外を見つめた。空の青や白を越えて、自分の姿が映りこむ。そこにいる自分は確かに自分らしくあったが、決定的な何かが自分とは違っていた。頬を撫で、鼻筋を指先で辿る。まるで他人の顔を触っているようだった。
 自分であることの証明が、顔形でしかできない貧しさに戦慄した。
 必死に内側の自分を探す。だが焦るほどに、求めるものは自分によって掻き消された。由稀には何ものかの悪意のようにも感じられた。
 痣に触れる。掌に鼓動が伝わった。
 扉が叩かれた。返事をすると、隙間から水差しと器がぬっと出てきた。玲妥かと思ったが、腕は男のものだった。
「いいよ、入れよ」
 寝台のそばに置かれていた服に、袖を通す。水差しの男は動く気配がなかった。
「なぁ、おい」
 苛立って扉を開けると、橙色の髪をした、瞬によく似た少年がいた。
「誰」
「水、欲しいんだろ」
「あぁ、ありがとう」
 由稀は水差しと器を受け取った。一気に飲み干して渇きを癒す。突き刺さるような視線を感じ、少年を見遣った。
「何だよ」
「別に。変な色の頭だなぁと思って」
「だったら別にじゃないだろ」
「屁理屈」
「はぁ? 喧嘩売ってるのかよ、お前」
 由稀は少年に顔を近づけて、新緑の瞳を覗き込んだ。目の覚めるような鮮やかな色彩に、彼の心が透ける。由稀はその悲しみに見覚えがあった。
「瞬の、血脈」
 夜の光の下、息が切れ切れになりながら瞬を問い詰めた。腕輪が痛いほど熱かったのを、よく覚えている。夜空を受けて微笑む瞬は、冷たい刃のように美しかった。支えてくれた彼の手は、優しく、あたたかかった。引きとめようとしても離れていく、彼の孤独が悲しかった。
「そうか。お前が瞬の希望なんだな」
「は」
 少年は口を歪めて由稀を睨みつけた。由稀は寝台まで戻って靴を履く。小さかったので、踵を踏んだ。
「俺は由稀。お前は」
「紅。貴宮紅」
「へぇ、紅か。いい名前だな」
 服の釦を留めて、見下ろす。袖口を嗅ぐと、覚えのある甘い香りがした。瞬の服だった。
「お前、あの男から何か聞いてたのか」
「あの男って、瞬のことか」
「そうだ」
 紅は扉のそばから離れようとせず、腕を組んで由稀との距離を保った。由稀には紅の心の揺れが、手に取るように想像できた。初めて会ったはずが、まるで昔から知っていたような錯覚に陥る。
「何も聞いてないよ。でもわかる」
「わかるって、何が」
「紅が、瞬の血脈……いや、家族だって」
 強引な発想だとは思ったが、それが何より自然に感じられた。
 散らかした包帯を集めて、芯を作って巻き取っていく。由稀は横目に紅を見た。彼は陽射しに煌めく新緑の瞳を曇らせ、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「羅依の嘘つき。やっぱ似てるんじゃねぇか」
「え」
「その通り。あいつは俺の父親だ。お前は、俺があの男に似てるから、そう思うんだろ」
 声質も瞬と似ていたが、紅の声はやや高く、瞬のような妖しさはなかった。
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
 由稀は巻き終わった包帯を、紅に向かって緩く投げた。紅は一瞬驚いたが、落とさず受け取る。
「じゃあ、どういうわけなんだよ」
 紅は包帯を思い切り投げつけた。あまりの強さに、由稀は指先で包帯を弾いた。折りこんだ端がほつれ、包帯は一本の白い線になり、床を転がった。
「お前がどうこうっていうんじゃない。得心がいったのは、瞬の方だ」
 由稀は襟を口元に寄せ、これまでの瞬の苦しみを思いやった。
「瞬はきっと俺の向こうにお前を見ていた。肝心なところであいつが見せた優しさは、俺に対してじゃなかったんだ」
 多少の寂しさが、胸中を掠めた。
「俺の我侭を突き放し切れないあいつは、奇異な存在だったよ。切り捨てればよかったのに。あの夜も、今日だって。あと一呼吸で、俺なんて世界から消えていたのに。あいつは俺を殺し損ねた。世間知らずなくらい一方的に、俺から関係を断ち切ったのに、あいつは……」
 瞬はいつも、由稀のことを見守っていた。初めて会った森の中でも、揺れる荷馬車の中でも、忍び込んだ屋敷でも、その夜空の下でも、死に絶えた街の中でも。
 いつだって傷つけることは簡単にできたはずが、彼の振り上げた剣先が由稀を引き裂くことはなかった。だがその懸命さは、由稀には伝わっていなかった。むしろ自尊心を逆撫でされるばかりだった。
 今ならわかる。絶対的に、無償の慈悲で守られていたのだと。
 小さな机に置かれた、羅依から借りた短刀を服に挟む。窓の向こうに見える空は、故郷より青く濃い。不意に、雪が懐かしくなった。
「お前らに何があったか、俺には全く想像つかないけどさ」
 包帯は紅の足元まで転がっていた。伸びた線を辿って、紅に歩み寄る。
「くだらねぇな」
 頭の上から声が降った。
「お前、神様か何か? なんだそれ。妄想しすぎだろ」
「そうかなぁ」
 由稀は包帯を拾い、顔を上げた。目にかかった髪に触れると、砂の手触りがあった。見ると、金色に光っていた。
 紅は由稀を眺めて首を傾げた。
「お前さ、本気で喋ってる?」
「俺はたいてい本気だけど」
 由稀が小さく呟くと、紅は声を出して笑った。
「なに笑ってんだよ」
「だってお前、俺に対して切れるとか、そういう発想はないわけ」
「は。なんで切れるんだよ」
「なんでって」
 紅は由稀の手から包帯を横取りして、目の高さに翳した。
「じゃあ、俺がまた投げて解けたら、キレるか?」
「はぁ。先に投げたの俺だし、解けたのも俺が弾いたからだし。まぁなんていうか、また巻きゃいいだけだろ」
「普通腹立つだろ。たとえそう心がけてても、それでもどうしようもないのが怒りだろ」
「だとしても、俺の手でどうにかなるなら、それでいい」
 それだけの力が自分にあるのか、由稀はひどく不安になった。自分の体ですら、存在すら、確かに自分のものと叫ぶことも出来ないというのに。この手で、何が出来るというのか。
 額に、包帯が投げつけられた。顔を上げると、親譲りの整った顔で紅が笑っていた。その笑顔に、瞬のような脆さはない。
「面白いな、お前。すげぇ気に入った」
「それはそれは。光栄なことで」
 由稀は包帯を拾い上げ、手の中に握り締めた。自分すら信じられなくても、拠って立つ場所などなくても、それでもここに在るだけで力なのかもしれなかった。
 たとえ神の午睡の夢であっても。
「てか、神様って妄想するのか」
「さぁ、知らね」
 紅は由稀に背を向けて、廊下を去っていく。
「いい加減だなぁ」
 由稀は紅に続いて部屋を出た。水差しを持って下りるべきか悩んで振り返った。
「なぁ、由稀って言ったっけ」
「ああ」
 部屋に戻りかけていた足をとめる。紅は廊下の真ん中で立ち尽くしていた。
「ここのやつらは、なんだってこんなに緩いんだ」
「どういうことだよ」
「俺に対しても、あの男に対しても。どうしてそんなに受け入れようとするんだ」
 死んだような声に、由稀は紅の激情を悟る。紅は戸惑うことに戸惑っていた。
「よそ者の、俺たちを――」
「多分、好きだからだよ」
「は」
 紅は振り返って由稀を睨んだ。
「緩いにも限度あんだろ」
「ねぇよ、そんなもの。せっかく出会った運命だろ。大切にしたいと思うんだ」
 体中の、傷ついた部分が引き締まるように痛んだ。喜んでいる。無駄ではなかったと、声にならない叫びを上げていた。流した血は、燻り続けた歯痒さをも連れ去った。
「ついさっき、そう思えるようになったんだ」
「あ、そ。聞いた俺が馬鹿だったよ」
 手を軽く振り、紅は廊下を突き進んで階段を降りていった。由稀は彼に認められた気がした。
 廊下の突き当りを振り返る。目を閉じれば、血に染まった瞬が浮かんだ。
 決着はつかなかった。だがそれこそが、求めた答えに何より近い気がしていた。生死をかけて生き抜いた全ての瞬間に、嘘は欠片もなかった。すぐそばで見た瞬の赤い涙に生臭さはなく、清新なものすら感じられた。
「下で待ってるから」
 歩き出すと、胸のうちから甘い匂いが立った。