THE FATES

11.孵化(9)

 神殿へ続く階段をあがると、ささやかな海風が吹き抜けた。湿り気はあるが、肌が粘つくほどではない。背中にはいささか汗をかいた。
 祭壇のそばに人影があった。他に礼拝者はいない。青竜は呼吸を整えて祭壇へ歩み寄った。細かい砂が踏み潰されて、靴の下でか細い音を立てた。人影が振り返った。
「来たか」
「待たせてすまない」
 青竜は祭壇への石段を登った。
「連絡が間に合って良かった」
「いや、あまり間に合ってないけどな」
 男は南国には不似合いな分厚い外套を着込んでいた。しかし汗の一つも見せず、涼しい顔をしていた。
「どういうことだ、比古」
「玲妥に見つかりかけて、ひやひやした。大声で名前を呼ばれて、思わず顔を見たくなったよ」
「会ったのか」
「我慢したさ。お前の命令だからな」
「そうか」
 青竜は顔に出さずに安堵した。比古は日陰を探し、被っていた頭巾を脱いだ。光のない場所でも、彼の銀髪は輝いていた。
 神殿まで潮騒が届いた。それは風の音に混じって、微かに耳をくすぐるほどだった。呼吸と重なる。短く、鳥の声がした。
「計算違いがあったんだろう」
 比古の赤い瞳が、青竜の逃げ場所を奪う。青竜はその場に縫い付けられた。
「顔を見たか。由稀の」
 透けるような白い肌に、笑い皺が寄る。
「まさしく生き写しだ」
 青竜は沈黙した。
「今はまだその時ではなかったんだろう。あんな気休めみたいな時間稼ぎをさせるくらいだ。準備が万全だとは思えないが」
「本当に、気休めだったな」
 低い声は、海鳴りのようだった。比古は顔を歪めた。
「俺に怒るな。文句があるなら、気休めにしかならなかった桟李(さんり)に言え。扱い慣れない獣族なんか連れ出すから、あんな無様なことになるんだ」
「桟李には荷が重かったのかもしれない」
「とは言っても、他は面が割れてる」
「そう、だな」
 青竜は仲間の顔を思い浮かべて頷いた。比古以外とは、長く会っていない者もいる。
「これからあいつには、移動専門になってもらうよ。今飛べるのは、桟李だけだからな」
「それより比古、なぜ鬼使の存在を私に報告しなかった」
 青竜の頬には緊張が漲っていた。目は鋭く切れ上がっていた。比古は動じず、薄笑いを浮かべた。
「きまぐれ」
「は」
「ちょっとした遊び心――」
 言い終わらないうちに青竜が比古の胸倉を掴みあげた。陰にも陽にも偏らない青竜の顔が、鬼のようにしなった。
「遊び心だと」
「何だ、殴るのか。全ては俺の不徳か。だが、お前はもう一つの線から報告を受けていたんだろう」
「不破からの連絡では間に合わない。危険に気付いたときには、もう遅かった」
「だったら自分の判断を恨むんだな」
「比古!」
 青竜は今にも比古に殴りかかりそうだった。だが彼は決して手を上げない。比古にはそれがわかっているのか、悠然と青竜を見つめていた。
「不満か」
「お前から報告があれば、間に合ったかもしれない。今こんなことにならずに済んだかもしれない。おかげで大幅な軌道修正が必要になった。計算が狂った!」
 殴る代わりに、せめて激しく手を離す。比古の分厚い外套では、皺の一つも残らなかった。
「確かに鬼使は、個人的には興味のある男だ。私も一目見てみたい欲求を抑えられなかった。だがあの暴走は、明らかに鬼使が原因だろう。奴があの人を煽ったんだ。あの人に危害を加える存在なんて、許されるはずがない」
 拳を強く握り締める。激情は全て内に向かったが、抱え切れないものが外に溢れ出した。
「だったら、俺の興味なんて関係ない。さぁ比古、どうしてくれよう。これで全てが水泡に帰すなどと、そんな馬鹿げた結末になったなら、お前はどう責任を取るつもりだ、比古!」
 比古は静かに青竜を見つめていた。場違いな懐かしさに浸る。笑いがこぼれた。
「相変わらずだな、青竜」
 ずれていた外套の前を合わせる。隙間を見つけて飛び込んできた風が、肌に心地よい。
「久暉のこととなると、目の色が変わる」
「当たり前だ」
「だったら、なぜ俺たちに説明をしない。あのとき何があって、どうして久暉があんなことになったのか。そしてお前が今、何をしようとしているのか」
「全ては久暉様のためだ」
「そんなことはわかっている。だがな、究極目標だけで動くには、俺たちは数が少なすぎる。系統立った指示も糞もない。皆、各自の判断で動かざるを得ない。何も知らされずに従う俺たちの気持ちが、お前にはわかるか青竜。少なくとも俺は、久暉が信用したお前だから聴従しているんだ。お前単体にではなくな。あまり秘密の度が過ぎると、誰もついていけなくなる」
 比古は額に手を翳して、海を望んだ。波間の煌きは、比古には毒だった。
「俺は久暉が好きだ。人としても、頭目としても。今でも初めて会った日のあいつの強さが、脳裏から離れないほどだ。決意は揺らがない。何もかもを捨てたんだ、久暉と見た夢のために。だから俺は、久暉が認めたお前を、困らせたくはない」
 空と海との青の競演から視線を逸らし、比古は青竜の手を見た。強く握った拳は、有り余る情動のために震えていた。
「どうなんだ、青竜」
「今は、まだ言えない」
「それはなぜだ」
「言えないんだ。しかし時が来たなら、必ず話そう」
「俺は、すぐにお前を信じるぞ」
「頼む」
 頭こそ下げなかったが、青竜は目を伏せて俯いた。比古には、青竜の苦しみがわかる気がした。
「わかった」
「ありがとう」
「そこまで言われれば誰だって引き下がる。それで、次は何をすればいい」
 切り替えの早さが、比古の長所であった。青竜も彼を真似る。
「以前からの継続事項を、優先順に」
「了解した」
 比古は首に垂れていた頭巾を手にして、ふと止まった。
「またお前に怠惰と罵られると困るから話しておくが、うちの弟のことなんだが」
「確か、鬼使と接触したとか」
「なんだ桟李から聞いていたか」
「ああ。彼がどうした」
「鬼使の術だろうな。会ったことはすっかり忘れてる。直に会ったのはあいつだけなのにな。向かい合った印象すら聞けない」
「そうか。やはり厄介な男だな、鬼使というのは」
 青竜は喉をひきつらせて小さく笑った。比古は頭巾を目深に被った。青竜の横をすり抜けて、神殿を去る。
 取り残された青竜は、神殿の真上に開かれた空を見上げた。強い光に鍛えられた青みの強い空色に、面影を重ねる。
『こんなところで惨めに死んでいくなら、いっそ俺にその命を預けてみろ』
 記憶に留まる影は、青竜の中で何度も繰り返された言葉を、勝ち誇った唇で刻む。
『死んで負け犬になるには、お前の目は強すぎる』
 そう言った彼の瞳の方が、透徹し、何ものにも屈しない強さがあった。
『まずは俺を負かしてみろ』
 負けるつもりなどないくせにと、青竜は悪態をつく。
『そうすればこの世界、お前のものだ』
 彼の空色の髪が、悲しく揺れる。
 鳥が、啼いた。
「違う。世界は、あなたのものだ」

11章:孵化・終