THE FATES

12.浄罪(1)

 雨上がりの空は淡く、低い屋根の向こうに覗く山々は濃く映えた。橙亜国随一の歓楽街・祥楼路(しょうろうじ)も、昼間では人も疎らだった。鮮やかな朱塗りの柱や人々の無口さを除けば、他の街と大差はない。
 塵が洗い流された街に、弦楽器の音色が響く。男は妓楼の二階を見上げた。ばちの捌きはしなやかで、旋律は匂い立つようだった。華やかさが音を繋ぐ。男はこの奏者ほどの楽師を他に知らない。従者をその場へ置き去り、男は店の敷居を跨いだ。
「おや、梗河(こうが)屋の旦那。しばらく振りですな」
 小太りした店の主人は、にやついた笑みを脂汗のようにべっとりと張り付けて言った。周防は主人を無視して、階段に目を遣る。
彌夕(みゆう)は」
「上に居りますが、こんな昼間から客人のもてなしですか」
「いや、貰い受ける」
「は」
 主人は周防の尖った顔を見上げて、口を開けた。冗談を言っている様子ではない。主人の額に汗がふき出した。
「こ、困ります。あれを連れて行かれちゃ、商売上がったりだ」
「なんだ、忘れたか」
 周防は目を細めて、居丈高に主人を見下ろした。
「俺は確か、あいつを預けると言ったはずだ。勘違いも甚だしいな」
「し、しかし」
 射竦められて、主人は目を逸らした。
「あの親子の穴埋めだとも言いませんでしたかね」
 横目に周防を窺いながら、主人は小声で呟いた。周防は主人の卑しさに触れ、冷笑した。
「名前も思い出せないくせに」
「え、いや」
「まぁ、いい」
 周防は硬貨の結束を解いて、床にばら撒いた。主人は思わず反応して、散らばった硬貨を短い腕で囲い込んだ。少し離れた硬貨に手を伸ばそうとして、自分を覆う影に気付く。顔を上げると、周防が笑っていた。
「それで足りなければ、あらためて取りに来るがいいさ」
 主人からの返事を待つことなく、周防は階段を上がっていった。取り残された主人は急いで硬貨を拾い集めると、店の奥に引っ込んだ。
 二階からは絶え間なく弦の歌声が響いていた。飴色の廊下を歩き、一番奥の障子を迷いなく開ける。
「お前の居場所はすぐにわかるな、彌夕」
 ばちんと不恰好な音がして、音色が止んだ。楽器を抱えた女は、おもむろに周防を見上げた。彼女は金色の瞳に静かな笑みを浮かべる。
「だって、そのために弾いているんだもの」
 彌夕は頬にかかる深紅の髪をかきあげ、抱えていた楽器を床に置いた。周防は部屋の前で靴を脱ぎ、草で編み込まれた座布団の上に座った。
「まだその珪月(けいげつ)を使っていたのか」
「他では手に馴染まないから」
 珪月は橙亜国の伝統楽器で、繊細な音色に似合わぬ寸胴な形をしていた。専ら男が祭りで弾くものだが、祥楼路では宴席用に女の楽師もいくらかいた。彌夕の腕はその中でも群を抜いていた。
「久し振りね。亜須久が来たとき以来」
「そうか」
「どうしたの。翔華の喪が明けたから?」
 小さな板張りの部屋には、小さな文机があるだけだった。彌夕はそこで茶を淹れた。情動を慰めるような、芳しい香りが立った。
「いや、しばらく橙亜を離れていた。兄さんにこき使われてな」
「そうだったの。そういえば、彼にも長く会ってない」
 周防の前に茶を差し出す。開け放った窓からは、雨上がりの冷たい風が入った。周防は茶を一気に飲み干した。熱い塊が喉を下りていく。あとには焼け付く痛みと少しの香りが残った。
「兄さんは兄さんで、青竜にこき使われているよ」
 茶を淹れる彌夕の顔に、周防は染み入るような幸福を見た。
「あんな男のどこがいい」
「周防にはわからないわ。私だけがわかるの」
 周防は声を上げて笑った。
「一端の口を利くようになった」
「ねぇ、こんな時間に周防が来たのは、もしかして」
「そうだ。これから兄さんに合流する」
「会えるのね。青竜に」
 彌夕は身を乗り出して周防に迫る。周防は体を後ろに引いて、小さく頷いた。
「すぐにとはいかないだろうが」
「嬉しい」
 静かにそう呟くと、彌夕は身の回りの荷物を袋に詰め、服を着替え始めた。待つ間、周防は珪月を爪弾いた。しかし彼が弾いても鳴るのは音で、音色にはならなかった。顔を上げると、服を脱ぎ捨てた彌夕がいた。窓からの光で、輪郭が滲む。周防は出会った頃の彌夕を思い出し、時の流れを実感した。
「移動は船かしら」
「そうだな。今夜は貨物の定期便がある」
「きっと悪い仕事の船だ」
 髪の色によく似た赤い服に袖を通し、夕焼け色の帯を締める。差し色には若葉色を使った。大きく開いた胸元から、窪んだ鎖骨が覗く。それは楽師が席へ呼ばれた際に着る服だった。
「その服は目立つぞ」
「いいの」
 爽やかに言い切る彌夕に、周防は閉口した。
「俺の身にもなれ」
 立ち上がり、帯の結びを手伝う。
「きれいにして」
「今日はまだ会えんぞ」
「それでも。翔華がしていた結びがいい」
 周防は黙って帯を結ぶ。久し振りだが、手が覚えていた。
「ねぇ、髪も」
「甘えすぎだ」
「いいじゃない」
 彌夕は肩越しに周防を振り返り、嫣然と微笑んだ。体がよじれたので、肩を掴んで前を向かせる。周防は浅くため息をついた。
「飾りは本部の俺の部屋にある」
 帯ができ、周防は彌夕の背中を軽く押した。彌夕は振り返り、周防の手を取った。
「亜須久にもこうやって優しくしてあげたら、逃がさずに済んだのに」
「馬鹿なことを」
 周防は鼻で笑って、足元の珪月を持ち上げた。
「あれは追い詰められることで、やっと生きる道を見つけられる男なんだよ」
 彌夕は珪月を受け取り、首を傾げた。周防は部屋の窓を閉め、靴を履く。脳裏に、幼い日の亜須久が思い出された。母のため兄のために生きた少年に、周防は知らず自分の姿を重ねていた。
 飴色の廊下の光沢に、心の底で唾を吐く。橙亜での暮らしが恋しくなることを周防はひどく恐れた。