THE FATES

12.浄罪(2)

 白い世界に取り残されていた。瞬は出口を求めて歩いていた。だが歩けども歩けども、前へ進んでいる感覚はなかった。ずっと同じ場所で足踏みをしているようだった。立ち止まり、地面に手を伸ばす。しかし指は何ものにも触れない。瞬はその場にしゃがみ込んだ。
 上から、赤い雫が一滴落ちた。触れられなかった地面に、一つ二つと染みができる。見上げると、両手足を縛られ、猿轡を噛まされた男が吊るされていた。誰と呼びかけると、男は瞬を睨みつけた。闇が渦巻くような深緑の瞳が瞬を射抜く。
 男は、瞬自身だった。
 吊るされたまま、瞬は地面に沈み込んでいく。やがて見えなくなると、足元から闇が湧き出てきた。急いでその場を飛びのくが、闇は広がっていく。瞬は息切れるほど走り、闇から逃げる。だが闇の雫が空から降り、服を濡らした。意識を持っていかれそうになる。歯を食い縛り、顔を上げる。遠く、黄色い光が差していた。瞬はそこへ向かって駆けた。喉の奥が焼け付くようだった。脚はもつれて転びそうだった。
 自分を呼ぶ声がした。光が大きくなっていく。不意に体が軽くなった。振り返ると、闇は遠くで燻っていた。馬で駆けるような疾走感が体を抜けていく。不躾な眩しさに、瞬は目を強く瞑った。
 呼んで。僕の名前を。
 強い風が吹いた。青い草の匂いがした。汁の苦味が舌を射す。
「瞬」
 吸い込んだ息に噎せて目を覚ます。瞬は呼吸を荒くして飛び起きた。鼓動で耳が塞がれる。熱が滞っている。全身、汗で濡れていた。
 背中をさする手があった。振り仰ぐと、凍馬の笑顔があった。
「おはよう、瞬」
「凍馬……」
 口の中が乾いて、うまく声にならない。ひどい頭痛がした。
 部屋の中に明かりはないが、窓から差す光で室内は明るかった。手元に落ちる陽の光は暖かく、胸の奥にある氷が溶け出してしまいそうだった。
 終わったのだと理解した。鬼使はまた、自分の奥深くへと閉じ込められた。
「手間をかけた」
「一人で生きられないなら、一人になろうとするな。こっちが迷惑だ」
 凍馬は瞬の目を覗き込み、満足げに笑った。
「腹の傷はどう」
 言われて、自ら太刀を突き刺したことを思い出した。
「多少痛みはあるが、大したことはない」
 傷跡を指でなぞる。皮膚が引き攣り、動くたびに引っ張られた。それは凍馬が故意にしたことだとすぐにわかった。
「由稀は、無事か」
「当然。俺を誰だと思ってる」
「そうか。そうだな」
 安心した瞬は、背中から寝台に倒れこんだ。両手で目元を覆い、唇を噛んだ。流す涙などなかった。それでも抑えようのない後悔と自責の念が、歯の隙間から息になって洩れた。
 今まで多くの人生を奪ってきた。これがその報いだとしたら、瞬は未来が恐ろしくなった。自分のしてきたことを思うと、これだけで清算されるとはとても思えなかった。
 重ねた手の上に、凍馬の手が触れた。
「お前のせいじゃないよ」
 凍馬は静かに言った。
「全ての巡り合わせが悪かっただけだよ。俺が間に合ってよかった」
「相変わらずだな、凍馬」
 瞬は低い声で笑った。卑屈な自分に嫌気が差しながら、瞬はそれをとめることができなかった。
「相変わらず、心にもない、きれいごとばかりを言う」
「何のことだ」
「俺のせいじゃないだと。だったら何のせいなんだ」
 手を離して、凍馬を見上げる。彼の麦色の瞳は、瞬を哀れむようだった。視線から逃れるため、体を起こす。寝台へ腰かけると、強引に胸倉を掴み上げられた。何もわからないまま、顔を殴られる。
「いい加減にしろ、瞬」
 それでも凍馬の言葉は静かだった。瞬の口の中には、血が広がった。鉄の味に顔を歪める。だが、凍馬に抵抗する気概は欠片もなかった。
 凍馬は死んだような瞬の顔を、もう一度殴った。口の中に溜まっていた血が吐き出された。凍馬は瞬から手を離した。
「楽だろう、殴られるのは」
 静けさを越えて、冷たい声だった。瞬は寝台に手をついて、咳込んだ。赤い唾液が糸を引いた。
「楽だろう、何でも自分のせいにするのは」
 心を抉られるようだった。瞬は顔を上げて睨み返すことすらできなかった。凍馬の言葉は残酷なまでに瞬の心を露わにした。
「背負い込んだ風な顔をして、そんなにまでして哀れまれたいか。だったらいくらでも俺がお前を哀れんでやる。でもそれで何か解決するのか。お前が潰れてしまうだけだろう。そんなこと誰が望む。どうしてお前はそんなに、みんなの思いを裏切ろうとするんだ。そこまで自分への愛情に鈍感だと、それはもう罪の域だ」
 凍馬は床に膝立ちになって瞬の顔を覗きこんだ。両手を差し出し、殴った頬を包み込む。掌から、温もりが沁み込んだ。
「もう少し、周りを信用してくれないか。みんな、お前が想像する以上に、お前のことを見てるんだ。心配で、心配で、堪らなくなるくらいに。だから、もう少しでいいから器用になって。そして確かな希望を持って。もう、怯えなくてもいいんだ。幸せになっていいんだ」
 両手を頬に差し伸べたまま、凍馬は顔を逸らした。肩が小刻みに震えていた。瞬は凍馬が泣くのを、初めて見た。
 思えば、凍馬には助けられてばかりいた。彼に出会わなければ、自分はあの草原でとっくに息絶えていた。だが、自分は彼を助けることができなかった。それがずっと重石になって、胸の奥にぶら下がっていた。
 凍馬の頭に手を置く。死んだはずの友人に触れられることを、素直に嬉しく思った。
「凍馬、ありがとう」
 言葉が通り過ぎた喉に、安らぎが訪れた。口の中はすっかり治っていた。凍馬は柔和な笑顔でやり過ごそうとする。瞬には、涙の跡が見えた。
 凍馬は近くにあった椅子にかけ、何事もなかったように朗らかな笑みを見せた。
「随分と奇妙なことに巻き込まれてるんだね」
「あいつらか」
「一癖も二癖もあると俺は見たけど」
「そう、だな」
 瞬は煙草を取り出したが、箱も中身も血で染まっていた。とても吸えるような状態ではない。何度か火付け具の蓋を開け閉めして、未練を断ち切る。
「お前が言いたいのは、由稀のことか」
「当たり」
 凍馬は指を鳴らした。目を輝かせて、瞬を見つめる。
「鬼使のことだから見たんだろう、彼の中身」
「まぁ、一応な」
 瞬は煙草を投げ捨て、靴を履いた。足を組み、靴底が随分磨り減っていたことに気付いた。
「由稀の中には、由稀ではない誰かがいた。おそらく本体は今、洞窟に似た暗い場所にある。俗界ではないようだったが、それ以上の特定はできない。そして戦争の記憶が強かった。街がひどく燃えていたな。その同じ場所に、黒髪で背の高い男がいたように思うが、確かなことは言えない」
「結構微妙な内容だね。もうちょっと断定できることはないの」
「贅沢を言うな。あんな妙な相手を、そうそう見られるか」
「鬼使も落ちたね」
「結構だ」
 苦笑いを浮かべて、瞬は言い捨てた。凍馬は小さく笑った。だが彼の眉には、拭いきれない嘆きがあり、それが笑顔を曇らせた。瞬は凍馬の気持ちに応えようと、必死に思い出す。
「そういえば、杖のようなものを見た」
 記憶の中にぼんやりと残る形を、瞬は幻術として目の前に浮かび上がらせた。曖昧な部分は輪郭が崩れていたが、凍馬はそれに見入って唸った。
「へぇ。面白い形だね」
 杖の先端からは翼が左右に広がり、その根元から柄の中ほどまで紐状のものが巻きついていた。
「しかし凍馬。どうしてお前がそんなに興味を持つんだ。まさかここに残るつもりでもないだろう」
「俺は用事が済んだら姉さんのところに帰るよ」
「だったら」
「習性っていうか、ね」
 凍馬は幻の杖を握り、様々な角度から眺めた。
「由稀君には、封印術の形跡がある」
「封印術って、一体何を」
「形跡だから、今はもう封じられてないけどね」
「じゃあ、あいつがそうだって言うのか。由稀の中にいたあいつが封じられていた対象だと」
 凍馬は笑顔でそれに応えた。
「一体何のためにそんなことを」
「そこまでは知らないけど、これが鍵になるのかもしれないね」
 持っていた杖の先を瞬に向ける。瞬は指を鳴らして幻を消した。
 手の中の火付け具を握る。金属の冷たさは既に失われ、固さでしか自分との境目を確認できなかった。
「凍馬、茜は」
「彼女なら、先に下へ降りたよ。服を借りるって」
「そうか」
 火付け具に火を点す。揺らめきの中に、夢で見た光を探す。
「気付いてるかもしれないけど、紅君も来てるよ」
「だろうな」
「平気なのか」
「まさか。でもそれは向こうも同じだろう」
「生意気言って」
 凍馬は乾いた笑いをこぼして立ち上がった。大きく伸びをして、息を吐き出す。体がやや透けて見えた。《気波動》が足りない。琉霞と離れすぎた。
「ねぇ、瞬。俺、思うんだ」
 掌を見つめて、凍馬は消え入りそうな笑みを浮かべた。
「俺、死んでよかったかもって」
「凍馬」
「嫌だな。そんなに深刻にならないでよ。何となく、そう思うだけだからさ」
 凍馬は瞬が投げ捨てた煙草を拾い、顔の横で振った。
「お土産に持って帰るよ」
「もっといいもの持っていけよ」
「いいんだよ、これで」
 凍馬の体を光が包み込む。瞬はそこに夢の光を見つけた。
「みんなによろしくね。お別れできなくてごめんって」
「わかった。琉霞によろしく」
「うん。姉さん、喜ぶよ」
 最後の言葉は、凍馬の姿が消えてから瞬の中に届いた。
 瞬の足元には、血に染まった煙草が一本落ちていた。拾い上げて、火をつける。寝台に転がり、窓の外を見遣った。
 青空の隙間に白い世界が垣間見えた。