THE FATES

12.浄罪(3)

 扉の隙間から部屋の中を覗く。
「何やってんだよ」
 紅に後ろから蹴られ、由稀は部屋に転がり込んだ。
「お前、もうちょっと他にやり方ってもんがあるだろ」
「由稀」
 背後から亜須久の声がして、由稀は振り返った。そこにはささやかな笑みを見せ、亜須久が立っていた。
「はは。なんか変な感じだな。夜上がでかく感じないや」
 由稀は真っ直ぐ亜須久を見ることができなかった。腹の底に、罪悪感が沈んでいる。亜須久にはそれを見抜かれそうな気がしたのだ。
「元気そうで安心した」
「あ、あぁ。俺も驚くくらい元気でさ」
 笑って言葉を繋ごうとするが、顔は強ばって途切れた。
「あ、あのさ。街、どうなった」
 顔を上げられず、足元ばかり見ていた。小さくなった靴には、赤茶色の染みがあった。濃紺の絨毯が、大通りの石畳に見えた。隠し持った罪の意識が、由稀の喉を締め上げた。苦しさから逃れようともがく。理性が躊躇った藁を、本能が掴み取った。
「ごめん」
 謝ることで救われるとは思っていなかった。謝ることで許されるとも思っていなかった。それでも口をついて出たのは、由稀の弱さゆえだった。
 自分で選び取ったずるさが、舌の上に苦味を残す。責められたい気持ちと慰められたい気持ちが、激しく拮抗した。
「由稀、お前は想像したか」
 沈黙に染まった部屋の中で、亜須久の声は力強く響いた。
「もしもお前が動いていなければ、あのとき鬼使が結界を張らなければ、一体どうなっていたか、と」
「そんなこと、言われても」
「お前は今、それを想像してから謝ったか」
 今までと変わらない亜須久の飾らない態度が、由稀には心地よかった。責めるでも慰めるでもない、諭すような亜須久の声が、由稀の心に巻きついた罪の鎖を断ち切っていく。何よりも罪を罪たらしめるのは、ただ一つ。自らの心か。
 由稀は小さく首を振った。
「俺、逃げた。今」
 仲間を守りたい。その気持ちがあの時の由稀を突き動かした。だが、その純粋さが自己満足にも感じられて、不安になった。あまりにも強い不安が、由稀に自ら考えることを放棄させた。誰かに甘えたかった。認められたかった。
「結局は、俺がどう考えるか。だよな」
 人からどんな慰めの言葉をかけられようと、それを受け入れるのは自分自身であり、出来なければ誰の優しさも無意味だった。むしろ気持ちを受け止められない狭さに、心ががんじがらめになってしまう。
「俺は、みんなを守れたのか」
 顔を上げると、亜須久の微笑みに迎えられた。部屋の中にいる仲間を見遣る。そこには守りたかった笑顔があった。
「俺が、みんなに守られてたんだな」
 断片的に残る戦いの記憶は、由稀にとって夢の中の出来事に思えた。だが、全ての思いはその手の中に確実にあった。守りたい、守られたい。それは一つの心の表裏でしかない。由稀は仲間との絆に頬を緩めた。
 服から漂う甘い香りが濃くなった。
「きれいごとを」
 背後からの声に、由稀は息を呑んだ。
『無様だ。愛なんて、俺たちの何も救ってくれやしないのに』
 平穏を奪われた街の中で、神の愛を求め続けた男の呟きは、あまりにも孤独だった。だが由稀は、だからこそ彼の言葉を信じられた。もっと気持ちを上手に偽れるなら、彼は愛に似たもので満足できたかもしれない。飢え、求め、裏切られ、彼の中で愛という生き物は至高の存在になり、それゆえ自ら遠ざける孤独を生んだ。
 振り返ると、そこには美しいままの瞬がいた。倦怠も煩悶も惨苦も、罪ですら、彼においては一片の魅力にすぎない。全てが彼の足元に跪いていた。瞬の内側からは、涸れることない美しさが滲み出し、染み渡っていた。
 由稀は今さらながら、彼の艶やかな笑みに魅せられた。
「あれだけの恐怖を味わいながら、それでもなお、そんな子供染みたきれいごとしか出てこないとはな。見上げた奴らだ」
 混沌の瞳が、微笑みにしなる。由稀にはまだ彼の深淵は覗けなかったが、それをただ恐れることはもうなかった。自分の手の届かないものでも、そこにあるものとして受け入れることが出来た。
「夜上、御者らが馬車を出すと言っている。行ってやれ」
「わかった」
 亜須久は我に返り、部屋を出て行った。由稀は自分と同じように、亜須久も瞬に見とれたのかも知れないと思った。
「ほな、俺らも手伝いにいこか。弓菜」
「え、あ、うん。てか、なんで不破が仕切るの」
「だって俺、大通りの封鎖区域とか見てきたからな」
「あ、そか。たまには役に立つのね」
「たまって何やねん。たまって」
 不破は弓菜を連れて亜須久を追った。玄関を出ていくまで、二人の絶妙な会話は続いていた。
「つか、あれ誰」
「それがよくわからないんですよね。亜須久は知っているようなので、放置してるんですが」
「加依らしいな。放置って」
 由稀は苦笑した。いびつさは残っていたが、そこには確かに日常があった。故郷を出てから、共に歩いてきた仲間がいた。
 加依と視線が合う。由稀の不安も喜びも、全て見透かしたように加依は笑った。
「俺も手伝ってきます。この翼が必要になるかもしれませんし」
 魔族の象徴でもある翼を、加依はひどく嫌っていた。だが今の加依には、翼への嫌悪は感じられない。それが由稀には嬉しかった。
「羅依、私たちも行こうよ」
「え、なんで。あたし飛べないし」
 玲妥の眼差しに、心細げな陰がおりた。彼女は由稀へ物言いたげに口を開いたが、飲み込んで羅依の手を引いた。
「お屋敷の周り、ぐるっと見るの」
「う、うん。いいけど。足は平気なのか」
 羅依は玲妥の強引さによろめいた。瞬とすれ違いざまに顔を見上げる。しかし彼が視線を返すことはなかった。諦めた羅依は、玲妥の手を取って連れ立った。
 瞬の視線は、立ち去る羅依を追った。由稀はその横顔に、彼が持つ不器用な優しさを見た。
 指先に残る絶望は、まだ消えそうになかった。強さへの憧憬も、更に強くなった。だが憧憬が絶望を生み、穢れて嫉妬になることはもうなかった。瞬が抱えた痛みや、弱さや、嘆きや、力を持つがゆえの孤独を知って、由稀は彼を守りたいと思った。もう彼を一人にしてはいけないと思った。
 由稀からの視線に、瞬が振り返る。言葉はいらなかった。流し合った血が二人の思考を繋いだ。瞬が静かに微笑む。由稀は相好を崩した。
「俺、先行ってるから」
「ああ」
「来いよ」
「わかっている」
 人を突き放すようだった微笑みも、今では瞬の照れ隠しに見えた。同じものに触れても、同じ感覚を得られるとは限らない。全て自分の幅に拠っていた。
 ならば、何もできない、力が欲しいと嘆いていた自分にも、出来ることはあるはずだった。
 由稀は部屋から駆け出した。
 殺しあった傷跡が、確かな殺意を覚えていた。怒りが、痛みが、悲しみが、犯した行為を忘れさせてはくれなかった。だからこそ由稀は前を向いた。過去を捨てるでも、今を嘆くでもない。全てを抱えて前へ進むことを決めた。
 自分はまだ、知らなければならないことが沢山あった。自分の体のこと、心に潜む鬼のこと、竜族のこと、これから見つめる世界のこと。
 玄関の扉を開けると、鼻先を風が撫でた。遮るもののない空は、遠く広く、青かった。