THE FATES

2.偽装(4)

 六年前、羅依は母と共に人里離れた山奥で、ひっそり暮らしていた。毎日が平凡で特別だった。母の笑顔が大好きだった。
 羅依は近くの小川へ水を汲みに走った。体の弱い母に重いものを持たせるわけにはいかなかった。どんなにしんどい仕事でも、羅依は母の喜ぶ顔が見られるなら、何でもこなせると思っていた。ただ、母の笑顔だけを楽しみにして、偉いねと言い頭を撫でてもらえることを期待して家へ急いだ。しかし帰り着いた羅依を待っていたのは、母の笑顔ではなく、泣き喚く母の姿だった。
 母は見知らぬ男二人から手ひどく殴られていた。男たちは羅依には理解できない話をしながら、刀を振りかざした。小さな小屋の中で、銀色の刃先が光に濡れていた。
 助けなければと思ったが、自分にはどうすることもできなかった。刀は何度も母の体を貫いた。
 母の目が、羅依を捉えた。逃げなさいと口が動いた。
 羅依の中で堰が切れた。無尽蔵に流れ出す力に、母の上に馬乗りになっていた男は原形を失った。力はとどまるところを知らず、残る男を引き千切ると次には母にまで及んだ。女のものとは思えない母の叫びがして、羅依の力は収まった。近寄ると、母の体は無残に切り裂かれていた。羅依は体中の震えを抑えられず血だまりの中に座り込み、不明瞭な声を出し続けた。悲しみや後悔や怒りといった感情は、まだ理解できなかった。恐怖だけが羅依を支えた。
 母はいつものように笑いかけた。しかし顔の半分はすでに人のものではなくなっていた。
『泣かないで、羅依。いつの日か、こうなることは分かっていたから。大丈夫よ、あなたは強い子だもの。それにひとりじゃない。ここにはいないけれど、いつかお父さんに会える日がくる。そして、あなたと同じ顔のお兄さんにも』
 最期の言葉は直接心に響いた。
 羅依の手足は氷のように冷たくなった。血が通わない。涙は枯れた。心は錆び付いた機械のように動かなくなった。目の前にあるものが何なのかも認識できなかった。
 母の体から突然に放たれた痛いくらいの光に、羅依は視力を奪われた。瞼の裏に透ける世界が落ち着きを取り戻して、羅依は目をあけた。そこに母の姿はなく、代わりに大きな一本の剣があった。羅依は愛着を覚え、導かれるように手を差し伸べた。剣は再び輝きだし、痛みも違和感もなく羅依の体へと溶け込んでいった。
 羅依はその日、女を捨てた。

「あぁ……」
 羅依は苦しそうに歯を食いしばり、涙を流していた。それは泣いているというより、何かもっと神秘的な儀式のように由稀は感じた。
「羅依」
 立ち上がりかけた玲妥を、亜須久が引き止めた。唇を噛む玲妥に首を振って、彼は羅依と加依をじっと見つめた。
「俺たちが介入できるものじゃない」
「でも、夜上」
 食い下がる玲妥を、亜須久は強引に椅子へ座らせた。
「俺たちには何もできない」
 亜須久はそう言って玲妥を見下ろした。由稀を目顔で呼ぶ。彼はすぐに駆け寄ると玲妥を強く抱きしめた。
「大丈夫。泣いても誰にも言わねぇよ」
 いつになく穏やかな声に、玲妥は声なく泣いているようだった。亜須久は抱きとめてくれる兄がいる妹たちに、わずかな羨望を覚えた。
「羅依」
 加依が一歩羅依に近付く。小さくなって怯えている妹を、加依は眉を寄せて見つめていた。しゃがみ込み、彼女の頬に両手を伸ばす。
「いや」
 羅依は冷え切った手で加依を払いのける。構わずに加依は羅依の頬に触れた。真正面から羅依を見つめる。羅依は息苦しくなって、両手で顔を覆った。
「見ないで」
「見ますよ」
 加依の声は、押し潰されたように掠れていた。
「責めないで」
「俺がいつ責めました」
 加依は羅依の両手をとり、大きな手で包み込んだ。優しさが過ぎるほどの微笑みに、羅依は思わず首を振った。
「よく聞いて下さい。あなたが持っている剣は、古くから魔族の長に伝わっている物なんです。父上は長を引き継ぐ儀式として、生まれながら剣を宿していた母上を娶られた。そして俺と羅依は一緒に生まれてきたんです。一度、父上から聞いたことがあります。あの時、全ての時がとまればよかったと。剣を取り出すのと引き換えに、母上の姿が消えてしまうからです。そのまま一緒にいては、母上は父上の前で消えなくてはならない。そんな姿を見られたくないがため、母上は魔界を出られた。羅依、あなたを連れて。結果は、あなたが一番よく知っている」
 加依は目を伏せて、羅依の体を優しく抱き込んだ。生きた温もりが羅依の体に伝わってくる。心地よさに、気持ちが純化されていく。
「つらかったでしょう。こうなってしまったら、謝ることもできない」
「でも、あたしが殺したことにかわりない」
 加依の胸に額を押し付けて、くぐもった声で羅依は自責した。過ぎた非難は、浅ましい保身の塊だった。
「ちがう」
「あなただって、本当はあたしを憎んでる」
 繰り返される疑心は、ただ完全を求めるためだった。加依は気付いて抱く腕に力を込めた。
「俺は羅依を憎んだことなんてない。ただ一言を伝えたくて、ずっと探してた」
 加依の指がいとおしげに羅依の髪を撫でる。
「ありがとう」
 言葉は羅依の体に溶け込み満ちていく。羅依は加依の背中に腕を回して服を掴むと、喉の奥で彼を呼んだ。声にはならなかったが、彼に伝わったはずと信じて疑わなかった。
「ありがとう」
 加依は羅依の肩に顔を埋め、囁いた。
 窓は澄み切った濃紺に染め上げられていた。
 羅依は加依の腕に支えられて立ち上がる。玲妥は二人の元へ駆け寄った。
「羅依」
 見上げた先には、泣きはらして目を赤くした一人の少女がいた。
「ごめんな、玲妥。俺がこんな格好してなかったら、女の子一人じゃなかったのに」
「ううん、そんなことない。今は嬉しいから」
 玲妥はもぎたての果実のように頬を赤らめて、真っ直ぐ手を差し出した。
「あらためて、初めまして」
 羅依はかすかに戸惑いを見せたが、はにかんで手を取った。
「よろしくな、玲妥」
 手を離すと羅依は加依に向き直り、胸に手を当てた。徐々に光が集まり、彼女が手を突き出すと大きな剣が握られていた。
「これ、本当はあんたの物なんだろう。だから」
 羅依は俯いて剣を加依に押し付ける。加依は顔を緩めると、羅依の手を上から握った。
「これは羅依が辛い思いをして手にした物です。俺はいりません」
「でも、そんなの」
 勢いよく顔を上げ、羅依は加依に食い下がる。加依は必死な羅依の表情を笑顔で眺めると、彼女の口元に人差し指を当てた。
「剣はいりません。その代わり言葉遣いを直して下さい」
「は」
「もしも本当に俺に悪いと思っているなら、言葉のひとつやふたつ直るでしょう」
「ちょ、ちょっと待てよ。なんか話が」
「違うことないですよ。言ったでしょう。元に戻してあげると。そうですね、まず手始めに自分のことを俺と呼ぶのはやめてもらいましょうか」
「そうだよね、羅依は女の子なんだもんね」
「なんで、玲妥まで」
「人は正しい方に傾くものなんですよ、羅依」
 羅依は口を尖らせて黙りこむ。加依は羅依の沈黙を承知と受け取った。
「あのさ」
 由稀は遠慮がちに口を開いた。
「何ですか」
「なんで昼間と違うの」
「ああ、あれですか。あれは羅依を探すための変装用です」
「なんだそれ」
 由稀は眉をしかめた。加依はそれに極上の微笑みを返す。
「昔、亜須久が言ってくれたんです。同じ顔の妹なら、お前が女装すれば見つけやすいんじゃないかって」
「本当にするなんて誰が思う」
「実際その通りになったじゃないですか」
「でも俺、あ、あたしが男の格好してるって、知ってたんだろ」
「その時は知らなかったんですよ。わかった時点でやめてもよかったんですけど、ほら女の格好していると、得なことが多いでしょう」
 整えられた微笑みの分だけ、周りは黙ることしかできなかった。

2章:偽装・終