THE FATES

12.浄罪(4)

 空色の髪が扉の向こうに消えて、瞬は部屋の中を振り返った。長椅子に寝転がる少年に、視線が吸い寄せられる。喉に名がこみ上げたが、瞬は堪えて呑み込んだ。
 記憶の中の紅は、まだ言葉を覚えたての幼子だった。幻術で色々な景色を見せると、喜んで声を上げた。甘え上手で、抱いて欲しいがために空寝をした。眠るときは、必ず誰かの指を握った。
 それが今は、寝転がって煙草を吹かしていた。まだ少年には違いなかったが、瞬の記憶とは程遠かった。アミティスと天水の時間の差は、あまりにも残酷だった。
 瞬は紅が過ごした時間を想像した。彼が受けたであろう苦しみを思い描いた。だがどんなに過酷な想定をしても、紅自身の苦しみに触れることは叶わない。あらためて、瞬は自分が逃げ出したことを痛感した。全て一人で抱えたつもりが、むしろ何もかもを捨ててきたのだと思い知らされた。
 記憶と変わらない、紅の鮮やかな橙色の髪が風にそよいだ。
 卓の上に置かれた、銀色の煙草入れに気付く。それはかつて瞬が使っていたものだった。葛藤が瞬の胸を焦がした。
 紅が灰皿を持って起き上がった。面差しは、幼い頃の瞬にも似ていたし、茜にも似ていた。紅は背中を丸めて立ち上がり、扉へ向かって一歩を踏み出す。瞬を見据えて、視線を逸らさない。伸びた前髪の隙間から、新緑の瞳が瞬を睨みつけた。瞬はそれを人形の冷たさで受け止める。だが二人の牽制が、衝突を引き起こすことはなかった。お互いが最後の詰めを避けていた。
 新緑の瞳が射抜こうとする深緑の瞳は、抑揚を手放し感性を閉ざしていた。新緑は必死にこじ開けようとするが、その青さでは届かない。むしろ飲み込まれそうになる。樹海の悲しみが、孤独が、いくら拒んでも流れ込んでくる。
「そんな目で俺を見るな」
 紅は苦し紛れに吐き出した。なけなしの言葉に、力はない。
「お前なんか」
 苦しさに目を細めて、取り巻く樹海を薙ぎ払う。
「死にやがれ」
 紅は傷ついた獣のように足を引き摺り、部屋を後にした。
 残された瞬は薄茶色の髪をかきあげ、深いため息をついた。押し殺した紅の声が耳の底に残り、いつまでも反響した。打ち消そうと頭を振るが、残響が瞬を責め立てる。頬が痙攣した。
 全てわかっていたはずが、どうしてこんなに苦しいのか。どうしてこんなに悲しいのか。心は寂寞として打ち震えた。
 そばにいた頃から、自分が父親だと思ったことはなかった。瞬にとって飽くまで紅は茜の子であり、自分の子であるという認識はなかった。それはしかし、そばにいたからこそ、小さな手で求めてくれるからこそ弁えられた。
 風に煽られ、灰皿から灰が舞った。感情が、喉元から爪先を抜けた。窓に大きな亀裂が入った。
 慟哭は続く。だが瞬の深緑の瞳に涙はなかった。

 茜の手招きに応じて馬車に乗ると、不破と弓菜がすでにいた。馬車の動き出しは揺れがひどかったが、進みだすと小さな振動が心地よかった。瞬は後ろ向きに座っていたので、窓から見える景色は横から現れ遠ざかっていった。小さくなっていく屋敷を眺め、二人の自己紹介を上の空で聞いた。
「じゃあ、茜さんはこれからどうするの。天水へ帰るんですか」
「まだ決めてないけど、瞬次第かな。ねぇ聞いてる、瞬」
「え」
 茜に袖を引かれ振り向く。
「何の話」
「やっぱり聞いてない。これからどうするかの話。みんなと行動するの?」
「いや、俺は無理だろう」
「どうして」
「部外者の俺が首を突っ込むことでもない。神殿前で別れ――」
「あ、それはないで」
 不破が瞬の言葉を遮って言った。
「青竜が連れてきてほしいって言ってたからな」
「青竜。誰だ」
 瞬は足を組みなおそうとしたが、向かいに座る弓菜に当たりそうだったのでやめた。弓菜はにこりと笑った。
「学者風情の男や。今回の伝説の総指揮を執ってる」
「さっき一緒にいた人ね」
「会ったのか」
「えぇ。不破さんとは別行動をなさったみたいだけど。背の高い、黒髪の男性よ」
「へぇ」
 興味なさげに呟きながら、瞬は由稀の内に見た男を思い出していた。
「大体、お前たちの言う伝説っていうのは、何のことなんだ」
 馬車の速度が遅くなった。外を見ると、細い裏道は混み合っていた。大通りが閉鎖されているため、人が溢れていた。埃で汚れた少年と目が合う。
『死にやがれ』
 瞬は窓から目を逸らした。
「血に導かれしその者たち、強大なる力を持ちて、すべての世界あやつらん。守護人ありてその者たちと共に、魔を滅ぼす」
 不破は得意げに諳んじて、八重歯を見せて笑った。
「あんたでも知らんことがあるねんな」
「何でも覗き見る趣味はない」
 低い声で言い返して、瞬は黙り込んだ。伝説を知ったきっかけが、羅依の中を覗いた時だとは言えなくなった。自分にはなくても、鬼使にはその趣味があった。
 遠い記憶の羅依を思い出す。夜の光の下で見た淡紫色の髪は、闇に染まらず美しかった。殺すのを躊躇うほどに、魅惑的だった。触れると、連れ去りたい衝動に襲われた。その時、アミティスでの全ての情熱を失った。
 手土産に覗いた羅依の記憶に、伝説の一節が刻み込まれていた。天水に帰ってから調べたが、手がかりは一つとしてなかった。
「一体、何をしようとしてる」
「封印や。おい、弓菜。まな板で世界地図出してくれや」
「命令しないでよね」
 文句を言いながらも、弓菜は鞄から大きな鏡を取り出し、その表面にアミティスの世界地図を浮かべた。
「完璧やな」
「当然」
 不破は鏡に映る大陸を指した。
「これがアミティスの全部や。精霊界、魔界、竜樹界、ほんで俺らが今おる俗界や。伝説の中の、血に導かれし者ってのは、四つの世界を繋ぐ者でないとあかん。せやからあいつらはみんな混血やろ」
「私たちもね」
「まぁ、その話はあとや。由稀、亜須久、玲妥ちゃん、羅依ちゃんは、それぞれの代表やと考えてもらったらええわ。それが扉の番人」
 大陸の上に、不破は銀色の硬貨をそれぞれ置いた。
「アミティスには古くから禁忌が定められてきた。それは神様が決めたんかもしらんし、その時々によって権力者が決めてきたものかもしらん。けどそれは世界の秩序の中に確かに組み込まれてて、禁忌を犯すものが増えると、世界は戦乱や飢饉や災害で荒れた」
 馬車が細い通りを抜け、大通りの封鎖域から出た。舗装された馬車道は、車輪の音がよく反響した。
「それを全て排除するのが、扉の番人や。番人は運命によって導かれて、罪人を逆賊世界へ追放する。世界を繋ぐ、扉の番人なんや」
 瞬は不破の言葉に、時おり嘲笑を感じた。
「ほんで、俺とか弓菜は、その番人を補佐する守護人」
 銀色の硬貨の横に、不破は銅色の小さな硬貨を二枚ずつ並べた。
「よくまぁ、こんなに小銭ばっかり持ってるものね」
 弓菜は不破の上着の膨らみを見て呆れた。
「やかましい。ま、この十二人で、世界を混乱から救うわけや」
「なるほど。しかし奇妙な話だな。運命が導くという割には、あいつらは強制的にここまで連れてこられたように見えるが。その青竜とかいう男に」
 肘掛けに頬杖をつき、瞬は不破を見遣る。
「まぁな。そう言われても仕方ないわな。俺にもそこまで詳しいことはわからんのやけど、もしかしたらあいつは番人を運命に任せず、人の手で管理しようとしてるんかもしらん」
「それは……」
 もし本当に伝説が現実に力を持つなら、それは絶対不可侵の神秘の領域だ。だが人は進歩と奇跡に魅せられ、手を伸ばす。人は無意識に神を目指す。
 瞬は先を言いかけてやめた。言葉が自分へ返ってきそうだった。罪を正当化するため、指先に触れた茜の手を握った。
 沈黙を不破が奪う。
「無茶なことかもな。でも、やってみる価値はあると思うで。だってあいつは、この広い世界から番人を探し出したんやからな」
 鏡の上に置かれた硬貨を一枚ずつ集め、不破は笑った。八重歯が覗く無邪気な笑顔に、瞬は不破の仮面を垣間見た。
 窓に切り取られた、遠ざかっていく景色の中に、日焼けして色褪せた写真を見つけた。自分の闇を消し去らない限り、写真の微笑みが背中にべっとりと張り付いている気がした。見張られている。また入れ替われるときを待っている。逆さに吊られて、血を流して、叫ぶことが出来なくても。痛みに濡れた深緑の瞳を向けて。
「もうすぐよ、もうすぐリノラ神殿につくわ」
 同じ窓から外を見ていた弓菜が、明るい声で言った。彼女は瞬に気遣い、鏡を窓に翳した。鏡には街の向こうの白い建物が映っていたが、瞬は横目に見ただけで首を振った。
「ごめんなさい、眩しかった」
「いや、いいよ。ありがとう」
 瞬は力なく微笑んで、また過ぎていく景色を眺めた。確かに彼女の言ったように、神殿の白い景色は自分には眩しかったのかもしれない。
 ほどなくして馬車が停まった。瞬は先に降り、弓菜の手を取った。
「何度か足が当たっただろう」
「平気。狭い馬車の中だもの。仕方ないわ」
 弓菜は品のいい礼をして、鞄を担いだ。鞄は開いていて、隙間から鏡が瞬いた。源を追って振り返ると、真上から光が降り注いでいた。
 瞬は二年前に訪れたときのことを思い出していた。あのときは夜だった。潮騒に導かれてここまで来たが、栄えた街並みと青白い神殿に嫌気が差して立ち去った。あまりにも整然として、あまりにも美しすぎた。さらに、潮騒が瞬の思考を乱した。
 溢れる光の中に、神殿を見上げる。そこから見下ろせる街も眺めやる。しかし、心には嫌悪の端すら浮かばなかった。もう何も感じられなくなってしまったのか。それとも。
 自分は一体いつ病んでいたのだろう。
 冷たい指が触れた。茜が腕に寄り添っていた。彼女は濃紺の瞳を眩しさに細めた。
「大きな街だね」
 まるで昨日もそうしていたように、彼女は静かに言った。
「ああ」
 病んでいたのは、あの頃だ。
 見上げると、神殿の影に空が消えた。