THE FATES

12.浄罪(5)

 由稀はリノラ神殿の大きさに唖然とした。柱は太く、数人で手を繋いでようやく囲めるほどだった。柱頭には左右対称の彫刻が施され、神殿を形作る白い石材は、翳って薄灰色に見えた。旅の途中、いくつもの神殿や祠を見てきた。どれもその土地の人々に愛され、大切にされているのがわかった。だが、ここは違った。リノラ神殿は、人が愛する許容を越えた、神の懐の内だ。無音の威圧感に、耳の奥が鳴った。由稀は息も忘れて佇んだ。そうしていないと、押し潰されてしまいそうだった。
 馬車から降りてくる紅が見えて、由稀は駆け寄った。声をかけようとするが、瞬を追う眼差しに気付き、立ち止まった。
 階段を行く瞬の背中は、紅の視線に気付いていた。だが振り返ることはなかった。風にはためく服の膨らみに、戸惑いが隠されている。交わらない敵意と負い目が、南国の強い日差しに焼かれて溶けた。蒸発していく感傷を置き去りにして、瞬の姿は見えなくなった。
 紅は肩の力を抜いて、煙草入れを取り出した。火をつけようとするが風が強く、なかなかつかない。由稀は彼の正面に立った。
「これでつくか」
「あ、あぁ」
 紅は小さく礼を言って、由稀の陰で火をつけた。紅の煙草は、瞬と違って爽やかで突き抜けるような香りがした。
 紅は俯きがちに階段をのぼる。由稀はその後に続いた。
「何か、話したか」
 丸い背中に声をかける。しかし返事はない。由稀は一段飛ばしで階段をのぼり、紅の横に並んだ。
「さっき、瞬と」
「気、使ったわけ」
「そういうのじゃないけど」
 冷ややかな紅の眼差しに、由稀は思わず口篭った。紅は喉の奥で短く笑った。
「由稀、お前さ、何を勘違いしてるのか知らないけど、家族ってやつみんなが仲良しで楽しいわけじゃないんだよ」
「そんなこと……」
「いや、わかってないよ、お前は。俺、お前のこと嫌いじゃないよ。でもそういうお節介は本気で面倒だからやめてくれよ。きっと両親に愛されて、周りに大事にされてきたんだろうな。そんなお前に、俺が味わってきた苦しみがわかるはずがない。わかってたまるものか」
 紅は吸いかけの煙草を強く投げ捨てた。煙草は跳ねて、階段から落ちていった。由稀は返す言葉を持たなかった。
 確かに由稀には、紅の悲しみも苦しみもわからなかった。おそらくどんなに想像しようとしても、及ぶことがないと思った。それでも彼らが向き合うことを願う気持ちは揺るがなかった。
「だったら聞かせてくれよ。お前が見てきた世界」
「え」
 紅は怪訝に由稀を見上げた。由稀は紅の刺々しい新緑の瞳に、かすかな期待を見抜いた。
「俺は紅が言うように何も知らない。お前と同じ境遇に立つこともできない。でも、知ることを諦めたくはないんだ」
「正気かよ、馬鹿じゃねぇの」
「馬鹿でもいい。それでも、何もしないで、何も知らないで諾々と過ぎていくのだけは嫌なんだ」
 知ったとて自分に出来ることなど知れていた。これはただの自己満足に過ぎないともわかっていた。だが由稀はすれ違うことよりぶつかり合う方を選びたかった。慮っても傷つけ合うなら、最初から殴り合えばいい。
 紅は階段の途中で立ち止まって、その場に腰かけた。
「煙草吸う間だけな」
 体を丸めて煙草に火をつけ、紅は歯切れ悪く言った。由稀は紅の一段上に座った。
「天水で龍羅飛の血を引く者として生きることは、お前らが想像する以上に過酷なことだ。龍羅飛は天水の敵。そして闇に葬られた一族だ。存在するだけで悪なんだ。それに俺は天水王家の血も引いてる。城の中では不義の子として見られることも、少なくなかった。表向きは笑顔でも、背中を向ければ誰もが俺を蔑んだ」
 紫がかった煙草の煙は、風に流されすぐに千切れた。
「それにこの顔だ。俺もさっき見て驚いた。誰だよ、俺とあいつは似てないとか言ったやつ。気持ち悪いくらい、そっくりじゃねぇか」
 紅は風に乱される髪を押さえて俯いた。肩が震えている。笑い声がしていた。
「俺の存在なんてのは、あってはいけないことだったんだよ。もし世界に神様なんてのがいたなら、俺は戯れの畸形児だ」
 吸わないまま、煙草はじりじりと短くなっていった。由稀はそれを磨り減っていく紅の心と重ねて見た。
「あってはいけない命なんて、ない」
「はは。由稀は本当にきれいごとが好きだな。それは無知か、それとも偽善か」
「偽善なんて!」
 由稀は昂りを抑えられなかった。紅は気に留める様子なく、煙を吐いた。
「そういうのが面倒なんだってば。俺は別に由稀の気遣いが偽善でも一向に構わないよ。俺とあいつのこの絶望的な関係見てれば、誰だって慰めの一つも言いたくなるだろ。いいよ、それを否定しようとはしないから」
 紅は由稀が惨めになるほど爽やかだった。
「茜が来るって言ったから来たんだ。茜の気持ちを優先したいんだ。俺は茜の寂しさをずっと見てきた。それを、あいつに思い知らせてやりたい」
 外からの強い風が、終わりを更に加速させる。灰は生まれた瞬間から風に消え、赤く蠢く火の塊が光の中でちっぽけに輝いていた。
 紅は靴裏で煙草を消した。
「終わり」
 世間話でもしていたような身軽さで、紅は立ち上がり階段をのぼっていく。由稀は慌てて追いかけた。
「だったら」
 由稀は紅の肩を掴んで引き止めた。
「だったらなおさら、あいつに言わなきゃいけないことがあるだろ!」
 振り返った紅の瞳は覇気がなく、抜け殻のようだった。
「残念だけど、終わったんだ」
「何が」
「この話が、だよ」
 涼しげな鼻梁が、由稀の行為を突き放す。だが由稀は掴んだ紅の肩から、悲しみが流れ込むのを感じた。由稀はこの悲しみに覚えがあった。腕輪のあった場所が痺れる。瞬の孤独が見せる悲しみに似ていた。
 由稀は紅の肩から手を離した。紅は先に階段をあがっていく。由稀は胸元の痣を押さえて立ち尽くした。瞬と紅の存在があまりにも悲しかった。
 二人は会えるのに、本当の家族なのに、なぜこんなにも離れようとするのか。なぜそんなにも相手を否定しようとするのか。由稀には理解できなかった。味わった苦難が何だというのか。神の戯れなど、好きにさせればいいではないか。自分は生みの親が生きているのかもわからない。似ていると言ってくれる人もいない。親が生きている、ただその一点だけでも、由稀は紅が羨ましくて仕方なかった。
「お前だって、何もわかってないだろ」
 紅の姿が階段の向こうに消えるのを見送って、由稀は街を振り返った。青天に守られ輝きに溢れた街は、広げた掌にすっかり収まった。

 階段をのぼり終えると、列柱廊に囲まれた空間があった。中央壁際には祭壇が設けられ、その石段に仲間の姿が見えた。淡い灰色の石材が敷き詰められ、吹き抜けから落ちる白い光が際立つ。そこに生命の鼓動はない。石と光があるだけだった。だがそれこそが神の降りる場所に相応しかった。
 由稀は海風の湿りを肌に感じ、鳥肌を覚えた。そこには確かに、神の息吹があった。
 息をすることも憚られるような、清らかな空間だった。光も風もあたたかで優しいのに、その陰には必ず冴え冴えとした眼差しがあった。
 神殿に靴音が響く。由稀はなるべく静かに歩いた。祭壇の下まで行き、見上げる。光が幾筋にもなって祭壇を照らしていた。突き刺さるような正確さだが、決して激しさはない。
 澄んだ空気が由稀の思考を祓い清めていく。胸の内に溜まった感情の膿が、禊を受けて跡形もなく消えていく。赦されて解き放たれた心が、深呼吸をして透明の羽を伸ばす。
 体や心が浄化されるのではない。それは魂の浄化だった。
 神殿を構成する白い石から、由稀は冷たさを感じていたが、それはむしろ本来の優しさに近いのだと気付いた。中途半端ではない突き放しと、どこにいても離れることのない視線。それは非情か慈悲か。
 由稀は、亜須久と話す瞬を見遣った。
 瞬は圧倒的な力と破壊的な人格を秘めていた。鬼使は吐息の一つにも世界への憎しみを込め、眼差しの先には崩壊を描いていた。それは狂気そのものだった。彼がその気になれば、自分などおろか、世界ですら一瞬で消え去るだろう。それは神の概念と何ら変わりはなかった。
 神と狂気は紙一重だった。
 鬼使が神になれなかったのは、彼を赦してくれる神がいなかったから。彼を求めてくれる人がいなかったから。孤独の中で鬼使は歪み、強大な力だけが残された。決して望んだ結果ではない。だが逆らっても、流れに呑まれた心は脆かった。
 由稀は再び祭壇を見上げた。胸に競り上がる願いがあった。
 彼が犯してきた罪は、簡単に償えるものではない。多くの命を奪い、人生を狂わせ、運命を捻じ曲げた。その罪は重く、到底赦されるべきものではなかった。それでも由稀は願わずにはいられなかった。
 不器用な優しさが好きだった。的確な判断力と聡明さが好きだった。人形のように美しい顔が好きだった。甘い煙草の香りが好きだった。放っておけなかった。
 由稀は佇み、祈りを捧げた。
 彼を、赦して下さい。
 どうか、この光に包まれますように。彼に、未来と幸福を。
 瞳を閉じると、瞼の裏が熱くなった。