THE FATES

12.浄罪(6)

 青い空と海を、青灰色のネリオズ宮殿が繋いでいた。真下に見える貴族の邸宅は鮮やかな塗料を屋根に塗りつけ、さながら南国の果物のようだった。
 由稀は柱に寄り添い、生まれて初めての海を目に焼き付けていた。波間は光を弾いて色を失い、水平線は遠く霞んだ。始まりを感じさせず、途切れ目もない海は自由だった。
 肌に触れる光は力強く、じっとしていても汗が流れた。すぐ横には、下り階段に腰かけた不破がいた。横目に盗み見ていると、不破は前を向いたまま笑った。
「ここは故郷と違って暑いやろ」
「知ってるのか、ラルマテアを」
「そこまで行ったことはないけどな。それでもめっちゃ寒かったわ」
 不破は体を抱いて腕をさすった。由稀は小さく笑った。
「魔界出身なのか」
「いや、俗界やで。もしかして、この訛りのことか」
「ああ。店で魔族の訛りを聞いたことがあるけど、不破ほどはっきり話す人はいなかったから」
「せやろな。加依もせやけど、大体が隠しよるからな」
 遠い空を見つめて、不破は静かに言った。
「俺が隠さんのは、せやな、俺の中の愛憎がそうさせるんやろな」
「愛憎……」
 思いがけない言葉に、由稀は窮した。不破は何事もなかったように、由稀を振り向いて笑った。大きな口から覗く八重歯が人懐っこく、由稀は安心した。
 階段の下に、人影があった。女のようだった。
「あ、誰か来た」
「ようやくか。おーい、こっちやで」
 不破は立ち上がり、大きく手を振った。女は不破に気付き走り出す。しかし、数段のぼったところで潔いほど転倒し、顔面から階段に突っ込んだ。
「奇跡の女やな、あいつは」
 不破は階段を駆けおり、手を差し伸べた。女はへらへらと笑いながら不破の手を取った。由稀はそれを上から眺めて、笑顔になった。
「なんでそう、お決まりでこけてくれるんかな。ほんますごいで紫月(しづき)は」
「えへへ」
 紫月は頬を赤らめて笑った。
「いや、褒めてへんから」
 不破は呆れて苦笑した。
 階段をのぼり切ると、紫月は由稀に向かって深く頭を下げた。
(たまき)紫月です」
「あ、由稀です」
 由稀もつられて頭を下げた。顔を上げると、紫月に前髪を引っ張られた。
「きれいな色ですねぇ」
「ありがとう。てか、いや、あの、若干痛いですけど」
「わぁ、ごめんなさい」
 慌てて手を離すのかと思ったが、紫月は笑顔のまま由稀の髪を引っ張った。
「大丈夫です。痛いことはしません」
「えーっと、あの」
 対応に戸惑っていると、間に不破が入ってきた。髪から紫月の手が離れた。
「悪気はないねんけどな、だいぶ天然やねん」
「それはわかるけど」
 由稀は引っ張られた部分をさする。何本か抜けたかもしれない。だが不思議と痛みはなかった。紫月は見た目では由稀より年上に見えたが、笑顔は年端もいかない少女のようだった。
「なぁ紫月。宮殿には自分しかおらんかったんか」
「はいぃ。世維(せい)さんは復旧作業のために行ってしまったみたいですし」
「青竜は」
「えぇっと、青竜さんはこっちにいるはずですけどぉ」
「なんや、こっちて。まさか地下書庫か」
「多分そうだと思いますぅ」
「あほらし。すぐそこにおったんかいな。まさか鍵かけてへんやろな」
 不破は踵を返し、祭壇へと歩き出した。由稀は不破の行方を目で追った。
「あの、地下書庫って」
「この神殿の下には、大きな書庫があるんですよぉ」
 紫月は両腕を広げて大きさを示す。しかし由稀にはあまり伝わらなかった。不破は祭壇の横を通り抜け、やや陰になった所で立ち止まった。足元に一箇所だけ色の違う石がある。しゃがみ込んで窪みの金輪に指をかけると、床が持ち上がった。
「おい、青竜。お前何しとんねん。出てこいや」
 開いた扉を傾けて固定し、不破は中へ呼びかけた。祭壇の下にいた羅依や玲妥が何事かと振り返る。紫月が不破の方へ歩み寄ったが、由稀は追いかける機を逃して立ち尽くした。
「騒々しい人ですね」
 中から男の声があった。覗き込んでいた不破は一歩下がり、道を譲った。由稀からわずかに見える階段が、昼間の光とは違う、燭台の赤い光に染まった。その光の中に、凹凸を感じさせない黒髪の頭が進み出た。
「そんなにがなり立てずとも、聞こえています」
 低く落ち着いた、しんしんと降る雪のような声だった。由稀は彼の声を聞いて、その場から動けなくなった。口の中がひどく乾いて、何度も唾を飲み込む。胸は高まり、耳朶が熱くなる。
 由稀はこの声を知っていた。由稀の中の鬼が、知っていた。
 地下から出てきた男は背が高く、姿勢がよかった。髪はやや不揃いで、前髪は目にかかるほどだった。強い風に髪が煽られ、黒い瞳が覗く。彼の双眸は刃で斬りつけたような鋭さで、氷のような冷たさを併せ持っていた。尖った鼻梁や薄い唇に、人の持つ温かみは一切感じられない。
 それでも由稀は、初めて会ったこの男に強く惹かれた。
 長い指が燭台の蓋を開ける。息を吹きかけなくても風が炎を奪った。
「ほな、はよ出てこいや。俺らが来たのんくらい、気ぃついてたんと違うんか」
「申し訳ありません。下にいると、大地震でもない限りわからないので」
「ふん。そうかいな」
 不破は激しく顔を背けて、男から離れた。男は不破の背中を見送って、口元だけで少し笑ったようだった。
 紫月が駆け戻ってきて、由稀の手を引いた。動き出す瞬間、足の裏から根が引き抜かれるような音がした。体の繋ぎ目が軋んだ。紫月の手はあたたかかった。
 斜め後ろから、男を見つめる。相手からは見えないはずなのに、見られている気がしてならなかった。
「皆さん、遠いところまでご足労をおかけしました。青卑竜(せいひりゅう)慶栖(けいす)と申します。どうか、青竜とお呼びください」
 痩せぎすの筋張った顎が、からくり人形のように正確に動く。由稀は青竜の頬のあたりを強く見つめた。そうしていないと、自分を保てそうになかった。自分の中に潜む鬼が、のそりと身を起こした。指先が痙攣し、由稀は誰かに悟られまいと握り締めた。
 肩越しに青竜が振り返った。まるで鬼の侵食を見透かしたように、彼は目を細めて微笑んだ。
 拳から力が抜ける。湿った海風が汗ばんだ首を撫でる。耳鳴りの奥に響く叫びがあった。指先は、もう震えていなかった。
 由稀は初めて鬼に触れた気がした。

12章:浄罪・終